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弥生萱草色(かんぞういろ)#f8b862最初のページ戻る次へ

概 要

目 次

  1. 浦島太郎のモデル
浦島太郎と似た説話に、海幸・山幸神話がある。武内宿禰も長生きだし、

7.浦島太郎のモデル

 蓬莱山(竜宮城)とは仙人が住むという伝説の山であり、古代中国の不老不死を願う神仙思想が背景にあり、海のかなたの東方に、仙人が住む孤島があり不老不死の薬があるという島である。 神仙思想は古代中国の陰陽五行論ともつながり、劇中登場する亀の色の五色も五行論からきている。その蓬莱山が後の時代に竜宮城へと変化していった。その内容から神仙思想を基にして古代日本の貴族が書いた官能小説ともとれる。

 浦島太郎と似た説話に、海幸・山幸神話がある。天皇の祖神、山幸彦が「塩土老翁」(しおつつのおじ)という神に「無目籠」(まなしかたま)という水の入らないかごに乗せられ、海神の宮(わだつみのみや)に行き、海神(わだつみ)の娘、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し3年間暮らし生まれ故郷に戻り禁(タブー)を破る話の大筋がそっくりであり、また『古事記』に著される山幸彦の孫の初代神武天皇がヤマトに向かう際、亀に乗り釣竿を持った男が水先案内人になる場合があり、この2人の人物は不思議と浦島太郎に似ています。

 浦島太郎のモデルとなったとされる人物として、『万葉集』に「墨吉」(すみのえ)の人の記述があり、これは今も大阪の住吉にあり住吉大社に祭られている住吉明神の事であり、別名、「塩土老翁」といい大変長命長生きであったとされ、そのモデルとされる武内宿禰も大変に長生きです(しかしながら人間の寿命をはるかに超越しているため多分にフィクションともとれる)。

 また塩土老翁は大和朝廷の天孫降臨を導びき、神武天皇の東征をうながした謎の神であるとされる。また武内宿禰は古代豪族、蘇我氏の祖とされ応神天皇の東征を導いたともされています。

 塩土老翁は神武東征の案内役を促し、武内宿禰は応神天皇の東征を導く。神武東征と応神天皇の東征はルートも似ており神武と応神天皇も同一人物ではないかとの見方も見て取れる。

倭宿禰(やまとのすくね)

倭宿禰命(やまとのすくね) 元伊勢籠神社

 元伊勢の創祀以来の祀職である海部氏は神代以来血脈直系で世襲し、大化改新以前は丹波国造であったが、その後祝部となり現在で八二代を数えている。

 倭宿禰命は、海部宮司家の四代目の祖で、神武天皇が東遷に向かう途中、明石海峡で亀にのって現れ、神武天皇を河内や大和の国へ先導したことにより、大和建国の第一の功労者として倭宿禰の称号を賜った。倭宿禰は尾張の国とつながりの深い海部氏の祖でもあります。

   この像がある元伊勢籠神社は丹後半島の付け根ともいえる位置にあり、伊根にここは古代において海人との関係が深い地域です。尾張地域(愛知県西部)に海部郡(あまぐん)とよばれる地域があります。尾張は古代の豪族尾張氏が支配していた地域で、伊勢湾一帯を地盤とし、日本海からの海人(あま)一族と結びついて大豪族となりました。天武天皇の元の名は大海人皇子(おおあまのおうじ)で、乳母が尾張出身だったのでこの名が付けられたと言われます。海部は「あま」とも「かいふ」とも読むことがあります。

海幸彦・山幸彦神話

 日南海岸 青島は「海幸・山幸」神話の舞台です。この話を古事記も日本書紀もともに伝えています。

 ある日のこと、弟のホオリノミコトは兄のホデリノミコトには互いに釣り竿と弓矢を取り替えてみようと提案しました。そして、兄は山へ、弟は海へ出かけました。しかし、二人とも獲物をとることはできませんでした。そこで兄は弟に「やはり本来持つべき物を持って、本来の場所へ出かけないと何も得られないから、道具を返すことにしよう。」と言いました。ところが、弟は魚がとれないばかりか、兄の大切な釣り針を海でなくしてしまっていたのです。それを聞いた兄は激怒してしまい、とにかく返せと責めてきました。そこで、自分の剣(十拳剣:とつかのつるぎと言われる剣)をこわして500本の釣り針を作り、それを持って行って償おうとしましたが、「なくした釣り針以外はいらない。」と言って許してはくれませんでした。次に1000本作って持って行っても「元の針でなければだめだ。」と言われて困ってしまいました。

