歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

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丹波・播磨平定

概 要

目 次

  1. 丹後平定と細川藤孝(幽斎)
  2. 丹波平定と黒井城の戦い
  3. 波多野氏
  4. 播磨平定と赤松氏
  5. 秀吉の因幡攻略
  6. 乱世の終焉
 丹波国(たんばのくに)は、大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てています。このため、丹波国は甲斐や尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。地域性として亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬、篠山・氷上の兵庫丹波は但馬・摂津・播磨に密接に係わっています。

 丹波や畿内では国人の独立志向が非常に高く、山城や丹波などでは、守護(細川氏)が数十年をかけても国人層の被官化を達成できない事例も見られました。丹波国は古くより山陰道からの京都の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの支配を受けました。ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれました。そして篠村(亀岡市篠町)では、鎌倉時代末期には足利尊氏が挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変へと向う際にそれに倣ったとされるなど、時代変革の舞台ともなりました。

明智光秀(あけち みつひで)

 明智光秀は、戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。正室は妻木勘解由左衛門範煕(のりひろ)の娘煕子(ひろこ)。2人の間には、織田信澄室、細川忠興室珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男光慶(十五郎)がいます。

 明智氏は『明智系図』によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族。美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)より発祥。

源頼光−源頼国−源国房−(6代略)−土岐頼貞−土岐頼基−明智頼重−(7代略)−明智光継−明智光綱−明智光秀−明智光慶

 1528年(生年日は不明(1528年と推定))、岐阜・可児(かに)市出身、明智城主の子とされるが不明(美濃国説が有力)。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。はじめ斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)、道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死しました。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたといいます。

※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとしました。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたといいます。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に(家康は21人)、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。

 やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられた。1563年(35歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(38歳)、13代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなります。

謎の多い明智光秀

   『勧善懲悪』、時代劇や多くのハリウッド映画、ヒーロー戦隊番組に於けるシナリオにおける典型的パターンです。これは善玉(正義若しくは善人)と、悪玉(悪役・悪党・搾取する権力者など)が明確に分かれており、最後には悪玉が善玉に打ち倒され、滅ぼされたり悔恨するという形で終結します。一般にはハッピーエンドとされる形で物語は終幕を迎えるパターンです。

   信長、秀吉、家康などは英雄視され、光秀については、歴史物では、本能寺の変で主君信長を討った「主殺し」、「謀反者」、「三日天下」など悪いイメージで知られています。しかし、本当にそうであったのかという素朴な疑問がありましました。光秀ほど謎に満ち、歴史的興味をかりたててくれる人物も、そう多くはありません。

 怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴の記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。

 ひょうきん者の藤吉郎(秀吉)、カリスマ的な信長。光秀は生真面目な努力の人であり秀才型といえます。『勧善懲悪』な時代劇にするには、なんとも光秀は面白くはないでしょう。戦国期の武将の中で光秀が特異な存在で一人浮いて見えてしまうのはどうしてなのでしょうか。私の感覚ではありますが、信長・秀吉・家康に代表される戦国武将は歴史上の勝者敗者を問わず、現実世界からかけ離れた人物であるのに対し、光秀については、その栄光も苦悩も挫折も現代に通じるドキュメンタリーとしてとらえることができる人間らしい人物としても興味があるところです。

 「勤勉で、学問好きで、まじめに生きようとしています。むろん武士として名誉欲も、政治的野心もありますが、歌人であり、ものの哀れを知る男だ。」(明智光秀 物語と史蹟をたずねて 早乙女貢著より抜粋)という現代人的感覚に近い人間だからだ英雄的ではないと思われます。

 逆に言えば戦国期においては、生きていけない人間ということになってしまうのかもしれませんが、明智一族の結束の強さに光秀の人情に厚い人間らしさを感じるのです。光秀の才能や人間性が、どのようにして培われたものか大変興味がありますが、残念ながら光秀が歴史の表舞台に登場してくるのは朝倉義景に仕官した時からで、その前半生を語る信憑性のある資料はほとんどなく、謎に包まれています。

 しかしながら、歴史を大きく転回させたキーマンであることは疑うべくもありません。

 1571年7月、光秀は信長から近江国滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始します(信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件でした。光秀は初めて自分の城を持っただけではありません。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのです。

 天正3年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われます。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺えます。

