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秀吉の但馬平定

概 要

目 次

  1. 中国地方攻略
  2. 秀吉の但馬征伐
  3. 秀吉の第二次但馬征伐
  4. 但馬征伐と竹田城
  5. 但馬征伐と高生田城
  6. 但馬征伐と宿南城
  7. 但馬征伐と但馬征伐と水生城
  8. 楽々前城と宵田城の落城
  9. 但馬征伐と出石城

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1.中国地方攻略

 織田信長に中国地方攻略を命ぜられた秀吉は、播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房別所長治、小寺政職らを従えていきます。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高・官兵衛)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とします。一部の勢力は秀吉に従いませんでしたが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼします。

 天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防(上月城の戦い)の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされます。

 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃、途上において竹中半兵衛や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降しました(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏におきました。

 天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻しましたが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させました(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続きました。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置きました。

 天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込みました(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請しています。

 このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮しています。

2.但馬征伐

 秀吉の第一次但馬平定は、天正五年(1577)十一月上旬より播磨を起点として開始されました(ただし、それより先の永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長が羽柴秀吉を但馬に派遣しています)。但馬征伐ともいいます。

 しかし、播磨上月城主木器政範が叛したため秀吉は但馬を撤兵し、上月城攻撃に向かいました。上月城はわずか七日間で鎮圧しますが、戦線が播磨と但馬の両方に拡大することを避けたので、八木豊信はそのまま八木城に留まることができました。しかし、翌六年には、秀吉は竹田城を拠点に、但馬奪取を企画しており、養父郡の八木氏領あたりが織田氏と毛利氏の境界線となりました。

 永禄12年(1569年)、山名祐豊(すけとよ)の時、羽柴秀吉に攻められ落城。天正二年(1574)ごろに祐豊は残った勢力を集めて、出石の此隅城から有子(こあり)山に「有子城」を築いて移りました。築城間もない翌年の天正三年十月、隣国の丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めました。隠居した山名祐豊と城主になった氏政には、これを抑える力はなく、助けを信長に求めました。部下の明智光秀を派遣して荻野直正を討たせました。光秀軍は奪われていた竹田城を取り返し、丹波に敗走して黒井城に入った直正を攻め、山名はやっとこの難から逃れることが出来たのでした。

 但馬国は、織田信長が中国平定のために秀吉(実質は弟の秀長)による侵攻を二度受けることになりました。この侵攻を受けて山名祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地出石に復帰しています。

  • 秀吉→山陽方面・山陰方面
  • 光秀→畿内・丹波・山陰方面

  • 第一次 但馬征伐(平定 1577)
  • 第二次 但馬征伐(平定 1580)

  • 弟の秀長軍…養父・出石・気多・美含・城崎の郡
  • 藤堂孝虎軍…朝来・七美・二方の郡

     天正五年(1577)秋、織田信長が中国の毛利氏を攻略するため、その先発隊を家臣の羽柴秀吉に命じました。秀吉は播磨国に兵を進め、姫路に本拠を構えることになるのですが、それには側面の敵でもある山名氏を討伐する必要があるので、北上して但馬国に入って太田垣氏の占領している生野城をはじめ山口の岩州城を落とし、高生田(たこうだ)城を攻め落とし、進んで太田垣朝延の竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに、秀長に但馬の各城を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、有子城(出石城)をめざして進んでいきました。先陣はもう養父郡小田村に着いていました。宿南城を焼き払い、浅倉ほうきから水生城を攻めてくると思いきや、出石城へ向かいました。出石へ攻め込んだ秀長軍は、思わぬ苦戦に悩まされました。有子城は山名氏の本拠だけあって、たやすく落ちません。

     そのうちに近くの城主たちの反撃体制が整って、一世に立ち向かってきましたから、秀長は散々に敗北し、米地山(めいじやま)を越え、播磨へ逃げていきました。

     記録によれば、秀吉の但馬平定によって但馬の城18が落ち去ったとあり、新しい装備をした秀吉軍のまえに山名勢はその敵ではなかったようです。こうして山名の名城 有子山城も名実ともに消え去りました。

  • 2.秀吉の第二次但馬征伐

     天正七年(1580)、吉川元春は毛利派の垣屋豊続らの要請で、七月但馬に出陣し、美含郡(みぐみぐん)竹野まで進出しますが、背後で東伯耆の南条氏が織田方に離反したため急遽撤兵しました。これにより、但馬の毛利派は孤立してしまい、八木氏はこれを機に織田方につき、秀吉傘下に入ったものと思われます。

     翌年(1580)一月、別所長治の播磨三木城を落とした秀吉は、三月に再び但馬征伐の兵を進めました。但馬の平定は弟の秀長に任せ、自らは因幡に侵攻しました。五月に山名豊国の籠もる鳥取城の攻撃を開始します。この時、八木豊信は秀吉に従って因幡攻めに参戦しています。

     秀吉は鳥取城に対する城を築くと、攻撃を宮部継潤(善祥房)に任せて自身は播磨に転戦していきました。この時、豊信は若桜鬼ヶ城の守備に当たり、山名氏政は私部城、岩常城には垣谷光政が入り、但馬出身の武将を登用していることが注目されます。

     同年九月、秀吉は再び因幡に入りますが、山名豊国は鳥取籠城を続けていました。秀吉は長期戦を覚悟して、周辺の地盤固めを行っただけで再び撤退しています。この時、豊信は智頭郡の半分を知行することを許され、若桜鬼ヶ城に在城しました。翌年の春ごろ、豊国は鳥取城を追放され、代わって毛利の武将・吉川経家が鳥取城に入城しました。 これとともに吉川軍の巻き返し攻撃があり、八木豊信は城を支えきれずに但馬に退去し、以後、豊信の消息は不明となります。おそらく、因幡に与えられた領地を守ることができなかったため、禄を失ったものと思われています。

