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大航海時代と世界経済

概 要

目次

  1. 大航海時代の開幕
  2. 帝国を求めて
  3. ポルトガルとスペイン
  4. オランダの役割
 近世ヨーロッパは、その内部に新しい政治・社会の秩序を造り出すとともに、外の世界に向かっても大きく飛躍していきました。とくに16世紀は「地理上の発見」とか「大航海」の時代と呼ばれ、ヨーロッパ人がアジアと新大陸に進出した時期にあたっています。

 問題は、これを契機にヨーロッパが徐々に他の文明世界を圧迫し、政治的にも経済的にも支配するようになったことで、そうした状況を個々の事情の認識ではなく、グローバルな視点から総合的に捉えることが重要な課題となっています。とかく日本史では国内の政治・社会を中心に、そうしたヨーロッパの動きを軽視して捉えがちです。江戸時代の閉鎖的な鎖国時代を除けば、古代より東アジアと絶えず人々や文明が交流しながら発達してきたのであり、16世紀以降、その規模は地球規模に広がることになります。

1.大航海時代の開幕

 ポルトガルは、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出しました。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功しました。

 オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれました。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していました。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行みました。20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われましたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っています。

 ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げました。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧しました。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げました。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国(モンゴル帝国)を侵略、植民地化しました。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めましたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化しました。

 東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突しました(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅びましだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となりました。1941年にはバルト三国を、武力併合しました。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然でした。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われています。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになりました。

 ドイツ帝国の前身であるプロイセン公国は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わりました。ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていましたが第一次世界大戦敗北により喪失しました(ドイツ植民地帝国)。

 イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持しましたが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失しました。。

2.帝国を求めて

 近世ヨーロッパの政治史の流れは、大きく三つに区分できます。第一期は、フランスとドイツがヨーロッパの派遣を競った時期で、イタリア戦争(1521年から1544年または1494〜1559年)の時期に相当します。イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争です。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執がありましたが、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位し、またスペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になりました。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもありますが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになります。

 第二期は、新大陸の富を背景にスペインが派遣を握った時期。第三期は、スペインの衰退のあと、フランスとイギリスが大陸の派遣と海外植民地をセットで争い、初期的な世界戦争に突入した時期です。

 第一期のイタリア戦争は、イタリアの領有権を主張するフランス国王シャルル八世がイタリアに出兵したことから始まりますが、16世紀前半では、ハプスブルク家の膨大な家産を相続したドイツ皇帝カール五世(在位1519〜6年)と、中世のシャルルマーニュ大帝がつくりあげたカロリング帝国の再現を目論むフランス国王フランソワ一世(在位1515〜47年)が、何度も戦争を交えました。しかし、戦争は決着がつかず、ドイツの内乱に疲れたカール五世は、ドイツヲを弟のフェルディナント一世に、スペインとネーデルランドを息子のフェリペ二世に譲って、スペインの修道院に隠棲しました。ハプスブルク家の東西分裂です。フランス側でも、フランソワ一世を継承したアンリ二世は、1557年にサン=カンタンの戦いで大敗を喫し、帝国の野望を達成できませんでしました。1559年、イタリア戦争はカトー=カンブレジの和約で終結しました。

3.ポルトガルとスペイン

 覇権争いの常連だったフランスとドイツが後退したあと、地位を受け継いだのはスペインです。コロンブスの新大陸への到達以後、次々と植民地化し、大西洋貿易を独占的に支配したスペインは、フェリペ二世の時に黄金期を迎えました。

 新しい通商路の成立はヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。第一に、ヨーロッパ人の海外進出です。ただし、アジアではインドのムガール帝国、中国の明・清帝国、日本の織豊政権などがあって、ポルトガル人の活動は限定され、中継貿易に留まりました。アジアとヨーロッパを往復するには約二年かかり、商館と寄港地を維持するコストの高さが最大のネックとなったのです。この点では、17世紀にアジア貿易の主役を担ったオランダも同様で、東インド会社は、アジア間の中継貿易に力点を置き、しばしば本国と対立しました。

 第二に、ヨーロッパの諸地域の役割変化です。アジアや新大陸の物産が北辺にあるオランダに直接運び込まれるようになると、ヨーロッパの重心がオランダに傾き、地中海のイタリアと内陸部の意味が大幅に後退せざるを得なくなりました。「地理上の発見」は、ヨーロッパの人や物の流れを変えただけでなく、伝統的な地理観それ自体に大きな変化をもたらしたのです。ヨーロッパが世界に進出するきっかけをつくったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインという「国土回復運動」を終えたばかりの新興国でしました。

