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但馬資料編:古代年表但馬年表
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中国統一と徐福(じょふく)伝説

概 要

目 次

  1. 徐福伝説
  2. 朝鮮半島と日本海
  3. 朝鮮半島の古代国家
  4. 徐福のルーツ
  5. 秦の始皇帝 中国統一
  6. 丹後と徐福伝説
  7. 数多い伝説地
  8. 旧約聖書のノアの箱舟
 狩猟・漁労主体の縄文時代から稲作をはじめ農耕社会の弥生時代へと変わる画期的な文明移行の過程に、いったい何が起こったのだろう。まずこの時代に相当する伝承として、その謎を解くひとつに「徐福伝説」があります。

 この伝説は浦島太郎伝説と同様に全国に残っています。まったく根も葉もないところから伝説が生まれたり、長く語り継がれることはないとすると、縄文時代から弥生時代へと変わる過程に、大きな史実が隠されているのではないか。紀元前200年のことが語り継がれてきた徐福伝説を作り話だと軽率に否定することはできないと思います。


1.徐福伝説

 徐福は紀元前219年、若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが、実は徐福が伝えたのではないかとも思え、徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされ、殆ど同時期に銅・鉄器製品や製法が伝わったとされる。徐福が日本の国造りに深く関わる人物にも見えてくるのです。

 船に乗っていたのは,青年男女数千人と機織り職人、紙職人、農耕技術者、漁業特に捕鯨などの専門家、木工技術者、製鉄技術者、造船技術者など生活に関わる技術を習得しているもの多数でした。

 そして、何日もの航海の末にどこかの島に到達しました。実際、徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが、司馬遷の『史記』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述があります。

 この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

 出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説ありますが、浙江省寧波市慈渓市が有力とされます。 途中、現在の韓国済州島(済州道西帰浦市・ソギッポ市:地名の由来は徐福が西(中国大陸)に帰って行った港との説もあります。)や朝鮮半島の西岸に立寄り日本に辿り着いたとされます。

 『史記』の記事を見ると、徐福は始皇帝を甘言で欺いたペテン師のように書かれていますが、実情はおそらく違ったものであったのでしょう。

2.朝鮮半島と日本海

 日本の文化はすべて朝鮮半島から伝搬されたと主張する学者がいます。どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、日本列島はまだ統一されておらず、楽浪郡(紀元前108年 - 313年)との交流があったと考えられています。古代朝鮮半島は中国王朝の郡県、つまり直接支配の地域でした。後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在していた場所であり、また日本は文化に関しては中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。たしかに鉄器、焼き物をはじめ仏教や寺院建築、漢字(文字)などは朝鮮半島経由から伝来したようですが、朝鮮半島も三国時代に中国から伝搬したのであり、鉄器、稲作、焼き物、古墳などが百済や高句麗から発祥して伝わったとみるのはどうでしょうか。

 DNA鑑定によれば日本のお米であるジャポニカ種は長江以南が原産であって、青森三内丸山遺跡からみつかった米も縄文時代からジャポニカ米が栽培されており、水稲栽培技術は中国江南で行われたものとする説が有力です。陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、中国→朝鮮半島→日本ルートは考えにくく、中国から発祥した先端技術が、朝鮮半島を含めた中国東海岸から経由して日本列島に伝搬していったと考えれています。魏書には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡(たいほうぐん)[*1]を通じて中国王朝と通交しています。帯方郡は楽浪郡(らくろうぐん)の一部で、紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域にありました。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や倭国の中国文明受容に大きな役割を果たしました。次の時代になって百済・伽耶・新羅という新しい国々が南方に生まれ、倭国同様に魏との冊封関係にあったわけです。したがって、朝鮮半島文化が日本の文化のルーツそのものであるとするには無理があります。銅鏡も中国から贈られたとされていますが、中国や朝鮮半島からは見つかっていないことから、日本で独自に製作されたという意見が有力視されています。

 日本の長崎県壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示しています。したがって、姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるとされています。