 天正10年(1582年)6月2日(西暦6月21日)早朝、光秀が羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、亀山城から桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる「本能寺の変」が起こります(しかし、光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城より3000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すことになってしましましました。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だに曖昧なこともあって、良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が後に数多く作られることとなりましました。

本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)。ここで本能寺の変について、おさらいしてみましょう。

5月15日 光秀は、武田攻めから帰還したのち、長年武田氏と戦って労あった徳川家康の接待役をより務めた。
15日羽柴秀吉から応援の要請が届く。
17日光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城に帰され、中国攻めの秀吉援護の出陣を命ぜられた。
26日いまひとつの居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭。
28日・29日「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催しました。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが、句の解釈は種々ある。
29日信長は秀吉の応援に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った[*1]。同時に、信長の嫡男・信忠は妙覚寺に入った。
翌6月1日信長は本能寺で茶会を開いています。
6月1日夕光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった(光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城より3000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。
2日未明桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言[*2]して、襲撃を明らかにしました。
6月2日『本能寺の変』。 光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、ただちに「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。
6月3日、遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としています。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。5日、光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者だ。午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。
6月9日信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。細川家存続を選んで親友光秀を裏切った自分に「武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。忠興はガラシアを辺境に幽閉しました。

 光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。引退。光秀は人々の上に君臨する野望や征服欲の為に信長を討ったのではありません。ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。

6月10日光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立しました。11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。12日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山[*3]に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に占領されていた。
6月13日『山崎の戦い』。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの 1万6千。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅しました。「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。“あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍もやって来るだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。
同日深夜大雨。しかし、天は光秀を見放しました。小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを13騎で敗走中だった光秀は、落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害しました。その場で2名が後を追って殉死。 14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したといいます。安土城を預かっていた明智左馬助(25歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。
6月15日坂本城は秀吉の大軍に包囲されます。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃しました。

光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。

[脚注]

[*1]…本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた信長宿舎としての改造を施されていた。2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっています。

[*2]…「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代初期の『川角太閤記』が初出−『検証本能寺の変』谷口克広著。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、当時、重職以外の足軽や統率の下級武士は京都本能寺にいる徳川家康を討つものと信じていた、とされています。

[*3]…天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。

本能寺の変の原因

 中国2国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。など諸説あげられています。

 信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられています。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられます。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきましたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はあります。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要があるようです。

 光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずか3千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出しています。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようです。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺で30万石とも50万石とも言われていますが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかありません。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺えます(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、『明智家法』には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っています。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在します。

 ルイス・フロイスの『日本史』に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評があります。秀吉については好色・女好きで知られ、多くの側室をおいていた(ルイス・フロイスは「日本史」において「300名の側室を抱えていた」と記録している)。

 高柳光寿は、著書『明智光秀』の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べています。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多いようです。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候…」と讃えています。『信長公記』には他にも似たような記述が少なくありません。

 光秀は努力の人であり秀才型といえます。明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたといいます。戦国武将の多くが側室を持つ中で、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。何度も主君を変わり、領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。側室もなく妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する、心優しき男。織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であったハズ。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのです。

 一方、秀吉は、ドラマなどでは人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀2年に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』や『信長公記』より)、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(同年12月 5日の羽柴秀吉書状より)等、晩年だけでなく信長の家臣時代でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面があったようです。

 母親の大政所への忠孝で知られています。小牧・長久手の戦いの後、必要に迫られて一時徳川方に母と妹を人質に差し出しましたが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させています。天下人としての多忙な日々の中でも、妻の北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存しています。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京しましたが、結局臨終には間に合わなかった。秀吉が親孝行であったことは明治時代の国定教科書でも好意的に記述されました。

 江戸時代を通じて、信長からの度重なるイジメが原因とする「怨恨説」が根拠のない創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはありませんでした。

 こうした理解は、映画やドラマなどでも多く取り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していました。しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできました。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせました。

 現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていありません。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(仏教弾圧など)への反動(反革命)とする説も多いのです。

 本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、これによれば信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変三ヶ月前の茶会で宝をおく床の間に信長の書を架けるなど心服している様子がある。このため怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われています。しかし、それらの黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはありません。

 ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。従来はドラマや旧領丹波など一部の地域では遺徳を偲んでいる事などの影響か誠実なイメージがある。しかし、教養の高い文化人で線が細いといわれる光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな戦国武将としての姿が見えます。

