北近畿鉄道物語


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2.国鉄山陰本線

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京都鉄道


旧二条駅舎・京都鉄道本社 梅小路機関車館に移築されている(実写2008.8.1)
 舞鶴は、京都府で京都市に次ぐ第二の都市であるとともに、日本海側屈指の貴重な軍港で、日露戦争を控え、舞鶴市までの鉄道敷設が緊急の課題となっていた。

 1889年(明治22年)5月30日、兵庫県小西壮二郎(白雪/小西酒造)ほか29名の発起で舞鶴より松江に達する226哩余の敷設計画をもって、山陰鉄道株式会社設立を出願したが、鉄道局長井上勝により却下される。
 1889年(明治22年)7月1日、日本初の官営鉄道(国鉄)、現在の東海道本線にあたる、新橋駅〜神戸駅間が全通した。

 京鶴鉄道は、京都〜舞鶴間の官設鉄道の敷設を政府に働きかけたが実現しなかったために、1893年(明治26年)に地元産業界が私設で建設する気運となり、民営鉄道の京都鉄道が設立された。現在の山陰本線の前身にあたる路線の一部を建設、運営した。田中源太郎、浜岡光哲らが発起人となり京都から舞鶴までの鉄路敷設を目的に会社が設立され、1895年(明治28年)に京都駅から綾部を経て、舞鶴に至る鉄道免許を受けた。

 1899年8月15日 二条〜園部間が開通し、亀岡駅、八木駅、園部駅開設。しかし保津峡の難工事は、断崖絶壁に線路を通し、トンネル8箇所、橋梁は50箇所を越えるもので、苦心の末、1900年(明治33年)に京都〜園部間(35.73km)が開業したが、園部以北へは資金難のため工事が遅々として進まなかった。
 1904年(明治37年)、福知山〜綾部間は阪鶴鉄道の路線を延伸する形で舞鶴までを結ぶ阪鶴線の一部として開業に至った。


舞鶴レンガ博物館(旧海軍兵器廠魚形水雷庫)
鉄骨れんが造としては日本最古級。世界のれんがが展示されている。舞鶴引揚記念館との共通 券一般個人400円、学生個人200円(入館料減免されます。)2006年どちらも見学した。
 1907年(明治40年)に政府は舞鶴鎮守府開庁に続き、園部〜綾部間は日露戦争を控え、軍都・舞鶴までの建設を急いだ政府が、京都から舞鶴へ通じる鉄道の建設は国策遂行上必要不可欠とし、未成部分の鉄道免許を取り消し、政府は1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により阪鶴鉄道とともに国有化して自らの手で京都から舞鶴へ通じる鉄道を建設を開始した。
1909年(明治43年)10月12日、線路名称制定「京都線」となる。
 そして1910年(明治43年)に園部〜綾部間の鉄道が完成した。 1904年に本社屋を兼ねて造られた二条駅の駅舎は日本最古の木造駅舎で、1996年の同駅の高架化に伴い梅小路蒸気機関車館に移築され、資料展示館として利用されている。
田中 源太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

京都府旧桑田郡亀山北町(現亀岡市)生まれの政治家、経済人。
 田中蔵一の次男として生まれたが、兄が早くに亡くなったため田中家の家督を継ぐべく英才教育を受けて育った。北村龍象の私塾学半堂や横井忠直、山本覚馬らにも師事し、儒学、政治経済など幅広い分野を成績優秀で修めたとされる。田中家は代々亀山藩の御用商人として取り立てられた商家として栄え、父・蔵一は櫓奉行格に取り立てられ、会計方として亀山藩に仕えていた人物であったため、源太郎も経済界で活躍することを期待されて育った。

 源太郎が実際に設立に関わったとされる事業は30を超えるが、中でも著名なのは、現在の京都銀行の前身「亀岡銀行」の設立、のちに京都証券取引所となる「京都株式取引所」、「京都電燈株式会社」、「京都鉄道株式会社」などである。また政界においては、1874年に桑田郡追分村戸長をつとめたのを皮切りに、京都府議会議員、衆議院議員、貴族院議員なども勤め、文字通り関西政財界のトップとして君臨し続けた。その他、現在の立命館大学の前身「京都法政学校」の設立にも浜岡光哲らとともに賛助員として加わっている。

 1922年4月3日、源太郎自身がかつて社長をつとめた京都鉄道の国有化後の後身である山陰本線の園部発京都行き列車に乗車中、清滝付近(現在の嵯峨嵐山・保津峡間付近、今はトロッコ列車(嵯峨野観光鉄道・嵯峨野観光線)の線路となっている)で起きた脱線事故に巻き込まれ、列車もろとも保津川へ転落して亡くなったとされている。実際には亀岡駅周辺の土地所有に絡む利益誘導に怒った地元民によって暗殺されたという説がある。