[*1] 帯方郡(たいほうぐん)とは、204〜313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。

3.朝鮮半島の古代国家

 朝鮮半島の歴史は、しばしば五千年といわれています。紀元前三千年ごろには「古朝鮮」とよばれる国家が、現在の中国東北地方からシベリア大陸にまでまたがる広大な地域に形成されたとの主張もあります。しかし、それらの史料の成立は紀元後10世紀以上をさかのぼることはできず、後世につくられた神話としての性格が強いので古朝鮮を論じる対象にはしがたいとされています。

 『魏志』に倭人伝のように朝鮮王について記されています。確かな根拠はありませんが、紀元前二世紀から三世紀ごろに、朝鮮王・準の時代には、中国の秦漢交代期の動乱を避けて、燕・斉・趙などの国々から、多数の人々が朝鮮付近に流入したとみられます。そのなかに燕から千余人の配下とともに亡命してきた衛満がいました。準は、衛満を受け入れて西方国境の守備に当たらせるなど重用しましたが、衛満は、準の信頼を逆手にとって背き、紀元前195年に王位を略奪しました。衛満は王倹城(平壌)を都と定め、半島の南部や東岸を配下に治めました(衛氏朝鮮)。衛氏朝鮮の国家の性格は、亡命中国人のほかに領域内の土着の首長を支配層に吸収して組織した連合国家であったとみられます。

漢の四郡

 紀元前195年ころ、中国の漢王朝は、衛氏朝鮮に対して、周辺の諸民族が漢王朝へ行くことを妨げないことを条件に、衛氏朝鮮の王を「外臣」として重んじました。しかし、朝鮮王・右渠の代になると、朝鮮王の朝貢も途絶えがちになり、しだいに漢王朝に強硬な姿勢をとったために、漢の武帝は大軍を遣わして激しい攻防のうち三代80年余り続いた衛氏朝鮮は滅亡しました。

 漢王朝は、紀元前108年に、故地に楽浪(平壌)・真番(慶州?)・臨屯(江陵)の三郡を、翌年には玄菟(威興)を設置し、郡県制度を布いて直接支配に乗り出しました(漢の四郡)。

 しかし、漢の郡県史配は朝鮮半島をはじめ北東アジアに多大な影響を及ぼしながら紀元前82年には真番・臨屯の二郡が廃止され、紀元前75年には玄菟が後退し、朝鮮半島内では楽浪郡を残すのみでした。楽浪郡に、馬韓、辰韓、弁韓という三国志東夷伝に記述された区分(3世紀ごろ)。

註…()内は現在の行政区分に大まかに当てはめたもので、確定的なものではない。


図:『韓国朝鮮の歴史と社会』
 高句麗は漢王朝の郡県史配に抵抗するなかで、いち早く国家として成長を遂げましたが、遅くとも紀元前後には、王を中心に周辺の有力な首長たちを組織する体制が形成されたとみられます。しかし、王族内部の抗争から支配層は分裂し、その一派が鴨緑江の中流域まで南下して、209年に集安に都を築きました。

4.徐福のルーツ

 司馬遷が著した中国で最も古い歴史書である「史記」にこの一団の話が登場します。『史記』は中国における最も古い歴史書で、紀元前100年頃に完成されたものと推定されていますが、非常に高い学術的権威をもった大著とされています。それは、記事や伝承の内容を著者司馬遷自身が現地を訪れ確認した上で収録している部分が非常に多く、そのため極めて真実性に富んだ史書とされているのです。徐福(じょふく)の事件は『史記』の完成わずか100年前の出来事なのです。

 その後も徐福について、『漢書』の「郊祀志」および「伍被(ごひ)伝」、『三国志』の「呉志」および「孫権伝」、『後漢書』の「東夷列伝」、さらには『三斉記』『括地志』『太平御覧』『太平寰宇記』『山東通志』『青州府志』など、幾多の時代を通じ、中国の歴史文献に絶える事なく記載されています。なのに日本の史書である「記紀」以下の六国史にも徐福の記述はありません。徐福の渡海から1200年ほどが経過し中国で徐福の日本渡来説が現れはじめます。釈義楚の『義楚六帖』によると、顕徳五年(958)日本僧弘順大師が、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗っている。」と伝えたとあります。しかし、長い間、徐福伝説は実在の人物ではないと思われていました。