 15世紀中葉以降、ポルトガルはインドへの通商路を求めてアフリカ大陸を南下していましたが、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる船隊は、アフリカ南端の喜望峰を通過し、インドの西海岸カルカッタに到着し、大量の香辛料を買い付けてリスボンに戻りました。このあと、インドのゴア、マラッカ、マカオ、平戸(長崎)に商館を作り、アジアの商業ネットワークを築き上げました。1500年インドに向かったカブラルの船隊は、途中で嵐にあってブラジルに漂着し、この地の領有を宣言しました。ポルトガルから近いブラジルでは、蘇芳(紅色染料)、タバコ、砂糖の生産が始まりました。

 一方、スペイン国王の後援を受けて西方からインドをめざしたコロンブスは、1492年、アメリカに第一歩を記しました。翌年、再びこの地にやってきたコロンブスは、早くも千人ほどの移民を伴っていました。これが植民地化の始まりです。次いで、マゼランはポルトガルが支配するマラッカ海峡に西回りで到達しようと1519年に船出し、初めて世界周航を果たしました。このあと、新大陸では貴金属を求めた「征服者」が暗躍し、1520年代にはコルテスがメキシコのアステカ王国を、1530年代にはピサロがペルーのインカ帝国を滅ぼしました。ほどなくペルーのポトシで産出された銀がセヴィリア経由でイタリアのジェノヴァやネーデルランドのアントウェルベンにもたらされ、ヨーロッパ通過の基礎となっています。1580年にはポルトガルの王家断絶を利用してポルトガル国王を兼ね、まさに「太陽の沈まない王国」を実現しました。新大陸では国王直轄のもとに、採掘から輸送に至るルートが整備されました。ヨーロッパ各地にもたらされた銀は、通貨量を増大させ、価格革命をもたらしたといわれますが、16世紀ヨーロッパの経済発展を根底で支えました。

 しかし、フェリペ二世の没後、スペインは衰退に向かい、スペインが持っていた権益をイギリスとオランダが分け合うようになりました。イギリスは、フランスとドイツが争いに熱中しています隙に乗じてスコットランドやアイルランドに遠征し、スペインの無敵艦隊を撃破し、新大陸にも進出しました。ヨーロッパ大陸の問題に深入りしないで、島国としての立地を生かし、海洋国家に転身したところからイギリスの未来が開けたのです。オランダは、もともと北海・バルト海と大西洋をつなぐ商取引の結節点に位置し、自由主義的な貿易立国をめざしました。オランダは王権が弱体であり、貴族や商人の勢力を背景に、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が主力となって「連邦共和国」を成立させます。

4.アジアの通商

 一方、アジアにおいては、16世紀は活発な通商がおこなわれ、東アジアからインド洋にかけてさかんに人びとが交流していました。特に琉球王国は、日本、朝鮮、中国、東南アジアを結ぶ中継貿易で繁栄の時代をむかえ、日本の堺や博多は自治都市として栄えました。そうしたなか、ヨーロッパからはるばるインド洋に達したポルトガル人は、東南アジアや東アジアの通商に参入し、戦国時代の日本や琉球にも渡来しました。

 ポルトガル人はインドのゴア、マレー半島のマラッカ、中国のマカオ、広州、日本の平戸などの港に商館をおいて通商し、またイエズス会などカトリックの修道会が中国や日本で布教をはじめました。少し遅れてスペイン人やオランダ人も通商に加わった。しかし、この時期のヨーロッパ人は、アジアにおける政治秩序や文化を侵すことはできなかいました。すでにアジア人相互の通商がさかんで、それぞれの国では統治制度もきわめて高度に整備されていたからでした。

 豊かなアジアの国々は、鉄砲に強い関心をもった日本をのぞくと、ヨーロッパ産品を特に必要としませんでした。なお、鉄砲は、1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたとされています。しかし、軍事史家の宇田川武久は、それが倭寇が用いたアジア製の模造品である可能性が高いことを指摘しています。

 明やオスマン帝国などのアジアの大国の軍隊では大砲を中心に火器もかなり普及していましたが、火薬の原料として必要な硝石は日本と異なり家畜の飼育が盛んだったため、十分自給できていました。逆に、ヨーロッパの人びとは香辛料、陶磁器、絹織物、茶などアジアの物産を大いに求めました。結果的に、これら産品を購入するための対価としては、メキシコやペルー、ボリビアなどで産出された銀が充当されました。アメリカ大陸や日本の石見銀山・生野銀山からの銀が大量にアジアに流れることによって、16世紀後半のアジア経済はさらに活況を呈することとなりました。

 そして、明王朝では1565年に銀を用いた納税方法である一条鞭法が採用され、1570年代以降には全国に波及して税制が簡素化されていきました。

5.オランダの役割

 ヨーロッパ世界経済が勃興したのは、16世紀のヴェネティア(イタリア)でした。しかし、その時点で、地中海世界はすでに反映のピークは過ぎていたとみられています。16世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパ各地が凶作、伝染病の流行、人口減少などの深刻な危機に見舞われるなか、唯一明るい兆しが見られたのは大西洋や北海に面した海港都市、そしてネーデルランドでしました。ネーデルランド北部(オランダ)の独立派は、宗主国スペイン側にあった海港都市アントウェルベンの機能を16世紀末に破壊し、アムステルダムに新たな経済活動の拠点を築きました。