織田方面軍団

  • 北陸方面:柴田勝家を方面軍総司令官として、与力に前田利家や佐々成政らを配属。
  • 中国方面:羽柴秀吉を方面軍総司令官として、与力に黒田官兵衛や蜂須賀正勝らを配属。
  • 畿内方面:明智光秀を方面軍総司令官として、与力に細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を配属。
  • 関東方面:滝川一益を方面軍総司令官として、与力に森長可や川尻秀隆を配属。
  • 四国方面:信長の三男・信孝を方面軍総司令官として、与力に丹羽長秀や蜂屋頼隆らを配属。

     一方、織田政権崩壊の原因は、政権の構造的な問題より、むしろ織田信忠の自害(享年26)が大きいとする意見もあります。すなわち、信長は本能寺の変以前に、大名としての織田家の家督は信忠に譲っており、自らは、織田・柴田・明智・羽柴・神戸(信孝)・北畠(信雄)などの「大名(信長の取立による大名)」の上に君臨する存在となっていた。そのため、配下の柴田や明智などの大名が、毛利や上杉などの信長に臣従していない大名より大きな兵力をもっていても組織としては問題がなく、むしろ合理的であったと言える。つまり織田家はすでに信長の直接指揮から外れているため、信長自らが巨大な兵力をもつことは組織としての弊害が大きいといえる(信忠が大兵力をもつのであれば問題ない)。そのため、仮に信長配下の大名の謀反により信長が倒されても、信長傘下でもっとも大勢力をもつ織田家の当主が生き残っていれば、政権が維持できる構造になっていた。従って政権崩壊の主要因は後継者の死亡との説である。いずれにせよこの時信忠が脱出できていれば、織田政権は存続した可能性が高かったという意見もあり、少なくとも個人の武名としてはともかく、織田政権の後継者としては重大な判断ミスであった。ただ、信忠が生き残れば政権が存続することを理解できたならば、信忠が脱出すれば光秀の謀反が失敗になることも同時に理解できたはずである。そのため、光秀が見逃すはずがないとの判断に至ることはむしろ自然なことといえる。結局、信忠の行動を読んで謀反を起こした光秀が上手だったのでありこの判断ミスをもって信忠の能力を判断することは難しい。

     鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が言い表している(それぞれ本人が実際に詠んだ句ではない)。これらの川柳は江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える。

  • 織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
  • 豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」
  • 徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」

    光秀ならこう詠んだかも・・・。

  • 明智光秀「鳴かぬなら 私が鳴こう ホトトギス」

  • 石田三成「鳴かぬなら 死なせてくれよ ホトトギス」
  • 明智光秀と北近畿の足取り

     明智光秀は、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を秀吉とともに領地として与えられたことからも、但馬・丹後・丹波に関わりがあります。

  • 信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされます。

  • 但馬は山名氏、丹波は細川氏、丹後は一色氏。

  • 朝倉義景は但馬養父郡、古族日下部氏の出自。朝倉義景の母は若狭武田氏の出、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられています。光秀は最初、斎藤道三に仕えるも、のち越前国の朝倉氏に仕えた。

  • 足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れる 義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように要請しました。

  • 最初に光秀が但馬と関わりのあるとされる事件は、  永禄二年(1559)、丹波福知山城主の光秀が、出石の此隅山(このすみやま)城が虚城であることを聞いて、有子山(出石)城を攻撃しようと考え、陣代として大野内膳統康・伊藤七之助次織・伊藤加助の三名をあて、進美寺(しんめいじ)に「掻上の城」を築いて、水生城(みずのうじょう)を攻撃しましたが落とせませんでしました。

  • 丹波は明智光秀によって治められ、丹後の細川氏には光秀の娘・細川忠興の室珠(洗礼名:ガラシャ)がいましました。

  • 但馬国主でのちに隠居した山名祐豊と城主となった氏政が出石城(有子山城)が築城間もない天正三年(1575)十月、となりの丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めたとき、信長に助けを求めて部下の光秀を派遣して、奪われていた竹田城を取り戻し黒井城に入った直正を攻めています。

  • 天正7年(1579年)、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しで丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、ついに波多野秀治を下して畿内を平定しました。

  • この功績によって近江滋賀郡および丹波一国を与えられ、丹波亀山城・横山城・周山城を築城しました。京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって最重要ポストにあったことが伺えます。