「数か月前に源太郎の京都の家の床から竹槍が発見されこと、保津峡の事故(?)の後、源太郎の死体の発見が遅れ、嵯峨村の消防団などが連夜に渡って松明を掲げて大堰川沿岸の捜索を行ったが、発見できなかった。数日後に千鳥ヶ淵(現在の小倉山公園の対岸)の水底に紋付きの袂に石を入れられた状態で発見されたのです。目撃談では「白足袋が水面下に漂っていた」「紋付き袴が食い込んで脱がせられなかった」とあります。つまり、一度発見された源太郎は改めて沈められたのです」(嵯峨消防団員、田中家奉公人の証言)。

 現在、田中源太郎の生家は改築されホテル(楽々荘)として利用され、1997年には「国登録有形文化財指定」を受けている。


梅小路機関車館


(2008/08/03)

梅小路機関車館(JR西日本)
 鉄道ファンである私にとって一度訪れてみたい場所だった。国鉄時代の歴代の蒸気機関車が一同に展示してある姿は圧巻。真夏日で暑い。

 梅小路蒸気機関車館は、我が国唯一の蒸気機関車専門の博物館。日本の鉄道100年を記念して1972(昭和 47)年に、かつて蒸気機関車の基地であった当時の梅小路機関区にC57をはじめ代表的な蒸気機関車16形式を保存し運転しています。機関車ファンなら一度は訪ねてみたい機関車の聖地です? 京都駅から大阪方面へ1駅下車し公園内を歩く。かなり遠いし、京都駅から徒歩でもさほど変わらない。(2008年8月2日)


山陽鉄道

1887年(明治20年)1月、中上川彦次郎を社長に迎えて神戸に設立。
1888年(明治21年)11月1日に兵庫−明石間が開通し、
12月23日には、明石−姫路間が開通した。翌年の1889年(明治22年)9月1日に神戸−兵庫間が開通。
1901年(明治34年)5月27日に山口県の馬関(現在の下関)までが開通して、神戸−馬関間の路線が全通した。
1903年(明治36年)に経営悪化した播但鉄道、1904年(明治37年)には讃岐鉄道から事業譲渡を受け、営業範囲を拡大した。
1906年(明治39年)12月1日に鉄道国有法により国有化され、1909年(明治42年)に国鉄山陽本線、播但線、大嶺線(後の美祢線の一部)、讃岐線(後の予讃線と土讃線のそれぞれ一部)となった。

 山陽鉄道は積極的な経営方針を採っていたことで知られており、その後戦後にかけて鉄道業界全般を通して普及していった、長距離急行列車の運転(1894年)、車内灯の電化・ボーイの添乗(1898年)、食堂車の連結(1899年)、一等寝台車の投入(1900年)、二等寝台車の投入(1903年)、3軸ボギー車の投入、真空制動機の採用、ステーションホテル設置、全線が開通した1901年(明治34年)には、日本初の優等列車「最急行」(特急列車の元とされる)など、設備・サービス・事業等の中には同鉄道が日本で初めて実現させたものも少なくありません。

 これらは、瀬戸内海を通る航路との競合にさらされたためだといわれていますが、その反面無理なスピードアップをしていた面もあって更に保線状況も悪かったため、列車の振動は酷く鉄道事故も多発しました。当時九州鉄道の社長で後に鉄道大臣にもなった仙石貢は、「こんな非常識なスピードを出す列車には危なくて乗れない」と語っています。

 しかし、東海道本線を始め他の主要幹線と比較すると平坦な路線で、岩徳線のように距離短縮のための例や、赤穂線や呉線のように山陽本線の勾配緩和線として建設された路線があったものの山陽本線自体は今日に至るまで勾配緩和のための大規模な線路移設はされていません。

 また、多角経営の一環として、瀬戸内海に本州、四国、九州を結ぶ、鉄道と連絡する航路を運営していました。壱岐丸、対馬丸という二隻の航洋渡峡船を1904年に三菱重工業長崎造船所に発注し、完成後、子会社の山陽汽船が運営する関釜(篠の席−釜山)連絡船を1905年(明治38年)に就航させ、既に完成していた京釜鉄道(京城:現ソウル−釜山)を経由すると東京〜京城(現ソウル)を60時間で結びました。

北近畿鉄道年表

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