     のちに、豊信の子で垣屋氏の養子となっていた(異説あり)信貞の子の光政が再び八木姓を名乗っています。そして、光政は関ヶ原の合戦で徳川家康に味方したことで、拝領し徳川旗本となりました。八木守直は二代将軍徳川秀忠の近侍となり、四千石の知行を得て、子孫は徳川旗本家として続きました。

     さらに、朝倉氏が但馬から越前に移った際に、行動を共にした八木氏もあり、その後裔が越前に広まっています。また別に、戦国時代の播磨国寺内城主に八木石見守がいました。ことらは代々赤松家の家臣であったといわれています。

    1.但馬征伐と竹田城落城

     羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により天下の山城竹田城はついに落城します。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえました。

     その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となりますが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となりました。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となりました。嘉吉の乱以降、たびたび山名氏との死闘を繰り返した赤松氏が山名氏が築いた城を任されるということはなんとも皮肉なことです

     赤松広秀(斎村政広)は、羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となりました。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられました。因縁の宿敵赤松氏が山名氏の築いた竹田城最後の城主となったのは、これも因縁だろうか。

     赤松広秀は、関ヶ原合戦では西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めますが、西軍は敗戦しました。広秀は徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させましたが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は無城となりました。

     竹田城は築城後約150年間存続しましたが、関ヶ原の合戦が終わり世の中が平和になると、江戸幕府の一国一城令により、竹田城は廃城となりました。

     現在も頑強な石垣が残る山城の名城です。

    勝賢寺
     赤松広秀の前の城主、桑山修理太夫重晴ゆかりの寺です。重晴の嫡子夫妻の墓碑と伝わる五輪の双塔があります。

    2.但馬征伐と高生田城(たこうだじょう)

     朝来市和田山町糸井の寺内と高生田の境の山に、中世戦国時代の山城の跡があります。この城を高生田城または福富城と呼んでいます。

     この城は山名宗全が全盛のころの山城のひとつで、規模は小さいですが、豊臣勢に滅ぼされるまでは、堅固な城として栄えていました。この城に登る道が、南山のすそから大手門道、寺内の前谷というところから登る道、東の方からの道、北の城ヶ谷から登る道の四つがありました。

     寺内の前谷というところも狭い谷間ですが、この奥に「奥市のだん」または地元の人々が「市場」というところがあって、昔は商家も建ち並び、城へのまかないも受け持っていたと言い伝えられています。そしてそこから一ノ段、二ノ段、三ノ段があり、その奥に城の館があったといわれていますが、いまはそのあともはっきりとは残っていません。

     この城の城主は、出石・桐野の出身である福富甲斐守であるといわれています。弘安のころ(1278〜1287)出石の桐野に、土野源太家茂という人があり、その子孫である福富氏は、山名宗全が但馬の守護になったころに、太田垣氏(竹田城主)や八木氏(八木城主)らとともにその家来となり、代々桐野の城にいたのですが、応仁の乱によって天下が乱れ、大名たちが相争うようになると、山名宗全もそれぞれの要地に城を築いて守りを固めたのでした。その中で、八鹿の浅間坂には佐々木近江守を、糸井の坂には福富甲斐守をつけて守らせたのです。

     福富甲斐守は武勇の誉れ高く、淡くて元気盛りでしたので、秀吉が但馬を攻撃するにあたり、竹田城を滅ぼす前にこの高生田城を攻め落としたのだといわれています。この時、小さい城ながらなかなか落ちませんでした。そこで秀吉軍は易者に占いをたてさせたところ、「この城には東と西に二つの道があり、あたかも巨人が両足を踏ん張って建っているようだ。つまり、この城は生きている。だから、その片方の足を切れば必ず城は落と落ちるであろう。」ということでした。そこで、一方の道を切り落とさせたところ、占いの通り、さしもの堅城もとうとう落城したといわれています。今もこの地を「片刈り」と呼び、そのいい伝えを残しています。

     城主はこの戦いに討ち死にしましたが、その子孫は逃れて糸井の庄で暮らしていました。その後沢庵和尚の知人であった福富紹意という人が、出石の桐野に移り住んで代々庄屋を務めていたといわれています。

     城主はこの城の出城として、和田城や土田城(遠見が城または鳶が城ともいう)を併せ持ったといわれます。この遠見が城との間の通信を、弓矢をもってしていたと語り伝えられており、たまたま矢のぶつかりあって落ちた所を今も林垣の「落ち矢」と呼んでいましたが、近年の耕地整理でこの地名もなくなったようで、またひとつ古い伝説が消えていくような基がします。

     秀吉軍は、この高生田城を攻め落としたのち、竹田城を攻めるために、竹田城が一目で見える室尾山に本陣を置き、その攻略の策を練ったと伝えられ、そのとき村人たちにふれ札を立てて知らせたといわれますが、その所在がはっきりしていないのは残念です。(記事は昭和48:1972)

     一方、藤堂孝虎も小代谷には小代大膳、塩谷(えんや)左衛門、上月悪四郎、富安源内兵衛ら、いわゆる「小代一揆」とよばれる武士とも農民ともとられる勇士百二十騎ばかりがたてこもっていました。彼らはゲリラ戦が得意で、容易に高虎に屈しませんでした。ある日、高虎は「こんな田舎侍、今にいたい目に遭わせてくれようぞ。」と、征伐に向かいました。ところが、反対に小代勢の計略にひっかかって大敗し、命からがらたった一騎で大屋谷へ逃げ帰るという有様でした。