  • 丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」と呼ぶ者もいます。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。

  • 現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われています。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっています。

     そして、秀吉の但馬征伐が二回(1577、1580)にわたって行われます。

  • 秀吉→山陽方面・山陰方面
  • 光秀→丹波・山陰方面

  • 2.丹波平定と黒井城の戦い

     さほど有名ではありませんが、戦国時代に八上城の波多野氏は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともあります。

     丹波国では、元亀元年(1570年)3月、上洛していた織田信長に赤井直正(荻野直正)と赤井忠家は拝謁し織田方につくことを約束しました。織田信長はこれに対して氷上郡(ひかみぐん・兵庫県丹波市)、天田郡(あまたぐん・福知山市)、何鹿郡(いかるがぐん・福知山市/綾部市)の丹波奥三郡を安堵しました。

     これで丹波国は安定するかに思えたのですが、翌元亀2年(1571年)11月、此隅山城(出石町)城主・山名祐豊(すけとよ)が家来、夜久野城(山東町)城主・磯部豊直らと、氷上郡にあった足立氏の山垣城(青垣町)を攻めました。黒井城の赤井直正と赤井忠家はこの動きに即応し、山垣城に救援に向かい、山名祐豊、磯部豊直両軍を撃退しました。その後、勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、次は山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫りました。

     このような状況になり、山名祐豊は織田信長に援軍を要請しました。織田信長は当時信長包囲網にあい、援軍を出せる余裕はなかったのですが、越前一向一揆が一段落した天正3年(1575年)、明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになります。織田信長としてみれば、毛利元春を討つ前に京に近い丹波国を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと推察されています。  明智光秀は越前国より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣したと思われています。この時赤井直正は竹田城にいましたが、明智光秀の動きを察知し黒井城(兵庫県丹波市春日町黒井)に帰城、戦闘態勢を整えました。織田信長は、同年10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいきました。

     明智光秀は圧倒的兵力で黒井城を包囲しました。この時の状況を『八木豊信書状』によると「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と観測を述べ、スムーズに戦がすすんでいました。戦況は明智光秀に有利であり、攻城戦は2ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野三兄弟による裏切で3方向から攻め立て明智光秀軍は総退却してしまいました。

    『甲陽軍鑑』によると「名高キ武士」として、

  • 徳川家康
  • 長宗我部元親
  • 赤井直正

    と並び紹介されているほどの武将でした。

     大敗した明智光秀軍は京に逃げ込み、その後坂本城に帰城しました。先の戦いから1ヶ月後、再び戦の準備を整え、同年2月18日に坂本城を出陣し丹波国に入国しましたが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまいました。その後、一方、この戦いで織田信長軍に土をつけたことで赤井直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていきます。

     再び明智光秀が黒井城を攻城するまで約1年半の月日が流れ、この間明智光秀は畿内を転戦します。石山本願寺攻め、加賀攻め、信貴山城の戦いなど明智光秀軍は「遊撃軍団」だったと思われます。

     その間、赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていました。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者、跡部大炊助や長坂長閑斎、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っています。

     天正5年(1577年)10月、第二次丹波国征討戦を開始します。まず明智光秀軍は、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城 (丹波国)を落城させました。この二城を丹波国征討戦の本拠地としました。第一次丹波国征討戦と違い、明智光秀軍は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとりました。織田信長は細川藤孝、細川忠興親子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させます。

     一旦は明智光秀を裏切った丹波国の国人衆は、二城が陥落し、赤井直正が死去、八上城を攻囲するのを見ると再び明智光秀に降っていきました。赤井家では赤井直正の弟の赤井幸家が後見となり統率することになります。

     さらに織田信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、八上城、黒井城の支城を次々と落城していきました。明智光秀は攻囲中に、軍勢を八上城に置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処しています。

     明智光秀、細川藤孝らは同年10月24日安土城に凱旋し、織田信長に拝謁し丹波国が平定できたことを報告します。その翌天正7年(1579年)織田信長は丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与えることになりました。

  • 3.波多野氏(はたのし)

       波多野氏は、波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属し、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしました。

     秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正12年(1515年)、朝治山に八上城[*1](兵庫県篠山市)を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たしました。