 1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の羅其湘氏は、江蘇(こうそ)省・かん楡(ゆ)県の地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見しました。今更地名が発見されるところに中国らしさを感じますが、同氏は、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、実在した人物だとしています。この村が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐福村」と呼ばれ、「徐福」の伝承が残っている事をつきとめました。

 その後、プロジェクト・チームが現地に入り、村に残る「徐副廟」を調査したところ、驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住んでいました。代々、先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。そして古老の語る次の伝承を採録しました。

  「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」

5.秦の始皇帝 中国統一

 日本が弥生時代の後半、秦の始皇帝は紀元前257年に生まれ、13歳で秦王になり38歳のとき中国全土を統一しました。

 中国統一から皇帝在位一二年の間の業績に、

  • 中国全土を統一した
  • 外敵の侵入を防ぐために万里の長城の修復とつなぎ合わせを完成させた
  • 政治改革をすすめて法律で国を治めた
  • 国の言語を統一した
  • 文字の書体を統一した
  • 度量衡を統一した
  • 全国に通用する貨幣を決めた
  • 車の轍の幅を一定にし、交通体系を考えた道路作りをした
  • 風紀を乱すことを忌み取り締まった
  • 勤労を重んじた
  • 大河と支流の配水治水をはかった などといわれています。

     始皇帝は、強大な軍事力で、韓・魏・楚・燕・斉・趙の6ヶ国をすべて制圧して中国を統一し、自らを王の上に立つ者として「皇帝」の称号をはじめて名乗った人物です。徹底的な専制政治を布き、数多の大改革を断行、中国に統一国家の礎を築きましたが、その手法ははなはだ強引で暴力的でした。

     始皇帝は王のなかの王としての威勢を誇示するために、多くの人民を徴発し、万里の長城や阿房宮などの大土木事業に取り組みましたが、なかでも驪山陵の造営には七十余万人の刑徒を徴発して労働に当たらせ、建設が終わると刑徒たちを生き埋めの刑に処したといいます。

     絶対的な権力者である始皇帝は驚くべき残忍性をしばしば発揮しました。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)といい、儒家思想弾圧のために、詩・書・百家の類の書を全て焼き捨て、それに反発する儒生460余名を生き埋めの刑に処したりもしました。

     暴虐ぶりを見せつけ、中国全土を支配し、望むものすべてを手に入れたであろう始皇帝が最後に求めたものが不老不死の仙薬でした。始皇帝は各地の神仙の方士に命じて不老不死の仙薬を求めさせましたが、その薬に効果がなければ死刑、一族ともども死刑に処す。これくらいのことは始皇帝ならやるでしょう。

     生き延びるために、徐福は智慧を絞り、自分の命と一族の命を賭けて、残忍暴虐な絶対権力者である始皇帝をペテンにかける大勝負に出た。これが実際の状況だったのではないでしょうか。

     不老不死の仙薬を探しに行くと偽って、一族で国外逃亡する。徐福が連れていった「良家の童男童女三千人」と「さまざまな分野の技術者」というのは徐福の一族から選ばれた者たちであったのではないでしょうか。

     始皇帝は有能な学者(方士)や役人を起用して、殖産興業の政策をとり、外は夷狄を排し、内では事業を次々に進めていったので、農業や産業が大いに栄え、秦の倉庫には蓄えの財富が溢れ、豊かで秩序ある都の有様を示していたそうです。