 どんなに探しても元の針を見つけることはできません。困り果てて泣きながら海岸にたたずんでいると、潮路の神で塩椎神(シオツチノカミ)という老人と出会いました。山幸彦がわけを話すと、老人は竹で編んだ籠(かご)を作って小舟としました。そして、「この船に乗って海の国へ行きなさい。」と言いました。「私が小舟を押し流したらそのまま進みなさい。そのうちよい潮にぶつかるので、その流れに乗れば魚の鱗(うろこ)のように並ぶ宮が見えてきます。そこは綿津見の神(ワタツミノカミ:海神)の宮殿ですから、門まで行ったら、傍(かたわ)らにある泉のほとりの桂(かつら)の木がありますから、その木の上で待っていなさい。ワタツミノカミの娘があなたを見つけて取りはからってくれるでしょう。」ホオリノミコトはその老人に言われるまま海に出ていきました。

 海神の国に着くと、ホオリノミコトは海神の家の前にある大きな木の上に登りました。そこへ、海神の娘、豊玉比売(トヨタマヒメ)の侍女がやってきて、木の上のホオリノミコトを見つけました。ミコトが「水がほしい。」と言うと、侍女は持っていた器に水を入れて差し出したのですが、ミコトはそれを飲むことなく、首にかけていた玉をとり、口に含んでから器の中に吐き出しました。すると、この玉は器にくっついたままとれなくなり、侍女はこれをトヨタマヒメに差し出しました。その玉を見たトヨタマヒメは門の外に誰かいるのかと尋ねると、侍女はありのままを報告しました。トヨタマヒメは自分の目で確かめようと門の外へ出ると、素晴らしい容姿のホオリノミコトに一目惚(ひとめぼ)れしてしまいました。宮殿に戻ったトヨタマヒメはそのことを父のワタツミノカミに報告しました。ワタツミノカミはホオリノミコトが神の子とわかり、宮殿に招き入れました。そして、アシカの皮と絹で出来た敷物を何枚も重ねて座を作り、そこにホオリノミコトを座らせると、たくさんのごちそうやきれいな踊りで歓待しました。しばらくして、ホオリノミコトはトヨタマヒメと結婚し、海の神の家で暮らしました。

 それから3年の月日が経ちました。ホオリノミコトは時々ため息をついていました。トヨタマヒメがそれを見て尋ねました。「もしかして、あなたは家に帰りたいのではありませんか。」ホオリノミコトは自分の気持ちを語りました。トヨタマヒメは父にホオリノミコトの思いを話しました。ヒメから話を聞いたワタツミノカミは「なくしたお兄さんの針を見つけてあげましょう。」と言って海の中の全部の魚を集めることにしました。すると、「鯛が『口が痛い』と言ってここに来ていません。」と魚たちが言いました。そこで鯛をよんでのどの奥を見てみると、釣り針が引っかかっていました。ワタツミノカミはこれを取り出し、清めてホオリノミコトに渡しました。また、2つの玉も渡しました。帰る時、ホオリノミコトは一番早いサメに乗って1日で元の海岸にたどり着きました。

武内宿禰(たけうちのすくね)

 景行天皇14年(84年)? - 仁徳天皇55年(367年)4月?)
 成務天皇と同年同日の生まれという。景行天皇の時に北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。成務天皇3年(133年)に大臣となる。神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。 応神天皇の時、渡来人を率いて韓人池を造る。また、甘美内宿禰(うましうちのすくね)から謀反の讒言を受けたが、探湯(くかたち)を行って濡れ衣を晴らした。仁徳天皇50年(362年)が『書紀』に現われる最後です。

 甘美内宿禰(うましうちのすくね)にそっくりな名を持つ男とは、神武天皇の陰の立て役者・可美志摩遅命(うましまでのみこと)に他ならない。『古事記』には宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)です。

くりかえしますが、ウマシマジはニギハヤヒとナガスネヒコの妹の間の子です。ニギハヤヒは出雲神・大物主神と同一という意見で見れば、ウマシマヂは、事代主神(ことしろぬしのかみ)の弟となり、兄・武内宿禰、弟・甘美内宿禰の関係と重なってきます。

 武内宿禰と甘美内宿禰の確執は、第十五代・応神天皇の時代なのだから、常識で考えれば、「ウマシマヂ」と「ウマシウチ」の両者に関係をもたせようという発想は、「非科学的」ということになるでしょう。

