歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

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■たじまの偉人


氏 名生没年区 分出 身功 績
沢庵 和尚1573-1645僧 侶出 石澤庵 宗彭(たくあん そうほう)。天正元年、但馬国出石に生まれる。父秋庭綱典は但馬国出石城主山名祐豊の重臣であった。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)沢庵の法号を得た。1607年沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持した。1609年、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。沢庵はいったん江戸に出て、三代将軍家光に愛される。家光は品川に萬松山東海寺を建て、沢庵を住持とした。家光は政事に関する相談もたびたび行った。これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。豊岡市出石町宗鏡寺「投淵軒」に閑居。
ダイコンの漬物であるいわゆる沢庵漬けは一伝に沢庵が考えたといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたともいう。後者の説によれば、家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられるが風聞の域を出ない。
宗鏡寺
大石 りく1669-1736 豊 岡忠臣蔵で有名な大石内蔵助夫人。但馬国豊岡藩京極家の家老石束源五兵衛毎公の長女として誕生。
大石りく遺髪塚
上垣 守国1753-1808養蚕家大 屋養蚕技術を広める。著書「養蚕秘録」は翻訳され、日本の技術輸出の第1号となる。
蔵垣に生まれた守国は、当時、粗悪な繭しか生産できなかった三丹地方の養蚕の品質改良に取り組み、養蚕行を発展させた。
1770年(明和7年)、若干18歳の時に奥州の福島に赴き、蚕種(蚕の卵)を購入し研究したことに始まる。やがて守国は、増やした蚕種三丹地方に広め、餌の桑園の技術指導なども熱心に実行し、養蚕業の隆盛に大きな功績を残した。 長年の養蚕研究の集大成として48歳の時に発行したのが、「養蚕秘録」(全3巻)である。翌年には京都、大阪、江戸でも発行され、その技術は全国に広まった。オランダの王室通訳官であったホフマンによって、フランス語に訳され、ヨーロッパの養蚕技術にも影響を与えたとされ、「日本の技術輸出第1号」ともいわれている。
正垣半兵衛1770〜1847養蚕家大 屋新しい蚕種を但馬各地に普及。
小倉寛一郎1859-1945養蚕家大 屋養蚕製糸業の近代化に努力。大屋町で明治期に工場開設。
市原惣兵衛1774-1835製針業浜 坂みすや針を興し、浜坂を日本一の針の生産地とする。
上田 広甫1791-1861華道家日 高未生流2代目家元。日高町土居に生まれ、幼名を安太郎といい、遠縁の豪農上田家で働いていました。その頃、未生流の祖、未生斎一甫と出会い、生け花の素質を認められ、一甫に仕えることになりました。連れられて大阪へ出て修行を積み、未生流華道の奥義を極めました。
前田 周助1797〜1872農 民美 方 寛政9年生まれ。但馬牛の改良に人生をかけ、優良な系統牛「周助ツル」を作り出した。今の「但馬牛」の系統の基礎となった。
松岡
新右衛門
不明〜1762農 民山 東幕府権力と闘った義人。農民の代表・但馬の義人。江戸に出立し勘定奉行に直訴。
斎藤 畸庵1805〜1883南画家城 崎幕末・明治の南画家。「雪江揚釣之図」、「那智群山図」(温泉寺蔵)。
池田 草庵1813〜1878儒学者八 鹿 文化10年7月23日、兵庫県養父市八鹿町宿南に生まれる。青谿書院を開き、子弟教育に励む。但馬聖人と呼ばれた。
●生い立ち
 但馬の生んだ偉大な儒学者(中国の古典を研究する人)であり、教育者の池田草庵は養父市八鹿町宿南に文化10年(1813)7月23日に生まれました。池田家はもともと旧家で、村三役(庄屋・組頭・百姓代)の組頭の孫左衛門の三男として生まれ、名を禎蔵といいました。
 草庵10歳の時、母が亡くなり、兵庫県養父郡広谷十二所の満福寺にあずけ、僧侶としての修行を積ませることにしました。翌年には父も亡くなりました。住職の不虚上人(ふきょしょうにん)の熱心な指導により、草庵は寺一番の高弟と認められるようになりました。  しかし、天保2年草庵19歳の時、たまたま養父町を訪れた儒学者・相馬九方(そうまきゅうほう)の教えを受け、儒学を志す決心をし、不虚上人の許しのないまま寺を出てしまいました。のちにこの不義理な行動を深く反省し、絵師に「満福寺出奔図」を描かせ、掛け軸として生涯部屋にかけて自らの戒めとしたといいます。
 京都へ行った草庵は相馬九方に入門。儒学の他、朱子学、陽明学の哲学を勉強し続けました。自信を得た草庵は、京都一条坊に塾を開きました。草庵の学問や人格の立派なことが故郷の人たちにも知られるようになり、そんな立派な先生ならはやく故郷に帰って、但馬の弟子を教育してもらいたいと願う人が多くなってきました。
 但馬でも学習熱が高まり、但馬全体でも40くらいの寺子屋があったといわれます。草庵はこわれるままに故郷に帰ってきました。天保14年(1843)、満福寺を逃げ出して以来13年ぶり、草庵は31歳になっていました。