     大屋に向かった高虎は、加保村の栃尾加賀守、その子源左衛門を頼って隠れ、体制の立て直しをはかりました。このことを隣の瓜原村瓜原新左衛門が小代へ知らせました。知らせを聞いて一揆の連中は天滝を越え、大屋谷へ攻め込んだのです。自分らの本拠を離れてまで攻めていこうとは、なかなか剛の者たちです。高虎は栃尾親子の助けを借りて蔵垣村にまで出て防戦しました。戦いはなかなか決着がつかず、疲れてきた一揆の連中は横行(よこいき)村に引きこもり、ここに砦を築きました。そして隙をみて攻めてくるゲリラ戦に変えたのです。横行村は平家の落人の伝説で有名な山奥の村です。この間に瓜原新左衛門は一揆の連中と連絡をとり、ある晩、百人余りで栃尾の邸を囲みました。しかし、源左衛門や刈鈷(かりなた)新兵衛らの活躍により、反対に瓜原新左衛門の方が首をうたれてしまいました。

     こうしている間に高虎は次の作戦を進めました。夜陰にまぎれて密かに行動を起こし、一挙に、一揆の本拠横行砦を襲ったのです。一揆勢は不意をつかれてびっくり仰天、体制を立て直す暇もなく、散々にうちのめされ、おもな大将のほとんどは討ち取られてしまいました。しかし、高虎もこの夜は、あやうく命を失うところでした。源左衛門が駆けつけてうち払い、九死に一生を得たのでした。 藤堂家はこのときの恩義を忘れず、栃尾家に対して代々厚く報いています。天正八年(1580)、秀吉が再び但馬に攻めてきた時、完全に息の根を止められてしまいました。

    3.但馬征伐と宿南城

     天正五年(1577)秋、羽柴秀吉は竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに弟の秀長に養父・出石・気多・美含・城崎の郡を、藤堂孝虎に朝来・七美・二方の郡を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、出石城をめざして進んでいきました。先陣はもう養父郡小田村に着いていました。

     これより先、代々山名氏に仕えてきた但馬の小城主たちは気多郡水生城で会議を開き、「山名氏は衰えたといっても、二百年余りの間、但馬の太守であったではないか、たとえ羽柴勢が大軍をもって攻めてこようとも、なんで手をむなしゅうして国を渡してなるものか。おのおの今こそ一命を投げ打って恩に報いようぞ。」と約束しあい、 合戦のときを今か今かと待ち受けていました。そして、防衛戦のひとつを伊佐野の西、すなわち現在の養父市八鹿町下小田の野に布陣する作戦計画を立てていました。

     このころの宿南城主は、宿南修理太夫輝俊でした。羽柴勢が小田に着いたという知らせを聞き、ただちに出陣しようとしましたが、にわかに病気となり、やむを得ず嫡子重郎左衛門輝直と、その弟主馬助直政に出陣させました。これに加わったほかの城主は、上郷城主 赤木丹後守、朝倉城主 朝倉大炊(おおい)、国分寺城主 大坪又四郎、三方城主三方左馬之助らで、総勢五百騎余り、川向こうの伊佐河原には、浅間城主佐々木近江守、坂本城主 橋本兵庫、同権之助ら二百騎余りが陣をとりました。

     戦いの機は熟し、羽柴勢二千騎は、ときの声を上げて下小田側の陣へ打ちかかってきました。この防衛戦を突破されたら宿南城が危ない。必死の防戦が始まりました。これを助けるため伊佐河原の味方から鉄砲が火を噴き、弓矢が飛んで羽柴勢へ降り注ぎました。しかし、羽柴勢は大軍です。射たれても、射たれても、ものともせず、新手を繰り出して攻め立ててきます。防衛戦の一角がくずれました。輝直兄弟とその家臣、大嶋勘解由、池田、池口、片山など血気の勇士二十四人は馬の頭をたてなおし、太刀を振りかざして、攻め手の中へ斬り込んでいきました。朝倉・大坪・赤木・三方ら二百人余りもこれに続き、血煙上げて攻め込んでいったので、戦いはまったくの白兵戦となりました。いっとき、小田野はすさまじい阿修羅の巷となりました。しばらくたって気がついたとき、但馬勢の敗北は決定的でした。赤木丹後守、大坪又四郎はじめ大半が討ち死、川向こうの味方も、二隊に分かれた羽柴勢一隊に襲われ間もなく退却、佐々木近江守、橋本兵庫らは城に籠もり、城門を閉ざしてしまいました。

     もはやこれまで、と、輝直兄弟、朝倉大炊らは生き残った五十騎ばかりを集め「浅倉ほうき」へ引き上げました。この岩山の円山川に面したところは、切り立った絶壁になっており、そのすそを川が流れ、その間の狭い土地を削って道がこしらえてありました。羽柴勢は必ずこの道を通るだろう。輝直らはそのとき躍り出て敵を挟み撃ちにし、河へ追い落とそうと図ったのです。

     一方、宿南城で戦いの首尾を心配していた輝俊は、敗北の知らせを聞き、歯ぎしりをして悔しがりました。そして病気ではあったが鎧をつけ、わずかに残っていた城兵をして城を守ろうとしました。しかし、体は思うにまかせず、敵兵はすぐ近くにまで来て、ときの声を上げていました。とてもかなわぬと観念し、輝俊は館に火をかけ、城の麓の光明寺へ駆け込みました。そして片山五郎右衛門の父の兵右衛門を呼び、「戦場へ向かったふたりの兄は、おそらく討死したことであろう。おまえはこの幼いふたりの子どもを連れてどこへなりと身を隠し、無事に育ててくれ。」と頼みました。このとき兄の豊若は十二才、弟の国若は八才でありました。三人は山伝いに奥三谷に逃れました。