     稙通の孫で波多野秀治は三好氏の勢力が衰えると再び独立を果たし、永禄9年(1566年)には八上城を奪回しました。永禄11年(1568年)に織田信長の上洛の際、赤井直正とともに信長に1度は降伏します。天正3年(1575年)からは反織田勢力である丹波の諸豪族を討伐するために信長が派遣してきた明智光秀の軍に加わって織田家のために働きますが、天正4年(1576年)1月に突如として足利義昭の信長包囲網に参加して光秀を攻撃し、撃退してしまいました。このため、秀治は信長と敵対します。

     一時は織田軍を撃退したものの、天正7年(1579年)、遂に秀治は降伏しました。その後、秀治は弟の波多野秀尚とともに信長によって処刑され、戦国大名としての波多野氏は滅び去りました。


    [*1]…この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔(はりつけ)になった城としても知られる(後世の創作という説もある)。

    4.赤松氏

     嘉吉元年(1441年)、赤松満祐・赤松教康父子が結城合戦の祝勝会で、第6代将軍・足利義教を謀殺するという嘉吉の乱が起こし、それにより赤松氏は山名持豊(山名宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐と教康は殺され、赤松氏本流は没落しました。領地は功により山名氏に引き継がれました。しかし、赤松政則のときに再興を果たし、応仁の乱では細川勝元に与し、その功により播磨・備前・美作の3ヶ国を領する大大名にまで返り咲き、長享2年(1488年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐しました。

     戦国時代に入ると、政則の子・赤松義村が家臣の浦上村宗に殺され、さらにその子・赤松晴政は村宗に傀儡(かいらい)として擁立されるなどして赤松氏は内紛により衰退していきます。さらに一族であり家臣でもあった別所氏に独立されたり、尼子氏の侵攻を受けるなどして悪条件が重なってさらに衰退が促進されました。

     このため、本拠を置塩城(おきしおじょう)に移し、晴政の子・赤松義祐は当時の天下人である織田信長と同盟を結ぶなどして勢力回復を図りますが、浦上宗景との戦いに敗れて結局は没落しました。義祐の子・赤松則房の時代には豊臣秀吉の家臣となり、天正11年(1583年)にわずか1万石を安堵されるにすぎない小大名にまで没落してしまいました。

     秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍に与したため、自害を余儀なくされてしまいました。同じく赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広も西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払ったために、徳川家康から戦後、これを理由に自害(この件に関しては寝返りを促した亀井茲矩に責任転嫁された冤罪説が強い)を命じられてしまい、これにより大名としての赤松氏は滅亡したのです。

    5.三木合戦と別所長治

     室町時代中期以降、嘉吉の乱により主家の赤松氏と共に別所氏も一時衰退しましたが、応仁の乱により赤松氏が勢力を回復すると別所則治は三木城を築き初代城主となりました。そのため則治は別所氏中興の祖と言われています。

     則治の孫・別所就治の時代に主家の赤松氏とその守護代である浦上氏が対立して赤松氏の勢力が衰退の一途をたどり始めると、就治は東播三郡を支配下に置いていたことを背景に赤松氏から独立し、戦国大名として名乗りを上げます。

     就治は武勇に秀でたことから、その後は三好氏や尼子氏の侵攻を次々と撃退して勢力を拡大し、東播八郡(美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡)を支配する別所氏の最盛期を築き上げました。

     別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正3年(1575年)10月に信長に謁見、翌年も年頭の挨拶に訪れています。しかし、就治の孫・別所長治のときに信長が中国の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしましたが、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、妻の実家である丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆しました。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となります。

     長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の有名な「三木の干し殺し」戦法に遭い、この三木合戦の際には神吉城(かんきじょう・印南郡・加古川市)、志方城(印南郡)、淡河城(美嚢郡)、高砂城(加古郡)、端谷城(明石郡)など東播磨各地の城は支城として別所方に従いましたが、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから二年後の天正8年(1580年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害して果てたといいます。享年、23。但し「信長公記」では26とされています。

     別所重宗(重棟)は、甥の別所長治に信長に降伏するように進言しましたが容れられなかったため、甥のもとから去って秀吉の家臣となった人物で、天正13年(1585年)8月に八木城主(養父市八鹿町八木)に任命されました。しかし後に長男の別所吉治(ただし長治の子という説がある)に家督を譲って隠居した重棟は、天正19年6月に死去しました。