●青谿書院
 故郷に帰った草庵は、八鹿町の「立誠舎」(りっせいしゃ)という建物を借り受け、弟子の教育を開始しました。最初の門人たちの中には、北垣国道、原六郎、安積理一郎など、のちに大成する人物がたくさんいました。
 弘化4年(1847)、草庵35歳の時、自分の生まれた宿南村に念願の学舎を建て、「青谿書院」(せいけいしょいん)と名づけました。この年、草庵は八鹿町の医師・国屋松軒(くにやしょうけん)の妹・久子と結婚しました。
 草庵の門人たちは子弟共々共同生活をし、知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすもので、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕きました。門人たちは士族に限らず、農家の後継者としての働き手も多く、農繁期は帰宅して働くなど悪条件での勉学でした。のべ700人に達する但馬内外の子弟を教育しました。  草庵の名声は次第に広がり、遠い宇都宮藩の幼君の教育係としての要請もありましたが、動かず但馬の人材の育成につくしました。
 「子は親の鏡という。親を見んとすれば先ずその子弟を見よ」  草庵の門下生からは近代化をめざす明治・大正の日本のリーダーとしての人材を多数輩出しました。まさに草庵は但馬聖人でした。

北垣 国道1836〜1915政治家養 父 天保7年8月、兵庫県養父市能座村に生まれる。生野義挙に参加。東京遷都などにより東京や大阪などへの人口流出、産業衰退により、都市としての活力が失われつつあった京都市街。第3代京都府知事として灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画。北海道庁長官、貴族員議員、明治維新資料編纂委員、枢密院顧問官を歴任し明治の官界で活躍。
1836年 但馬国養父郡能座村(現・兵庫県養父市)に生まれる。
1841年 池田草庵の私塾「青谿書院」で学ぶ。
1863年 生野の変に参加するも破れ、長州へ亡命。
1868年 1月山陰道鎮撫使の西園寺公望に従軍。さらに、8月に北越戦争に従軍。
1879年 高知県県令に就任。
1880年 徳島県県令を兼任。
1881年 京都府知事に就任(〜1892年)。
1890年 琵琶湖疏水を完成させる。
1892年 北海道庁長官に就任(〜1896年)。
1899年 貴族院議員(〜1912年)。
1912年 枢密顧問官に就任。
1915年 死去。

田辺朔郎
疏水の設計は工部大学校(後の東京大学工学部)を卒業した京都府技師の田辺朔郎が進め、4年8ヶ月の大工事で完成させた。工期途中で視察のためアメリカ合衆国を訪れた田辺は、当初の計画になかった水力発電を取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設し、1895年には京都・伏見間で日本初となる路面電車、京都電気鉄道(電気鉄道の曙)の営業運転が始まることとなった。

田中
河内之介
1815-1862志 士豊 岡勤王の志士。寺田屋事件で捕らえられる。
安積楽之助1826-1872学 者和田山(あづみ らくのすけ)和田山に自成軒を開く。青谿書院出身。
多田弥太郎1826-1864志 士出 石生野の変に参加。
藤本市兵衛不明〜1879学 者八 鹿生野に明徳館を開く。青谿書院出身。
広戸 甚助不 明商 人出 石出石の商人。京都で桂小五郎(木戸孝允)の逃亡を助け、但馬へ連れて逃す。
加藤 弘之1836〜1916教育者出 石 天保7年6月23日生まれ。日本で最初の博士号を取得。東京大学初代綜理をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。 文部大丞・元老員議官・貴族員議員・宮中顧問官・学士院院長・枢密顧問官。