     このあと、輝俊は本堂の本尊の前に座り、仏名をとなえ、腹かき切って自害しました。彼に従って果てた男女は二十名余りでした。輝俊自害の知らせはすぐに輝直に伝えられました。「それっ!敵兵はこちらに来るぞ。」一同は色めき立って待ちかまえました。ところが案に相違して羽柴勢はこちらへ来ず、浅間城を尻目に出石へ攻め込んでいきました。

     はかりごとは成功せず、敗戦の責めを負って父が自害し、城もなくなった今となっては、輝直兄弟も生きる望みを失い、傍らの林に入り、切腹して果てました。残りの兵は水生城へこもる味方へ合流しました。

     ここに宿南城は寺社ともども絶えてしまったのです。

    但馬征伐と水生城(みずのうじょう)

     天正八年(1580)、羽柴筑前守秀吉が播州三木城を攻略し、城主別所長治が自害して果てたので、播州はことごとく秀吉に属しました。秀吉は因州征伐の途中、但馬平定を意図していました。但馬の多くの城主はこの噂を耳にし、噂は噂を生み、秀吉のすぐれた武勇を恐れ、これと一戦を交えようとする者がありませんでした。

     四月、羽柴秀吉は再び但馬征伐にやってきて、養父郡上小田村(八鹿町)に休んでいました。宿はこの地の豪農、斉藤谷左右衛門の家でした。噂によると、秀吉は気多郡水生城を攻めるつもりらしい。これを知って但馬のあちこちの城主たちは、密かに谷左右衛門へ使いを送り、秀吉暗殺のはかりごとをもちかけました。しかし、谷左右衛門は秀吉の威勢を恐れ、これに同意しませんでした

     天正五年以来、但馬勢の総指揮をとっていたのは、垣屋駿河守広重であったようです。彼は美含郡(みぐみぐん)轟の城主でしたが、羽柴勢が気多郡に攻め込むらしいと聞いて、息子の平三広則とともに轟城を出て、西村丹後守の居城水生城にたてこもっていました。そしてあちこちの城主たちの相談に乗っていたのです。谷左右衛門に対する働きかけの失敗を知って、城主たちはふたたび作戦会議を開きました。

     水生城主には西村丹後守の子、西村平八郎忠宗がいました。轟城主垣屋駿河守広重(豊続?)を中心に、林甫城(りんぽうじょう)主 長越前守、上野(上郷=かみのごう)城主 赤木丹後守、伊福(ゆう)城主 下津屋伯耆守、国分寺城主 大坪又四郎、宮井城主 篠部伊賀守らの面々が水生城に集まりました。

     「今は昔ほどの勢いもなく衰えてはいるが、山名氏は代々当国の守護領主として、二百十年余りの長い間続き、われら先祖も数代に渡って扶持(ふち)を戴いた。そのご恩に報いることなく秀吉と一戦も交えず降ることは恥ずかしいことではないか。もちろん対等の軍では勝ち味もなく、はかりごとをもって欺くことこそ上策と心得る。そのすべは秀吉が宿南から最短で気多に侵入するであろう。そうすれば養父郡宿南村と浅倉との間の岩歩危(ほうき)を通るであろう。ここは岩山で、下は円山川の深い淵になっていて、道は細く、一人ずつより通れない所、山上に数百の大石を落とし、ひるむところを前後から討って出て、あわよくば秀吉を敗退させ、もしかなわぬ時は討ち死にしてでも、数代に渡る山名氏のご恩に報いることができよう。」と、固く約束したのであります。

     ところが、ここに大変な手違いが起きたのです。篠部伊賀守は、長越前守、西村丹後守に対して、前から恨みがあったので、これはよい機会だと思い、この計略をいちばん信頼している家来の藤井伊助に一部始終を言い含め、使者として秀吉に密訴したのです。秀吉はこれを聞いてしばらく考えていましたが、扇でパンと膝を打ち、「城崎に通ずる迂回路ありや?」と問いましたので、藤井はかしこまって、「わたしは但馬に生まれ但馬に育ちました。但馬の国の地理に詳しいのは当然のことであります。去る年、明智日向守光成殿、進美山に掻上の城を築き、但馬攻略の指揮をされました。この山の麓の南に浅間村があり、ここを越え出石郡福住村に至るこの峠、浅間峠とも暮坂ともいい、山名の本城有子山城は目と鼻の先であります。」と、言葉巧みに得意満面に語ったのであります。秀吉に降った養父郡の城主に、浅間城主 佐々木近江守義高があったことも事実であるだけに藤井伊助のはかりごとは的中したのです。

     浅間城主、佐々木近江守は、おびただしい大軍を見て、驚いたことでしょう。彼は抵抗をあきらめ、礼服に身を改め、平伏して秀吉を迎えました。そして、それからは自ら案内人となり、秀吉勢を出石へ導いたのです。

     出石城をおとしいれた秀吉は、弟の秀長に但馬の平定を命じ、自分は播磨に引き返し、赤松の一族である宇野民部大輔の居城、宍粟郡長水城の攻略に向かったので、秀長は垣屋駿河守を大将として、但馬の武将たちが集まっている 水生城の攻略に軍を進めました。

     彼は軍を二手に分け、一隊は浅野弥兵衛・仙石権兵衛を大将に、狭間坂(出石郡・気多郡の境=出石町片間)を経て気多郡に向かって城の大手から、他は宮部善祥房が豊岡方面から城の搦め手(裏門)に向かって挟み撃ちにしました。

     この計画はすでに篠部伊賀守の家来を通じて知られていたので、どうすることもできず、籠城の将兵は、いさぎよく死を決し敵軍に討って出ました。合戦は数時間のも及びましたが、とうとう水生城も落城してしまいました。