     後を継いだ吉治は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては西軍に味方して細川幽斎が守る丹後田辺城(舞鶴市)を攻めたため、戦後に改易され、大坂を流浪しました。しかし吉治の伯母が徳川秀忠の乳母であったことから、後に罪を許されて藩主として再起することを許されたのです。

     吉治は大坂の陣で徳川方として武功を挙げたことから、丹波国内に5000石を加増されて2万石の大名となりました。しかし寛永5年(1628年)5月28日、吉治は病を理由に参勤交代を行なわず、その実は病ではなく狩猟して遊んでいたことが露見して、幕命により改易されてしまい、大名家としての別所氏は滅亡しました。

     慶安元年(1648年)、息子の別所守治は赦免され、のち1000俵を与えられ、子孫は700石の旗本として存続しました。吉治は息子の下で余生を過ごしました。

    6.荒木村重

     明智光秀より4年前に織田信長に反逆を起こした武将として有名です。

     天文4年(1535年)、摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え池田長正の娘を娶り一族衆となります。しかし三好三人衆の調略にのり池田知正とともに三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握します。

     その後織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)、茨木城主となりました。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げました。天正2年(1574年)、伊丹城主となり、摂津一国を任されました。その後も信長に従って、石山本願寺攻め、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げました。

     天正6年(1578年)10月、村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻しました。一度は翻意し釈明のため安土に向かいましたが、途中寄った高槻城で家臣の高山右近から

     「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」

    との進言を受け伊丹に戻りました。織田軍羽柴秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田孝高(官兵衛)を使者として有岡城に派遣し翻意を促しましたが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁してしまいました。その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦しましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。

     天正7年(1579年)9月2日、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、次いで花隈城(神戸市)に移り(花熊城の戦い)最後は毛利氏に亡命します。

     落城した有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において惨殺され、

     「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」

    と記されるほどの残虐な様子だったといいます(信長公記)。

     12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と記しています(立入左京亮宗継入道隆佐記)。その後も信長は、避難していた領民を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追求していきました。天正9年(1581年)8月17日には、村重の家臣を匿いそれを追求していた信長の家臣を殺害したとして、高野山金剛峯寺の僧数百人が虐殺されました。

     天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住します。そして豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶人・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもちました。はじめは妻子を見捨てて逃亡した自分を嘲って「道糞」と名乗っていましたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています。銘器「荒木高麗」を所有していました。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年52。

    7.黒田官兵衛

     天正八年(1580年)正月、三木城(兵庫県三木市)を落した秀吉が三木城に移ろうとした時、黒田孝高(官兵衛・如水)は姫路城を秀吉に譲り、代わり宍粟郡を与えられ篠の丸城に入りました。このころ、主家の小寺氏は没落しており、官兵衛は信長の命で小寺姓を棄て、黒田の名乗りに戻っています。

     以後、官兵衛は秀吉の幕下にあって、天正九年六月に因幡国鳥取城を包囲し、同年七月に淡路・阿波(徳島県)を攻略、十一月には淡路由良城主安宅河内守を攻略し、淡路を平定しました。翌天正十年(1582)、毛利氏と雌雄を決せんとする秀吉に従って備中国に出陣しました。四月、清水宗治が守る備中高松城を包囲しました。ここで、官兵衛が秀吉に水攻めの策を献じたことから、史上有名な「備中の水攻め」となりました。

     ところが水攻めも大詰めとなった六月、本能寺の変で信長が光秀に殺害されてしまいました。この知らせを聞いた秀吉は放心の体でしたが、官兵衛は秀吉にそっと「上手になされませ」と囁きました。それを聞いた秀吉は、何もいわず官兵衛を見返したといいます。そのとき官兵衛は、さかしらな(利口ぶった)失言をなしたことを思い知ったのでした。

     ともあれ、毛利氏との和議が進められ、城将清水宗治が切腹することで高松城の戦いは終わりました。かくして、史上に残る秀吉の大返しが行われ、山崎の合戦で光秀を討った秀吉が天下取りに躍り出たのでした。その後も孝高は秀吉の帷幕にあって、賤ケ岳(しずがだけ)の合戦、小牧の戦いなど、秀吉の天下取りの合戦において多くの軍功をがげました。そして、天正十五年(1587)九州征伐の先陣をつとめ、戦後の行賞において豊前国内(福岡県東部)のうち六郡十二万石を与えられました。有名な「黒田節」


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