初代東京大学総長 1836年〜1916年
出石藩主、兵学師範の家に生まれる。弘道館に学び17歳の時父親と共に出府。「書物も自分で書き写さなければならぬ」と、貧困と戦いながら勉学に励んだ。
特にドイツ学を極め、明治三年から八年まで明治天皇の進講役を務め、欧米の政体制度やドイツ語の講議をおこなっている。福沢諭吉とも親しかったが、好対照に幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになり、「政府はまず学校を多く建て、人材を育成して議会をつくるにふさわしい文明国にしなければならない」と、日本の大学制度の基礎づくりに貢献した。
1881年(明治14)、帝国大学の初代総長に就任。また官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥として頂点を極めた。

森 周一郎1838-1920学 者浜 坂浜坂に味道館を開く。青谿書院出身。
北村 寛不 明学 者養 父八鹿に山陰義塾を開く。青谿書院出身。
久保田精一1842-1891学 者豊 岡豊岡に宝林義塾を開く。青谿書院出身。
桜井 勉1843〜1931行政家出 石 天保14年9月13日生まれ。博学多才の行政家。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」著者・・・但馬郷土史研究の基礎。地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも桜井勉の進言によるといわれています。天気予報の創始者 1843年〜1931年
出石藩士儒官の家に生まれる。英才教育を受け8歳で早くも弘道館に入学。その後、九州・江戸・伊勢へと有名な学者を尋ねて学問を深めた。
一時、出石に戻るが、国の役所や知事、衆議院議員などを務める。内務省地理局長時代には、時の内務卿、大久保利通や、その後の内務卿、伊藤博文に気象通報の創始人として、我が国初めての天気予報を開始させた。
晩年は出石に戻り、郷土をこよなく愛し、地方自治、産業奨励、教育振興にも多くの功績を残した。
浜尾 新1849〜1925教育者豊 岡 嘉永2年(1849年)4月20日、但馬国豊岡(現在の豊岡市)に、江戸詰めの豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として生まれる。1869年: 藩費遊学制度により慶應義塾および大学南校に学ぶ。
1872年(明治5年): 文部省に出仕、大学南校の中監事となる。
1873年(明治6年) - 1874年(明治7年): ヨーロッパに留学。
1874年(明治7年): 開成学校校長心得
1877年(明治10年)4月: 東京大学創立にあたり、法理文三学部綜理補として同郷の法理文3学部綜理(のちに東京大学総理)加藤弘之を補佐。1885年(明治18年): 学術制度取調のためヨーロッパに派遣される。東京美術大学(現芸大)を創立に際し、校長を拝命。幹事は岡倉天心。
1890年(明治23年): 文部省専門学務局長として、東京農林学校(農商務省主管)の帝国大学への合併を推進。東京大学第三代総長として東京大学のために尽くした。
1897年(明治30年)11月6日:蜂須賀茂韶に代わり第2次松方内閣の文部大臣となる。
1905年(明治38年)12月:東京帝国大学の第8代総長となる。
1924年(大正13年)1月13日: 枢密院議長。
1925年(大正14年)9月25日:東京府(現在の東京都)で死去。
原 六郎1842〜1933銀行家朝 来 天保13年11月9日生まれ。明治・大正・昭和期の銀行家、実業家。初名は進藤俊三郎。但馬国佐曩村(現・兵庫県朝来市)出身。池田草庵に学ぶ。
 大地主の子として生まれる。幕末期は尊皇攘夷派に属す。生野の変に参戦するが敗れて鳥取に逃れ、名を原六郎と改める。その後は長州藩の軍に属し、討幕運動に関わる。
 明治維新後、アメリカ・イギリスに留学し、経済学や銀行論を学ぶ。
 1877年(明治10年)帰国後、第百国立銀行・東京貯蓄銀行を設立、頭取となる。
 1883年(明治16年)には第3代横浜正金銀行各頭取に就任します。この他日本、台湾勧業興業各銀行の創立委員を務め、富士製紙・横浜船渠各会社長、山陽・北越両鉄道、東洋汽船、帝国ホテル、汽車製造、猪苗代水田などの各重役を歴任します。
 1896年(明治29年)4月、東武鉄道創立発起人に就任し、同年10月に東武鉄道取締役就任。1920年(大正9年)4月、東武鉄道取締役退任。