     水生城の山の麓、東南の西芝村に寺領(水生山長楽寺)があり、殿屋敷といい、ここに石碑があります。「任務院殿雄方智門大居士」「文化十四年三月造立之」とあります。戦いのあった天正八年(1580)と、文化十四年(1817)とでは、237年の後に建てたことになります。これは西村丹後守の石碑だろうといわれていますが、その子西村平八郎忠宗かも知れません。いつ参っても、心ある人の真心の花が供えてあるそうです。

     垣屋にとってはまさに秀吉軍に対功する最後の拠点でしたが、秀吉軍の強襲を持ち支えることが出来ませんでした。この時も野田合戦の場合と同じく、垣屋は一族あげて轟城主の豊続の軍事行動に参加しています。とはいえ、宗家たる楽々前城の光成と、轟城の豊続の立場は食い違ったままでした。あくまで毛利党として終始する豊続の立場には、節に殉ずる武人の純粋さが見られますが、反面、何をおいても織田党と戦い抜かねば止まぬという頑固な姿が浮かび上がります。轟城系の垣屋はここに全滅してしまいます。これに対して宗家たる光成は、現実的に対応し、関ヶ原の戦いまで命脈を保つことのなります。

     建立されてから約七百年、法灯を燃やし続けてきた但馬国分寺も、この時兵火に災したと伝え、宵田城も同時攻撃を受け、城主垣屋隠岐守峯信は、城を脱して、間道を通って楽々前城に入って、再び応戦しましたが討死したといいます。鶴ヶ峰城の光成もほどなく秀吉の軍門に降ったといわれています。

     しかし、光成は、秀吉軍の先鋒となって、因幡討伐戦を積極的に支援しています。その後の垣屋氏については垣屋氏後半の項で触れたいと思います。

    岩山城

     山陰本線浅倉トンネル、国道312号線浅倉トンネルの上部が城跡で、東端の屏風のように切り立った岩山が「浅倉の岩歩危」「浅倉ぼうき」といい、旧国道です。狭い平地が三段になっています。

     水生城に籠城せんとした但馬勢は、奇計をもって秀吉軍をこの狭道に引き入れ、山上から大石を落として、秀吉軍を円山川に突き落とし、漂うところを伏兵を出して討ち取ろうと図ったが、水生籠城軍の軍将西村丹後守に宿意を抱く、宮井城主、篠部伊賀守は、郷士藤井伊助を使者として、この謀略を秀吉に通報したため、秀吉は攻撃路を変更して、浅間坂を越えて出石城攻めにかかったため未遂に終わったといいます。

    5.楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城


    宵田城跡(南龍城)
    山城 城主:垣屋越中守熙知(ひろとも)

     宵田村には市が開かれ、気多郡の集積地として栄えました。「宵田表の戦い」で羽柴軍により降参し、豊臣方へつきます。

     「郷土の城ものがたり−但馬編」では、このような話が書かれてあります。

     宵田城主垣屋隠岐守峯信は、天正八年(1580)、羽柴秀吉が但馬征伐に向かってきてからは恐れおののき、心安らぐ日はありませんでした。

     ある日、魚売りが江原村を行商していました。そのころは商人が津居山港から歩いたのではなく、円山川を上下して船で行き来しました。商人は売り声を張り上げて歩いていました。その日は、カキ・どこう・このしろの三種類であったので「かきや・このしろ・どこう」とふれました。

     秀吉が今日攻めてくるか、明日攻めてくるかと、びくびくしている時ですから、この売り声が「垣屋この城どこう(退陣せい)」と聞こえてしまいました。そこで、これは秀吉の征伐の前触れと、てっきり思いこんでしまい、一族を引き連れて楽々前城へ逃げました。


    国道312号城山トンネル 南方より臨む
     その年の五月、征伐に来た秀吉軍のうち、斉藤石見守近幸、小田垣土佐守らが大軍を率いて宵田城を攻めた時には、城中は音なしの構えどころか、一人残らず楽々前城へ退き、もぬけの殻であったといわれています。そこで秀吉の命により、宮部善祥房の家来の伊藤与左右衛門父子を城代として守らせました。

     楽々前城では、父子家臣ともども籠城しましたが、ついに二百二十年続いた垣屋氏は城とともに滅んでしまいました。

     P>  しかし、天正八年(1580)、第二次但馬征伐で秀吉の弟秀長と宮部善祥房が但馬に軍を進めたとき、はじめて秀吉軍と敵対しましたが、宵田表の戦いなどのあと秀吉軍に従いました。そして、「但州・因州境目」の重要拠点岩経城主に起用され、因幡鳥取城攻撃には主力部隊として活躍しています。

    12.垣屋氏と関ヶ原の戦い

     垣屋光成の子が恒総で、父と同じく秀吉に仕えました。恒総は天正十五年(1587)の九州征伐、同十八年の小田原征伐、さらに文禄の役(朝鮮出兵)にも出陣し、一万石を与えられ、因幡桐山城の城主となりました。関ヶ原の合戦で垣屋隠岐守恒総は、因幡国若桜の木下備中守と一緒に大阪に着陣し、西軍に属します。諸将と共に伏見城、大津城を攻め、やがて関ヶ原へ向かわんとしていましたが、既に戦が始まり、どうやら西軍の旗色が好くないとの情報が伝わります。垣屋としては為すすべもなく、高野山に逃れて日頃師檀の関係を結んでいた僧侶の許に身を寄せました。

     やがて天下の赦免があろうかと心待ちにしていたのですが、徳川軍の検使が来て自害すべしとの命を伝えたので自刃しました。こうして垣屋は、関東から但馬にやってきて、二百年の年月を積み重ね、但馬を追われて因幡に新住の地を得たものの、それは二十年しか保てませんでした。留守の桐山城では城主を失い、鳥取城同様にこの城も攻められるのかと勘違いして、家中の者が隠岐守恒総の内室や子供を引き連れて、但馬の故地気多郡西気谷を目指したといいます。