     始皇帝のことが語られる時、前記の業績を評価しながらこれ程のことを成し遂げた為政者ですが、必ず暴虐な部分が強調されて語られていました。

     彼は方士(呪術・占星術などの方術を使う道教学者・魔術師)を身近に300人も置いていたそうです。これらの方士たちは各地から集まったことでしょう。

  • 6.丹後と徐福伝説


    最北子午線塔 京都府京丹後市網野町
     京都府北部の丹後半島は、若狭湾の西端に張り出した日本三景の一つ「天橋立」の近く、「舟屋」で有名な京都府与謝郡伊根町に浦嶋太郎と徐福にかかわる次の伝説が残っています。

     日本海を対馬海流にのって北上した徐福(じょふく)の船は丹後半島にたどり着きました。

     海上に浮かんでいるように見える冠島。常世島(とこよしま)とも呼ばれており、ここに生える黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲(しょうぶ)が徐福の求めた不老不死の仙薬と言われています。

     冠島は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)の降臨地といわれており、「天火明命」は伊勢神宮の元になったとされている元伊勢籠(この)神社(宮津市)の祭神ともなっています。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したといわれています。

     丹後半島では岩が浸食されてできた地形が至るところで見られます。徐福は「ハコ岩」と呼ばれるところに漂着しました。丹後半島の先端に近い京都府与謝郡伊根町新井の海岸に「秦の始皇帝の侍臣、徐福着岸の趾」と碑が立つ場所があります。大きな岩で囲まれた洞穴のようになった場所で、現在の海水面からはやや高い位置にあります。

    「秦の始皇帝の侍臣、徐福着岸の趾」

     「ハコ岩」から山の斜面を登ると新井崎(にいざき)神社があります。この神社には、医薬・天文・占い・漁業・農耕など多くの知識や技術などを伝えた徐福が産土神として祀られ、今も土地の人たちが大切にしているそうです。徐福は「仙薬が少なくて故国の都に帰ることができない」と言って、ここに住みついたと伝えられているのです。新井崎神社を童男童女宮(とうなんかじょぐう)とも呼びますが、徐福に同行した3000人の童男童女にちなんだ名だと思われます。実際、ご神体は男女二体の木像であるらしいのです。

     今から2200年前、日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき、秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。徐福は始皇帝に、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました(司馬遷の『史記』がもとになっている)。この願いが叶い、莫大な資金を費やして一度旅立ちますが、得るものがなくて帰国した。何もなかったとは報告が出来ず、この時は「鯨に阻まれてたどり着けませんでした(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)と始皇帝に報告した。そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可した。

     霊亀(れいき)は、古代中国の神話等に登場する怪物の一種とされ、四霊の一つにあげられている。 中国神話等では、背中の甲羅の上に「蓬莱山(ほうらいざん)」と呼ばれる山を背負った巨大な亀の姿をしており、蓬莱山には不老不死となった仙人が住むと言われている。浦嶋太郎と亀に共通するものですが関係あるのか。

    7.数多い伝説地

     日本では徐福渡来にまつわる話が全国各地に伝わりますが、佐賀県内数ヵ所、鹿児島県串木野、青森県八戸・小泊村、宮崎県、三重県熊野市、和歌山県新宮市、山梨県富士吉田市、京都府与謝郡伊根町、愛知県など有名です。

     東シナ海を出た船は黒潮か対馬海流に乗れば日本海沿岸、太平洋沿岸のどこかにたどり着きます。ある船は対馬海流に乗って韓国済州島や対馬・壱岐、九州北部から東北地方まで、またある船は黒潮に乗って四国や熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などにばらばらに流れ着いたのだろうといわれています。

     東シナ海を大船団なのでひとかたまりで動くことはなく、ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、またある船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などにばらばらに流れ着いたはずです。

     まず辿り着くのは九州の長崎・佐賀もしくは黒潮に乗れば鹿児島西部でしょう。佐賀地方が中国から最も近く、伝説として土地にとけ込んで語り伝えられているのは、佐賀県のようです。

     佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(名前の由来は不老不死か?)」という植物が自生します。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたといいます。

     紀伊半島の熊野にある徐福渡来伝承地は和歌山県新宮市と三重県熊野市波田須(はだす)の2ケ所。どちらにも徐福の宮と徐福の墓があります。

     日本海側では丹後半島の網野と伊根には、紀伊半島の熊野・伊勢地方と同名や似た地名・神社が多いことに気が付く方は多いのではないでしょうか。まるで鏡を置いて写したような偶然です。