 往時は渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古河市兵衛とともに五人男と並び称されるほどの経済界の大物であった。
堀田 瑞松1837〜1916彫刻家豊 岡 彫刻家、発明家、専売特許第1号獲得。東京に移りさび止め塗料を発明し、明治18年(1885)「堀田錆止(さびどめ)塗料及び其塗法(そのとほう)」で我が国の専売特許第1号を獲得しました。
中江 種造1846-1931鉱業家豊 岡鉱山王、豊岡上水道の父
久保田 譲1847-1936教育者豊 岡広島大初代校長、文部大臣。近代教育制度の基礎づくりに貢献。教育者。池田草庵に学ぶ。
吉村寅太郎1848-1917教育者豊 岡東北大初代校長。池田草庵に学ぶ。
長 熈1851〜1911漁 民香 住安政6年1月20日、兵庫県美方郡香美町香住区一日市に生まれる。初代香住村漁業組合長に就任。香住漁港をつくるために奔走。
沖野 忠雄1854〜1921技術者豊 岡 安政元年1月21日、兵庫県豊岡市大磯に生まれる。治水港湾の始祖として、数多くの土木事業に関わる。内務省技師・内務省技監・勲一等瑞宝章。
河本重次郎1859〜1938医学者豊 岡  豊岡に生まれ、藩校稽古堂で池田草庵に学びました。13歳の時に豊岡出身の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、和田垣謙三(わだがきけんぞう)と共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京。
 横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通い、のち東京大学医学部へと進みました。同級生に北里柴三郎がいました。ここを首席で卒業した重治郎は、同学部外科学教室の助手となり、明治18年(1885)に留学を命じられて渡欧
。明治22年(1889)に帰国すると東京大学眼科学教室主任教授に任じられ、以後33年間その職にあって、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展させて、日本近代眼科の父と称せられる人となりました。
池田 謙三1854-1923銀行家出 石国立第百銀行頭取
松井 昇1854-1932洋画家出 石「明治美術会」を結成し、美術界を代表する洋画家として活躍。
和田垣謙三1860-1919教育者豊 岡辞典編纂の功労者。
猪子止戈之助1860-1944医学者豊 岡(いのこ かのすけ)。京都帝国大学医学部教授。京都府立医科大学校長。
古島 一雄1865〜1952政治家豊 岡 兵庫県豊岡市に生まれる。「日本」に新聞記者として入社。戦後、政界の指南番と称された。衆議院議員当選6回・政務次官・貴族院議員
小坂 象堂1870-1899洋画家出 石日本美術院の合同展覧会に出品し注目される。東京美術学校助教授。「野辺図」。
斉藤 隆夫1870(明治3年)- 1949年(昭和24年)政治家出 石日本の弁護士・政治家である。立憲国民党より総選挙に出馬。非政友会系政党に属した。日本進歩党の創立に発起人として参画、日本自由党と合体して民主自由党の創立に参加
ました。42歳で衆議院議員に初当選し、37年間にわたって政治家として活躍。「日本の国は立憲君主国であり、我々国民はこの道をすすむべきである。しかし、政治家の中には軍と陰で手を結んで政治上の野心をとげようとする者があることは見逃すことができない…」と、軍部台頭の時代に国会で粛軍演説を行ったことは有名です。軍国主義に屈しなかった「憲政の神様」として、尊敬されています。

斎藤隆夫記念館 静思堂

白瀧幾之助1873-1960洋画家生 野日本洋画界の黎明期に活躍。生野三巨匠の一人。帝展審査員。「稽古」。
田尻 松蔵1873-1961農 民美 方前田周助の後を受け、但馬牛を育成。
藤原 東川1887〜1966歌 人和田山 明治20年1月、兵庫県朝来市和田山町に生まれる。農民の喜びや悲しみを歌う「田園歌人」「農民歌人」といわれた。「郷愁」「にいはり」「乳木」「山帰来」の歌集を残している。
毛戸 勝元1874〜1945教育者美 方 明治7年、美方郡香美町小代区に生まれる。法学博士として、京都帝国大学の法学部長として、日本の法学研究に身を捧げました。晩年は弁護士として活躍。
前田 純孝1880〜1911歌 人浜 坂(翠渓すいけい)。諸寄に生まれる。東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。
歌碑