 しかし、『日本書紀』には、ヤマト建国の真相を闇に葬らなければならないという動機がありました。その動機とは、藤原不比等が「蘇我氏の素性を隠匿したい」という執念に端を発しています。蘇我氏の祖が武内宿禰だから、この人物の周辺には、いくつもの巧妙なカラクリが用意されていたとみるほかないのです。

 その証拠に、武内宿禰は三百歳近い長寿を保ったと言い伝えられ、『日本書紀』や『古事記』のなかで、常識では考えられないほど、多くの天皇に仕えてきたと記録されています。武内宿禰という人物自体が神話なのです。ほんとうは実在しただろう人物を「神話」にしてしまったから、「浦島太郎」というおまけがついてきたわけです。

 無理を承知で実在の人物を神格化したのだから、応神天皇の時代の話が、ヤマト建国の謎解きのヒントになっていたとしても、何の不思議はない。事実、歴史時代の武内宿禰は、どこからみても、出雲の事代主神とそっくりなのです。さらに、トヨ(神功皇后)の置かれた状況と、武内宿禰が甘美内宿禰に裏切られた状況は、瓜二つです。

 甘美内宿禰は、武内宿禰が九州で独立し、三韓と手を組んでヤマトを乗っ取ろうとしていると讒言(ざんげん)しました。真根子が犠牲になって、武内宿禰は救われたと『日本書紀』はいいますが、かたや、トヨ (神功皇后)の状況もこれに似ています。

 トヨは、北部九州の邪馬台国を潰すためにヤマトから派遣されました。そして予想もしていなかったほどの大活躍をし、親魏倭王の称号を獲得するに至ります。しかしここで、ヤマトの思惑とトヨの活躍の間には、微妙なずれが生じていたのではないだろうか。この図式は、中世の源頼朝と義経の関係に似ています。派遣した尖兵が強すぎたために、留守を守る側が焦りと恐怖を感じた、 『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。
紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。また、建内宿禰とも表記される。 別称:御食津大神(ミケツノオオカミ)(気比神)、高良玉垂神(コウラタマタレノカミ)

 『公卿補任』『水鏡』は同55年(367年)、『帝王編年記』所引一書は同78年(390年)に没したといい、年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。

『因幡国風土記』には、360歳のときに因幡国に下降し、そこで双履を残して行方知れずとなったとの記述があり、双履が残されていたとされる鳥取県鳥取市国府町には武内宿禰を祀る宇倍神社がある。他に、福井県敦賀市の気比神宮など多くの神社に祀られている。 久留米市の高良大社には、高良玉垂神として祀られている。

先祖
孝元天皇の曾孫(『古事記』には孫)、父は屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、『古事記』は比古布都押之信命とする。母は木国造(紀伊国造)の女・影媛

兄弟
異母弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)


  • 羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね) - 波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部臣の祖
  • 巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね) - 巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖
  • 蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね) - 蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の祖
  • 平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね) - 平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖
  • 紀角宿禰(きのつぬのすくね) - 紀臣、都奴臣、坂本臣の祖
  • 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
  • 怒能伊呂比売(ののいろひめ)
  • 葛城襲津彦(かずらきのそつびこ) - 玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖
  • 若子宿禰(わくごのすくね) - 江野財臣の祖

     景行天皇14年(84年)? - 仁徳天皇55年(367年)4月?)
     『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。
    紀・巨勢(こせ)・平群(へぐり)・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。また、建内宿禰とも表記される。 別称:御食津大神(ミケツノオオカミ)(気比神)、高良玉垂神(コウラタマタレノカミ)

    [*2]…盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。

  • 蘇我氏と武内宿禰

     7世紀に全盛期を迎えた蘇我氏は、縄文時代から生産されてきたヒスイ(硬玉)を独占的に生産していた。ヒスイは海底からもたらされるため海神からもたらされる神宝と考えられ、蘇我氏が海の神宝ヒスイにこだわった所に浦島太郎とのかすかな接点が見出せ、それがゆえか浦島そっくりな山幸彦も劇中で海神からヒスイをもらっている。

     蘇我氏の祖の武内宿禰は応神天皇の母、神功皇后の忠臣として活躍し、神功皇后はトヨの海の神と強く結ばれ「豊浦宮」(とゆらのみや)に拠点を構え、それは「トヨの港の宮」とも呼ばれ、そこから神功皇后はトヨの女王と呼ばれた。蘇我氏のルーツと神功皇后との係わり、神功皇后と武内宿禰の関係性が浦島太郎伝説から読み取れるともいえる。


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