     また幸いにも垣屋駿河守家系統である垣屋豊実が東軍についていたため、江戸時代に至って竹野轟(とどろき)城主垣屋家(駿河守)の家系は、徳川重臣 脇坂氏の家老になります。駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としています。このように垣屋は生き残っているのであり、滅亡したと記述している諸所の文献は間違いであるといわざるを得ないのです。現実に子孫の方は多く但馬におられます。

     関ヶ原の戦いの頃、日本の人口は、500万人の状態が続いていました。農耕の開始に次ぐ人口革命の時期であり、戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられ、約3倍に膨れあがり1200万人を超えます。

    但馬征伐と有子城(ありこじょう)


    国指定 有子城趾
     永禄12年(1569年)、山名祐豊(すけとよ)の時に織田軍の羽柴秀吉に攻められ此隅山城は落城しました。天正2年(1574年)、祐豊は残った勢力を集めて最後の砦となる有子山山頂(標高321m)に有子城を築き守りを固めました。此隅山城の南2qのところにある険しい300mあまりの山頂です。此隅山城に比べて五倍近くも高く、はるか遠くまでまわりの展望もきく要害の城でした。有子を「ありこ」と読まず、「こあり」としたのは、その前の居城である此隅城が子盗み(こぬすみ)城として縁起が悪いからだといわれます。

     しかし、この時代の城は、中世の山城から次第に平地に移り、安土城・桃山城・姫路城のように平城か平山城に移りつつあった時代です。それは中世の騎馬中心の戦いから、鉄砲などを使う戦いに変わりつつあったためでしょう。しかし、この有子城を築くわずか前に壊滅的な打撃を受けた山名氏にとっては、険しい自然を利用したこの急造の城が、最善を尽くした無理からぬあり方だったと思われます。

     この有子城は頂上に、本丸、西の丸、蔵屋敷のほか侍屋敷をつくり、山頂に近づくに連れて急な勾配となる南北の斜面を利用し、ややゆるやかな東西の稜線には途中にいくつかの堀切とよぶ空堀を造って防いでいます。南北の急な斜面も、堀切も、山裾から登って攻める敵にはいちばん守りやすいことになります。また山頂や山の中腹に侍屋敷を置き、井戸なども造って戦争のための籠城にも備えました。

     以後、前野長康、小出吉政らが城主となりますが、慶長9年(1604年)、小出吉英が麓に出石城(有子城)を築くと廃城となりました。山頂はまだ登ったことがないので、播磨屋さんの情報によりますと、城址へは、出石城跡の稲荷曲輪への参堂を登り切ったところにある城址の碑が、登城へのはじまりとなる。そこから城址の曲輪まで、油断をすると転げ落ちるような急坂をひたすら直登する。小曲輪・堀切を越え、山上の城址にたどり着くと、但馬守護山名氏の居城にふさわしい縄張りが堪能できる。見事な石垣群、六段の曲輪、千畳敷、大規模な堀切が残り、主郭からは出石の町が一望できる。登りの疲れが一気に吹き飛ぶ素晴らしい城跡、それが有子山城だ。 そうです。

     築城間もない翌年の天正三年(1575)十月のことです。となりの丹波国の黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めました。隠居した山名祐豊と城主となった氏政には、これさえ押さえる力がなく、助けを信長に求めました。信長はこのころ、中国の毛利氏を当面の敵としていたので、山名氏の求めに応えて部下の明智光秀を派遣して荻野直正を但馬に討たせました。山名氏はやっとこの難から逃れることができました。

     また、同じ天正三年(1575)ごろには、山名の重臣、垣屋が豊岡鶴城の田結庄を攻め手自害させた事件も起きています。このように山名氏には往年の面影はなく疲れ切った有様でした。このような折りに、いよいよ山名氏が滅亡する秀吉の但馬出兵が二回にわたって行われます。前に明智光秀が但馬を征伐したのは、山名氏を助けるためのものでしたが、同じ信長の命によるものでも、秀吉による但馬征伐は山名を討って但馬を手中に治めるのが目的でした。

     天正五年(1577)に、第一回但馬征伐が行われました。秀吉は自ら大軍を率いて但馬に入り、山口、竹田などの城をたやすく攻略しましたが、当面の敵である毛利氏に備えるため兵を播磨に移し、有子城は攻略を免れました。


    【有子山城図】「郷土の城ものがたり−但馬編」兵庫県学校厚生会
     その後間もない天正8年(1580年)、山名堯熙の時、再び羽柴秀吉(秀吉の弟秀長(ひでなが))の攻撃(第二次但馬征伐)を受けました。まず、竹田城を再び攻め落とし、養父郡から浅間峠を越して出石に入り、弘原谷にあった福成寺に本陣を取り、5月16日には有子山城を攻めました。攻め手は秀吉の武将として名高い藤堂孝虎だったと伝えられます。城下に攻め込んださすがの秀吉軍も、険しい山頂に籠もり必死に対抗する山名勢を攻めあぐみ、城下に残った老人や子どもたちを人質にしたり、虐殺して籠城する山名軍を怒らせ、城からおびき出す作戦に出ました。

     このありさまを見かねた山名勢の多くは、西側の山を駆け下り、敵軍に斬り込んで全滅したといわれます隠居していた祐豊は落ちた城に残って五日後に七十才で病気でなくなり、麓の智明院に葬られたと伝えられ、城主の堯熙(氏政)は因幡国に落ち延びて流転ののち、最後には豊臣秀頼につき元和元年(1615)五月七日大坂夏の陣で戦死しました。