●生い立ち
 東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれる。
 父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人であったが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていった。また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は純孝3歳の時、村岡町の実家へ帰って行った。離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごした。
 純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学。卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励んだ。彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていく。

●薄幸の歌人
 文学的才能は御影師範学校・東京高等師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていった。

  • 秋雨は親はなくとも育ちたる 我と知りつつ降るとし思ふ

  • 牛の背に我を乗せずや草刈女 春来峠はあう人もなし

  • 君を思う我をはた思う君我の 二人の中のいとし児ぞこれ

     大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸ったが、長くは続かなかった。純孝は過労から倒れ、肺結核になる。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まる。妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移した。

     死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じした。

  • 干からびし我が血を吸いていきてある 虱はさらにあわれなるもの (絶筆)

  • 風吹かば松の枝なる枝なれば 明石を思ふ妹と子思ふ

     純孝の二千数首の珠玉の歌集は純孝研究者たちの力で世の中に蘇ってきた。

  • 小坂 象堂1870-1889洋画家出 石「野辺図」(M31)「晩帰」
    一瀬 粂吉1870-1943銀行家出 石文部省に勤務の後、三十四銀行副頭取、三和銀行取締役となった。
    長 耕作1887-1929漁 民香 住 明治20年1月11日、兵庫県美方郡香美町香住区一日市に生まれる。長熈の次男。父の遺志を継ぎ、香住漁港起工にこぎつける。
    谷垣 長蔵1880-1967技術者竹 野有明海干拓者
    近藤 朔風1880-1915訳詞家出 石 明治13年1月14日に生まれる。「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」などの名訳で有名。実父は明治の新国家設立に尽力した、豊岡市出石町出身の桜井勉。
     近藤朔風は、気象測候所の創始者として有名な桜井勉(豊岡市出石町出身)の五男として生まれる。12才の時に近藤家に養子に入り、東京外国語学校、東京美術学校、東京音楽学校で学び、芸術・音楽の見識を高める。卒業後、『名曲新集』『西欧名曲集』などを発刊し、訳詞家としてその才能を発揮した。また、日本初のオペラの公演に携わり、日本の近代音楽の発展に貢献した。
    梅谷 光貞1880-1936行政家養 父山梨県・長野県・台湾新竹知事を歴任。退官後は移民事業を指導。
    和田 三造1883-1967 洋画家生 野日本洋画界の黎明期に活躍。生野三巨匠の一人。帝展審査員。「南風」。