 人口150万人と小さな国家に過ぎないオランダが、17世紀後半まで主導権を堅持できたのです。それは、オランダは工芸技術に優れ、毛織物業、製糖業、製紙業、醸造業などが興隆しました。ニシン・タラの遠洋漁業や、集約型の農業もよく知られています。金融の面では、1609年にアムステルダム銀行が設立され、為替手形による国際的な決済、資本の外国投資が可能となりました。最も注目すべきことは、オランダが培った海洋的な側面です。

 そのひとつは、オランダがバルト海方面の貿易と密接に結びついていたことです。輸入された商品は、エルベ川以東のプロイセン、ポーランド、ロシアなど東ヨーロッパで生産された穀物(小麦とライ麦)、スカンジナヴィア参の銅、鉄、硝石、船材、タール、ピッチなどでしました。前者は工業国に転じたオランダの食生活を賄う必需品でしました。東ヨーロッパでは領主制が強化され、「再販農奴制」と呼ばれる農民の隷属化が広がりました。後者は船舶や武器の製造用で、海洋に乗り出すには不可欠な物資です。

 もうひとつは、オランダの植民地経営の手法です。第一に、オランダは会社制度を導入し、喜望峰を境に東インド会社(1602年設立)と西インド会社(1621年設立)に分け、外交権、自衛権、貨幣鋳造権などを含む当事者能力を与えました。第二に、オランダはポルトガルのアジア戦略の方法を取り入れました。ポルトガルが始めたアフリカの奴隷貿易に参加し、スペインとエージェント契約を交わしたことや、ブラジルに侵入し、タバコ、砂糖、コーヒーなどの大規模農園の技術をカリブ海方面に伝えたことは、のちに「三角貿易」の原点となりました。また、インドネシアで香辛料貿易が低迷すると、コーヒー栽培への転換を試みるなど、オランダは植民地の有効利用に熱心で、本格的な植民地の領有化を促進しました。

 最もオランダが世界の物産の集散地として成功した最大の秘密は、造船業と海運業の発展であり、何よりも優秀な船員の養成にありました。新鋭のフライト船は、容積が大きく、操船が簡単で、少人数で大量の積荷を輸送する能力を持ち、中継貿易には最適でしました。人口の少ないオランダは、その弱点を船舶の保有数と操船の技術力でカバーし 、ヴェネティアを上回る規模の世界システムを機動させたのです。

 相前後して1600年にはイングランドがイギリス東インド会社を設立しました。これはエリザベス女王より貿易独占権を付与された会社でしたが、ここでは、17世紀半ばまでは一航海ごとに出資者に利益を分配するしくみをとっっていました。

 江戸幕府は、当初は朱印船貿易によって東南アジアに進出して各地に「日本町」を建設しましたが、1630年代には鎖国政策に転じ、オランダ船と中国船による貿易だけに制限して国内発展をめざしました。

 中国大陸では、1616年にヌルハチによって統一された女真族が満州の地に後金王朝(後の清朝)を建国、つづくホンタイジが内モンゴルを併合して、順治帝の1644年には李自成を追って呉三桂を先導に北京に入城し、明にかわって中国支配を開始しました。続く康煕帝は中国史上最高の名君とされています。彼は文化の振興を図り、三藩の乱を鎮め、鄭氏政権を滅ぼし台湾を支配し、漢民族を支配下におきました。また康熙帝は1697年にジュンガルのガルダン・ハーンを滅ぼし、モンゴル高原を支配下に治め、さらにロシアとの間に中国史上初めての対等条約であるネルチンスク条約(1689年)を結ぶなどの対外活動も充実させて、安定した治世を実現しました。ロシアとの交渉はイエズス会宣教師が行い、交渉用語にはラテン語が用いられました。清朝は、公式条文中の「両国は―」ではじまる文言をことごとく「中国は―」とする一方的な命令口調に改竄し、対内的には朝貢関係としてこれを理解させました。

 朝鮮王国は、1636年に清に攻撃されてその服属国となり、その後厳しい鎖国政策を採用しました。琉球王国も1609年に薩摩藩に服属しましたが、中国との朝貢貿易は続きました。

 ロシアでは、内乱や農民反乱、ポーランド王国の侵入などの動乱を経て、ミハイル・ロマノフが1613年にロマノフ王朝を建て、正教を奉じる北方の専制国家として領主制支配を強めて、シベリアに領土を広げていきました。当初は西欧と深いかかわりを持たなかったロシアでしたが、17世紀末ころにピョートル1世があらわれると、西欧化政策を推進する一方、康煕帝治下の清朝との間に上述のネルチンスク条約を結んで国境を画定しました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温

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