     このようにして名門の但馬山名氏は滅んでいきました。現在出石町内内町に移った福成寺には、この時書かれた秀吉名の制札や、抹茶を出した天目台が伝わっています。

     有子山城は、山名に代わって秀吉の家来を配しましたが、それを木下昌利とする説や、青木勘兵衛ともいい、また第二回の但馬征伐の大将だった弟の秀長が、天正八年(1580)但馬守となって出石城にいたとする説などもあります。いずれにしても落城した天正八年から天正十三年(1585)までのわずかな間で、天正13年からは羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である前野但馬守長康が城主となりました。

     前野長康は俗に言う秀吉の墨俣城一夜城築城に協力したといわれています。

     信長没後、秀吉が天下人の過程に上る天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の四国征伐に参加して武功を挙げたため、同年閏8月に秀吉から播磨三木から但馬出石に5万3000石で加増移封されました。豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇行幸の際には、その饗応役を務めました。天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の文禄の役にも参加して武功を挙げ、11万石に加増されています。

     豊臣秀次付の家老となった後、前野長康の子前野景定(長重)も父と共に豊臣秀次付の家老となって秀次を支えました。しかし、文禄4年(1595年)に秀次事件で秀次を弁護したことにより、豊臣秀吉から秀次与党として謀反連座の疑いで父と共に捕らえられ、秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、連座として罪に問われて中村一氏に身柄を預けられ、自害を命じられました。官位は従五位下、但馬守。享年68。

     なお景定の妻・御長(おちょう)にも捕縛命令が出されました。彼女は細川忠興と細川ガラシャの長女であったため、慌てた細川家では、重臣の松井康之などが奔走し、景定から離縁出家させて、ようやく捕縛を免れたといいます。

     出石城下に今も山名重臣の田結庄(たいのしょう)八木宵田(垣屋氏の宵田城に因む?)の屋敷跡に因む町名が残っています。

    民話「小盗山(こぬすみやま)と有子山(こありやま)」

     今から四百年ほど前、出石(いずし→兵庫県北部)は山名氏(やまなし)の城下町でした。

     室町時代には出石の中心である比隅山(このすみやま)に城を築き、その子どもの時ひろの時代には、全国六十余州のうち、十一ヶ国を山名一族(やまないちぞく)が占めていたそうです。

     これだけ全盛を極めた山名氏も、だんだんと勢力を失っていき、室町の末の祐豊(すけとよ)の代の頃には、やっと但馬一国が守れる程度になっていました。

     ところでこの祐豊には二人の男の子がいましたが、二人とも若くして死んでしまったのです。  そこで祐豊の隠居後は、氏政(うじまさ)が城をついだのですが、不幸なことに、いつまでたっても世継の子どもが出来ません。

     そこであるとき、氏政は易者を呼んで占わせました。

     すると易者は、

    「比隅城は場所が悪い、半里ほど南の山に城を移せばよいでしょう」

    と、いうのです。

     天正二年、さっそく言われた通りに新しい城を築くと、まもなく子どもが生まれました。  それからいうものは、不運の続いた比隅山を『小盗山』と呼び、新しく城を築いて子どもの生れた山を『有子山』と呼ぶようになったのです。

    おしまい

    8.秀吉の因幡攻略

     山名祐豊の代になると垣屋氏をはじめ太田垣・八木氏らが自立し、領内の統制は十分に行われませんでした。さらに、西方から尼子氏、ついで毛利氏の勢力が但馬に勢力を及ぼしました。因幡では混乱のなかで勢力を拡大した鳥取城主武田高信が毛利氏と結び、山名氏に対抗する存在となりました。

     因幡山名氏のもとにあって客将として優遇されていた武田高信[*2]の父・武田豊前守国信は、因幡守護・山名誠通の時に自ら申し出て鳥取城番となりました。一国一城の主への野心を秘める国信は鳥取城の大改築を行います。父のあとを継いだ高信は鵯尾城(鳥取市玉津)にありましたが、引き続き因幡山名氏への叛意を露わにし、鳥取城の奪取に成功します。高信は安芸国の毛利氏と結び、永禄6年(1563年)に鹿野城にいた山名豊成(旧守護・山名誠通の子)を毒殺し、次いで湯所口の戦いで山名氏の重臣・中村伊豆守豊重を敗死させます。さらに守護館・布勢天神山城を攻撃して因幡守護・山名豊数を鹿野城に逐い、同じ山名一族の山名豊弘を擁立して因幡国での優位を決定的にしました。湯所合戦とも言われ、武田高信の勢力が因幡一円に広がるきっかけとなりました。

     因幡守護の山名誠通が山名祐豊によって討たれた後の因幡は但馬山名氏の治める所となっていました。山名豊定の死後、祐豊の子・山名棟豊が守護職を継承しますが、就任して約1年半後の永禄4年(1561年)に死去してしまいました。棟豊の死後、今度は豊定の子息・山名豊数が因幡守護に送られました。その頃、鳥取城主の武田高信は布施屋形(豊数)からの離脱と独立を画策していました。高信は永禄5年(1562年)の末〜翌年初めにかけて布施屋形から離脱、永禄6年(1563年)3月には豊数と屋形取相(とりあいに及んでいます。

     因幡国を実質的に支配した高信は、毛利氏に従って但馬国・美作国に転戦しますが、有力国人層の掌握に苦しみ、さらに因幡への進出を図る美作の草刈氏や尼子勝久・山中幸盛ら尼子党の出没に悩まされるようになります。