    青山 熊治1886-1932洋画家生 野日本洋画界の黎明期に活躍。生野三巨匠の一人。帝展審査員。「南風」。
    岡垣 徹治1890-1968歌 人浜 坂アララギ派の歌人として活躍。初代豊岡高等学校校長
    谷角 日沙春1893-1971画 家浜 坂大正7年に第12回文展に入選し、注目をあびる。「孤高の天才画家」。
    柴田勝太郎1889-1975化学者山 東尿素肥料の開発者。
    赤木 正雄1887-1972政治家豊 岡日本砂防の礎を築く。鬼怒川、信濃川、木津川、瀬田川、富士川、神通川、天竜川、六甲山など全国の砂防工事を指導。数々の実績を積み、日本に「赤木砂防」を普及させた。また、渓流河川(上流)の改修を一般河川改修の分野から取り外して砂防工事の分野に入れ、ついに土木局内から砂防課を創設するという治水機構の根本的改正を実現させた。
     円山川直轄工事・一級河川編入・山陰海岸国立公園編入をはじめ、但馬小中河川改修に果たした功績は大きいものがある。農学博士・内務省技師・参議院議員・建設政務次官・文化勲章受章
    巖本 善治1863-1943教育者出 石女子教育に尽力、明治女学校創立。ニ代目校長。
     「明治女学校」は、キリスト教精神に基づいて日本人による女子の高等教育を目指し、明治18年木村熊二・鐙夫婦によって創立された。 しかし、学校経営は妻鐙の死後間もなく熊二から巌本善治に引き継がれていく。  明治42年に廃校となった「明治女学校」の存続は短期間ではあったがその教育は、因習などにとらわれることなく自らの考えを持ち行動する女性を多く搬出した。
    太田垣士郎1894-1964実業家城 崎 明治27年(1894年)2月、兵庫県城崎町(現・豊岡市)生まれる。五高、京都帝国大学経済学部卒業。日本信託銀行入行後、阪神急行電鉄(現:阪急電鉄:阪急阪神ホールディングス)に移り、1946年社長。
    1951年、電力界の再編成が行われ、関西電力が誕生すると同時に初代関西電力社長に就任。
    太田垣は、戦後の電力不足事情をいち早く見抜き、大規模な水力発電所である岐阜県の丸山水力発電所の建設に踏み切った。当時としては最大規模であった。関西電力がスタートした当時の資本金は17億円だったが、スタートしたばかりの時に、資本金の10倍もの資金を投じて大水力発電所の建設に着手したのである。
    終戦後の復興が目覚しい1950年代になり、関西地域の電力事情が逼迫する状況を目の当たりにした太田垣が、その打開策として手がけたのが世紀の難工事といわれた、黒部川第四発電所(いわゆるクロヨン)建設である。
    クロヨン建設に当たっては太田垣は「経営者が十割の自信をもって取りかかる事業、そんなものは仕事のうちには入らない。七割成功の見通しがあったら勇断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるもんじゃない」と言って決断したのは有名な話である。
    石原裕次郎&三船敏郎主演映画黒部の太陽(監督:熊井啓)で全国に知られるようになる。関西経済連合会会長就任、なにわ賞、藍綬褒章などを受賞。故郷の城崎温泉ロープウェイの発案者でもある。駅に太田垣士郎翁資料館がある。
    和田 完二1896-1968実業家竹 野 明治29年6月12日生まれ。 丸善石油(現コスモ石油)社長・同顧問・同相談役。丸善石油事業団を設立し社会福祉に貢献。日本馬術連盟副会長、関西乗馬団体連合会会長
    三木 瀧蔵1899-1981実業家豊 岡三共生興株式会社創業者。神戸貿易協会会長、神戸生糸取引所理事、日本絹化繊輸出組合理事長
    小谷 澄之1903〜1990柔道家朝 来 明治36年(1903)に朝来市に生まれる。日本の柔道を世界に広めた。講道館最高顧問柔道10段。講道館柔道とは、嘉納治五郎師範によって創設され、現在の柔道の原形となった。それ以前にあった柔術各流派の優れたところを集め、危険なところを除き、工夫と研究を加えて、全く新しい講道館柔道を創始した。