     佐賀県徐福会のHPによると、「吉野ヶ里から発見された絹は、京都工芸繊維大学名誉教授の布目順郎氏の鑑定によると前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていたので、それが最初に国外に出たことを確認できたのが日本で、しかも北部九州であると述べており、さらに吉野ヶ里から出土した人骨が江南の人骨に似ているということから、貝紫や茜で染められた薄絹をまとっていた、佐賀平野の弥生人は、徐福の子孫ではないかと。佐賀に伝わる徐福伝説を考える点で興味深いものです。

    佐賀丹後紀伊伊勢三河
    上陸地佐賀市金立町・有明海(佐賀県)杵島の竜王崎(佐賀県杵島郡白石町)京都府与謝郡伊根町新井「ハコ岩」「秦の始皇帝の侍臣,徐福着岸の趾」と碑 和歌山県新宮市徐福(ジョフク)三重県熊野市波田須(はたす)
    常世島冠島・蓬山(とこよ)蓬莱山蓬莱島
    神社新井崎神社
    海童神社
    浦嶋(宇良)神社速玉大社(和歌山県新宮市)阿須賀神社
    熊野三山
    熱田神宮

    熊野神社(豊橋市) 速玉男神

     は,もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたようです。

     三河地方には古墳もあり銅鐸も出土していますが,これも徐福と何らかの関わりがあるのかもしれません。

     その後、遣唐使や留学僧が中国へ渡って行き、中国からも多くの渡来者がありました。そうした往来の中で、日本の書物の中にも徐福の日本渡来説がいつしか記され定説化していきました。弘安二年(1279)に来朝して、帰化した宋僧の無学祖元禅師は、紀州熊野を徐福上陸の地として、詩を詠みました。また、洪武九年(1376)、日本の禅僧絶海中津は明の太祖洪武帝に謁見し、熊野の徐福祠について尋問され、詩を吟じ合っています。江戸時代、正徳五年(1715)漢方医の寺島良安が著した『和漢三才図絵』「蓬莱山」の条には、徐福は富士・熊野・尾張熱田を歴訪したのだろうと記されています。このように徐福日本渡来説はつぎつぎと日本各地に伝播されていきました。

    8.旧約聖書のノアの箱舟

    文化は西の方から東へ東へと伝わるといわれます。ずうっと西の国から来た方士の中に旧約聖書の話を始皇帝に伝えてもおかしくないのではないでしょうか。

     ノアの箱舟は、今から6000年前の話です。始皇帝の時代からは、4000年前の話になります。

     旧約聖書に記されているノアの箱舟は、  

    神はノアを呼んで言った。「ノアよ、生きとし生ける者、生きとし生ける物すべて、私は亡ぼす。ただ、お前とお前の選んだ者と物と生きものだけを、わたしは地上に残そうと思う。脂を含む材木と、葦の茎とを組みあわせ編みあわせ、箱舟をつくるがよい。

     …(中略)…見よ、わたしはお前と契約を結ぶ。子らをつれよ。子らの妻たちも。地にある動物の各種から、一つがい番ずつ。

     …(中略)…「四十日、四十夜。雨が降る。洪水が来る。舟に乗れ」…(中略)

     洪水は、おそらく紀元前4000年ごろの出来ごとであった。…

    (犬養道子著「旧約誓約書物語」より)

     海の方士徐福は始皇帝の命により、遠く日本を目指して出港する、見事成功して目指す佐賀の地を踏むことが出来た。翌年は五穀の実りも豊かであった、しかし迎えるべき主はすでにないと知ると、もう故国に帰る気持ちはなく、連れてきた優秀な子供たちの成長を見守り、この国に文化を伝えることを、一生の仕事にした。

     このように徐福東渡のきっかけを思っているのです。

    以上、佐賀県徐福会のHP


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