     元亀2年(1571年)高信は、山名氏に属していた但馬国芦屋城の塩冶高清を攻めて大敗、嫡男・又太郎と次男・与十郎を失いました(芦屋城の戦い)。翌元亀3年(1572年)高信は、因幡の国人衆の多くと誼を通じて甑山城に進出した山中幸盛率いる尼子党と戦い、決定的な敗北を喫して、ついに居城・鳥取城を山名豊国に明け渡すこととなりました(「鳥取のたのも崩れ(田の実崩れ)」)。

     永禄六年(1563)、兵を挙げた武田高信[*2]は山名氏の拠る天神山城(鳥取市湖山町)を攻略しました。元亀3年(1572)に武田氏を滅ぼしましたが、守護山名氏の勢力は衰えていきました。天正元年(1573)、山名豊国は居城を鳥取城へ移し、天神山城は廃城となりました。祐豊(すけとよ)は毛利氏と対立する尼子氏を支援しましたが、永禄九年、出雲月山富田城を落とされた尼子氏は没落してしまいました。毛利氏の勢力は、美作国を本拠とする草刈氏にもおよび、草刈氏は因幡への領地拡大に動き出しました。祐豊(すけとよ)は尼子氏再興を目指す山中鹿之助ら尼子党を支援、毛利氏を後ろ盾とする武田氏ら国人衆と対立を続けました。

       一方、但馬国では永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長の羽柴秀吉軍が羽柴秀長を指揮官に派遣。与力に藤堂高虎や宮部善祥房らを配属し、二回但馬攻めを行いました。

     此隅山城は落ちて山名祐豊(すけとよ)は討死したとの噂が流れました。実際はこの侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡していました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰しています。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦いました。

     ほどなく信長に通じた祐豊は但馬に復帰、新たに有子山城を築いて本城としました。ところが、家臣団は毛利方と織田方に分裂、毛利氏の攻勢が激しくなると山名豊数の弟豊国(とよくに)の仲介で毛利氏と和睦をするなど、但馬山名氏は迷走しました。かくして、祐豊は分裂状態にあった因幡守護の誠通を討って弟の山名豊定を因幡守護とし、再び山名氏の統一を果たし、一時は山名氏を戦国大名として再興させました。

     武田高信は天正3年(1575年)3月7日以前に豊国によって鵯尾城を追われます。但馬に逃れた高信は、今度はかつて攻撃した芦屋城の塩冶高清を頼り、塩冶を通じて毛利氏に助命を願いました。因幡国内で山名豊国の勢力が伸張する中で、但馬の山名祐豊も高信の排除を吉川元春に求めます。同年8月28日には息子・武田徳充丸への家督相続が毛利氏から認められ、高信の復権への道は事実上閉ざされてしまいました。9月25日頃、高信は小早川隆景のもとに家臣2名を送り再度の助命嘆願を行うが、隆景は高信の身の安全について言葉を濁している。高信は毛利氏から見捨てられてしまったのです。

     翌天正4年(1576年)5月4日に高信は不慮の死を遂げます。天嶮・鳥取城に拠って戦国大名化し、一時は因幡国一円を支配した武田高信だったのですが、国内の有力国人を掌握しきれず、結局山名氏に勝てなかったのでした。


    [*2]…因幡武田氏は若狭国の守護大名を務めた若狭武田氏の庶流とされ、因幡山名氏のもとにあって客将として優遇されていた。

    9.乱世の終焉

     天正三年(1575年)に、山名祐豊は突如として毛利元就と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまいました。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じました。翌年(1580)一月、別所長治の播磨三木城を落とした秀吉は、三月に再び但馬征伐の兵を進めました。但馬の平定は弟の秀長に任せ、自らは因幡に侵攻しました。そして秀長の勢力が伸張してくると、祐豊は天正八年(1580年)5月21日、秀長の軍勢が居城である出石城を包囲する中で城に残った祐豊は落城の五日後に病没して山名氏の本家は断絶しました。享年70。子の氏政は因幡に出奔しました。

     天正九年(1581年)六月、但馬山名氏が没落したのち、羽柴秀吉が播磨から但馬を平定し、因幡に進軍、諸城がたちまち秀吉軍の前に陥落しました。以後、毛利氏と織田氏の全面戦争となり、因幡の山名豊国は鳥取城に拠って羽柴軍を迎え撃ちました。しかし、やがて降伏に傾いた豊国は中村春続・森下道誉らの抗戦派の家臣に追放され、秀吉に降り、信長からの助命を受けました。豊国が去ったのちの鳥取城は、毛利氏から入った吉川経家を大将として羽柴軍に抗戦しました。そして、天正九年、世に名高い「鳥取城の干殺し」(兵糧攻め)で知られる攻防戦の結果、鳥取城は陥落しました。ここに、山名氏が拠った城はことごとく潰え、山名氏の戦国時代は終わったといえます。    生き長らえた豊国は、禅高と号して秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)[*3]の一人になりました。秀吉の没後は徳川家康に属し、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に家康方として出陣、翌年に但馬国村岡に六千七百石の知行を与えられました。豊国が家康に遇されたのは、山名氏の先祖が、徳川氏が唱える先祖に近い存在であることを家康が利用したためだともいわれています。いずれにしろ、豊国の子孫は、江戸時代を通じて高家の一として続き、明治維新を迎えます。

    [村岡藩]


    [*3]御伽衆(おとぎしゅう)…戦国時代は参謀としての面が強かったため、僧侶や隠居して第一線から退いた重臣、没落した大名、武将が僧形となり務めることが多かりました。戦乱の世が治まってからは、主君の無聊を慰める役割も重視され、豊臣秀吉の頃には、勃興した新勢力である町人らも召し出され新たな文化の担い手となりました。

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    出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
    「郷土の城ものがたり−但馬編」兵庫県学校厚生会
    武家家伝
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