     小谷はこの講道館柔道を世界に広めるべく、昭和28年(1953)には柔道使節団員として全米15州の空軍を指導。
     招請に応じて柔道指導をくり返し、海外出張は20数回、訪問した国々は30を越えた。しかも、その際の滞在は1ケ月以上の長期間に及び、海外に柔道が根付く礎を築いた。

    丸山 修三1904〜1990歌 人村 岡 明治37年3月16日生まれ。京都府立医大を卒業後、開業医をしながら、アララギに入会。歌集「栃の木」「白き花」「暦日」「雑木山」「雑木原」など。兵庫県ともしび賞、半どん賞受賞
    三輪 四郎1904-1924画 家竹 野 
    京極 杞陽1908-1981俳 人豊 岡旧豊岡藩主14代当主。「ホトトギス」同人。「木兎」主宰。高浜虚子師事。句集「くくたち」など。
    橋本 龍一養蚕家1846-1894但 東但馬での製糸業の礎を築く
    桑垣 伝1894-1978実業家但 東阪神変圧器製作所設立・・・戦後最初の点火コイル完成
    加藤文太郎1905-1936登山家浜 坂 明治38年3月11日生まれ。単独行のパイオニアとして知られる登山家。但馬・関西・日本アルプスの山のほとんどを単独登頂。加藤文太郎の生涯は新田次郎氏の名作「孤高の人」となって出版され、多くの人々に感動を与えている。
    加藤文太郎記念図書館
    山田 六郎1905-1983実業家香 住 くいだおれ創業者
    1905年、香住町の村長の家の六男として生まれる。現・神戸育英高校卒。20歳のとき、大阪の繊維問屋に丁稚として入る。早くから洋服の時代を予測し、独立してからも「アッパッパ」などを考案。
    1947年には兵庫県の県会議員となって1949年、44歳のときに道頓堀食堂株式会社つまり「大阪名物くいだおれ」を創業した。
    1階正面にチンドン屋の格好をした広告宣伝用の人形があり、これは「くいだおれ太郎」と呼ばれる。1950年に登場、以降次第に知名度をあげ、1990年代よりは大阪の町を代表する名物として人気がある。
    2008年4月8日、建物の老朽化や周辺環境の変化などを理由に同年7月8日をもって閉店すると報道各社に伝え、翌9日、柿木会長と山田社長が記者会見を開いた。
    志村 喬(しむら たかし)1905-1982俳 優生 野 本名は島崎 捷爾(しまざき しょうじ)。黒澤明監督のほとんどの作品に出演、また『ゴジラ』を始めとして多くの特撮映画に出演。この両者はともに海外でも広く親しまれており、世界的にも日本映画界最高の俳優として知られる名優中の名優。00本近くの映画作品に出演する。日本映画史に残る名優。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物。4
    明治38年、三菱生野鉱業所の冶金技師の家庭に生まれる。祖父は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽伏見の戦いには隊長として出陣したなど由緒ある家柄。
    神戸一中、宮崎延岡中を経て1923年(大正12年)に関西大学予科に入学するが、まもなく父が退職したことから学資の援助が得られなくなり、仕方なく夜間の専門部英文科に転ずるとともに大阪市水道局の臨時職員として生計を立てる。この頃、英文科の講師に劇作家の豊岡佐一郎やシェイクスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生えはじめ、大学の演劇研究会に参加し、さらに1928年(昭和3年)には豊岡を演出家に頼み、自ら幹部としてアマチュア劇団・七月座を結成する。しかし、芝居に熱中するあまり市役所は欠勤続きでついにはクビとなった。そこで大学も中退して、本格的に役者の道を目指し、七月座のプロ化を図り巡業などをするが、大赤字となり失敗。
    大阪に戻ってJOBK(NHK大阪放送局)のラジオ劇に声優として出演したり、厚紙切りなどで食いつないでいたが、それだけではどうしても生活が出来ず、1930年(昭和5年)に豊岡の友人で、のちに東宝撮影所長になった森田信義の世話で五月信子の近代座に入り、職業俳優として舞台に出演する。
    特に黒澤明の第1回監督作品『姿三四郎』で老柔術家・村井半助を演じ、それ以来黒澤に重用され、黒澤映画への出演は三船敏郎を抜いて最も多く、1965年(昭和40年)のモノクロ時代の最終作品『赤ひげ』までの黒澤映画で出演しなかったのは『續姿三四郎』、『素晴らしき日曜日』、『どん底』の3作品のみだった。
    戦後は黒澤監督の『酔いどれ天使』で主役級に抜擢され、続いて1949年(昭和24年)に『野良犬』で三船と組むベテラン刑事役を好演した。この前年の『静かなる決闘』での名演もあって、毎日映画コンクール男優演技賞を受賞する。1952年(昭和27年)、『生きる』ではワンマン扱いで主演(この時代の黒澤映画では、この作品のみ三船が出ていない)、癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して演じ、大ヒットする。NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され、黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となった。『七人の侍』で侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。
    黒澤作品に出演する一方、本多猪四郎監督にも重用され、『ゴジラ』以来怪獣映画・特撮映画にも多く出演、主に重厚な科学者役を演じた。東宝の人気三大怪獣ゴジラ、モスラ、キングギドラのデビュー作には物語上重要な人物として出演、特に『ゴジラ』の山根博士役における名演は特撮ファンにとって伝説的である。後年、本多が演出補佐として参加した『影武者』でも顔を合わせている。
    北條 秀一1905〜1992政治家竹 野明治38年5月31日生まれ。国鉄顧問、参議院議員、衆議院議員を歴任。竹野小学校に「負けじ魂基金」を創設し、社会貢献に勤めた。
    宮出 秀雄1909-1983学 者但 東農業経営経済学者、理学博士
    東井 義雄1912-1991教育者但 東「村を育てる学力」を発表。昭和のペスタロッチといわれた。ペスタロッチ賞、平和文化賞、小砂丘忠義賞、文部省教育功労賞受賞。
    伊藤 清永1911-2001画 家出 石 明治44年生まれ。女性美を追求した作品を多数描いた。昭和22年(1947)、第3回日展に「夫人像」出品し特選受賞、翌年も「室内」で特選を受賞。昭和37年(1962)には渡欧し、ピカソの画商であり評論家のカ一シワイラーに認められ、独自の画風を極めた。
    伊藤清永美術館
    佐々木良作1915-2000政治家八 鹿第4代民社党中央執行委員長。電産労組の初代書記長から政界へ。豊岡中学、旧制松本高校を経て、京都大学法学部卒業。1947年、第1回参議院議員選挙の全国区に無所属で出馬し当選。 1955年、第27回衆議院議員総選挙に右派社会党から出馬し初当選。同年、左右の社会党が統一される。 1960年1月27日、社会党を離党し民主社会党結成に参加し1代西尾末広委員長で副書記長と教宣局長を歴任。
    前田 俊夫1920-1988人形家関 宮一時期衰退していたひな祭用の伝統的土人形を復活。
    今津 芳雄1915-1995実業家豊 岡 JRI 株式会社 かに道楽 創業者。 豊岡市瀬戸に生まれる。日和山観光株式会社を設立し、ホテル「金波楼」を営んでいた今津芳雄氏が、1960年、魚介料理店「千石船」を併設、創業し、かに道楽の第一歩がスタートする。
    かに料理の創作、かにの凍結保存方法を開発する。
    関西の常連客からの「新鮮なかにを大阪で食べたい」という声を受けて、1962年食のメッカ大阪西道頓堀に「かに道楽」オープンした。
    1964年、えび料理専門店「えび道楽」を大阪の道頓堀に出店する。
    1967年、名古屋地区へ出店進出する。
    かに食材の安定供給のため、北海道漁場を開拓し、空輸直送を始める。
    TVCMを始め、「とれとれぴちびち」かに道楽ソングが出来上る。
    1971年、日和山観光(株)から独立し、株式会社かに道楽を設立する。大阪府下から広島地区、岡山地区、東京地区へも出店進出する。
    企業としての出店展開がスピードアッブした時期である。
    1987年、創業者今津芳氏が雄取締役を退任し、名誉会長となる。
    グループ企業に城崎カンツリークラブ、城崎マリンワールド、日和山食品など。
    山田風太郎1922-2001小説家関 宮 1922年(大正11年)1月4日生−2001年(平成13年)7月28日。本名は山田 誠也。豊岡中学校(旧制中学)卒業。東京医専(今の東京医科大学)。「忍法帖」シリーズをはじめ、明治や室町時代を舞台にした小説等の作品で人気を博した。菊池寛賞。
    山田風太郎記念館
    植村 直己1941-1984冒険家日 高 昭和16年2月12日、兵庫県豊岡市日高町上郷に生まれる。豊岡高校、明治大学卒。不屈の単独冒険家。五大陸最高峰登頂、北極圏1万2千キロ犬ぞり単独冒険など数々の偉業を成し遂げる。イギリス、バーラー賞受賞、国民栄誉賞受賞。
    植村直己冒険館
    陰山 英男1958-教育者朝 来兵庫県朝来市(和田山町)出身の教育者。立命館小学校副校長・立命館大学教育開発支援センター教授。安倍首相の諮問機関「教育再生会議」委員。小学館の通信添削学習『ドラゼミ』総監修者。「百ます計算」ばかりがメディアでは注目される結果となったが、陰山の教育法の根底にあるのは「基礎的な生活習慣を身につけさせること」と「反復練習」であり、「百ます計算」は後者の一部に過ぎない。
    京極高晴経済家靖国神社現宮司東京出身我が旧但馬豊岡藩(兵庫県)の京極家15代当主の氏

    ■豊岡市 豊岡市出身の偉人
    ■たじまの歴史遺産 但馬の百科事典『先人たち』 たんしん地域振興基金
    ※但馬・理想の都の祭典(平成6年度開催)資料などから作成

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