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奈良時代

概 要

目次
  1. 平城京
  2. 大宝律令
  3. 律令制における行政区画

 奈良時代(710年-794年)は広義には710年(和銅3年)に元明天皇が平城京に都を移してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が移されるまでの84年間を、狭義には710年から784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。

 ヤマト王権の地方官制は、701年(大宝元)に制定された大宝律令で初めて国・郡・里の三段階の行政組織に編成されましました。諸国を統治していた古代から中世の日本で、国司(こくし)は、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏だ。国司は、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を任命します。この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握し、租・庸・調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。古事記、日本書紀、万葉集など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。

 奈良市の東大寺正倉院御物には、聖武天皇に献上された「丹後ちりめん」が、正倉院御物として残っています。「柳筥(柳箱=やないばこ)」は豊岡から献上されたものであるといわれています。

1.平城京

 708年(和銅元)、元明天皇により遷都の詔(都というものは「百官の府であり、四海の人々が集まるところ」である。平城の地は、三方が山に囲まれ南が開け、占いにもかなっている。)が出され、710年(和銅3)に藤原京から平城京へ遷都されます。

 しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、段階的に造営されていったと思われます。

 平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京(げきょう)が設けられていました。東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画です。各大通りの間隔は約532m、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は北辺坊を除いて東西約6.3km、南北約4.7kmに及びます。(平安京は東西4.5km、南北5.2km)

 以前は唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説でしが、先行する藤原京との密接な関係から現在は関連が疑われており、北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展系ではないかという見方も有力となっています。つまり、長安のような中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃い城壁でなく、きわめて政治的な都市でした。

以前は学校教科書において、「へいじょうきょう」と振り仮名がふられていましたが、現在は多くの教科書で「へいぜいきょう」とふられていましたが、「へいじょう」は漢音+呉音の表記であることなどから、漢音表記に統一した「へいぜい」とされました。しかし世論的には未だ「へいじょう」が一般的であり、奈良県の進める平城遷都1300年記念事業も「へいじょう」と発音されています。平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読みますが、かつては「ならのみやこ」と訓読みしたというのが定説です。

 なぜ「平城」を「なら」と読むのかは諸説ありますが、一番有力とされているのは「平坦な都」という意味です。現代においても起伏のある土地を平坦にすることを「土地をならす」といいますが、「なら」には平坦という意味があり、山がちな飛鳥から平坦な奈良盆地の真ん中に移った都という意味が込められているとされるのがこの説です。そのため「平」の字を使ったが、中国風に雅字(良い文字の意)二字で地名を表記するために、「城市」の意を込めた「城」の字との2文字で「平城」とし、都の名称として採用したのではないかとされています。

 ちなみに「奈良」や「寧楽」などは「なら」という発音の万葉仮名表記です。かつては朝鮮語の「ナラ(国という意味)」との関連性を指摘する学者もいましたが、現在はほぼ否定されています(「均す(なら-)『平らにする』」という意味が語源とされている)。

 桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由は奈良仏教各寺の影響力の肥大化等、多くありますが、その一つに、平城京の地理的条件と用水インフラへ不便さにあったといわれています。平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難でした。都には小さな川は流れていましたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していました。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていました。しかし、水がほとんど流れない為に汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していました。

2.大宝律令

 大宝律令(たいほうりつりょう)は、8世紀初頭に制定された日本の律令(法令)。唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられています。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令です。特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていました。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成しました。律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らです。

 大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日には大宝律令を諸国に頒布しました。

 大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件でした。大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説も唱えられています。

 この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入されました。

 また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていました。 大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として、令集解古記などの他文献に残存している。757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われています。

3.律令制における行政区画

 地方行政区画は、天皇の権力の及ぶ範囲とされる、畿内(大和・摂津・河内(後、和泉が分立)・山城)と七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に分け(道制)、その下に66国と壱岐(いき)嶋、対馬(つしま)嶋が置かれましました。距離により、畿内、近国(若狭、美濃、尾張、三河、伊賀、伊勢、志摩、近江、丹後、丹波、但馬、播磨、淡路、紀伊、備前、美作)、中国、遠国に分かれ、このような行政区画以外にも、東国・坂東と陸奥・出羽がありましました。行政組織は全て太政官左右弁官局の共同管轄下に置かれましました。近畿地方という名前もこの畿内に近い地方からきています。

 地方は一般に国・郡・里の行政組織に編成され、それぞれ国司・郡司・里長が置かれましました。里は、715年(霊亀元)郷に改め、郷を2、3の里に分けられましました。
 地方の役所は官衙(かんが)といい、国と群(郡)に置かれ、国府(国衙)・群家(郡衙)といきましました。和銅六(712)年「諸国郡衙の名に好名を用うべき勅あり」。
 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあり、国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていました。蝦夷王国、琉球王国を除き下記の通り制定されました。

大国(13カ国) 大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国
※うち親王任国(親王が国司に任じられた国及びその制度)は上総国・常陸国・上野国。
上国[*3](35カ国) 山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国[*1]・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国
中国(11カ国) 安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国[*2]・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国
下国(9カ国) 和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国

[*1]…但馬国…7世紀とする説があるが確証はない。丹波国より8郡を分割して成立しました。
[*2]…丹後国 たんご(丹州)- 713年に丹波国より分立。
[*3]…各国は国力等の経済上の基準で大国(たいごく)・上国(じょうごく)・中国(ちゅうごく)・下国(げこく)の4等級に区分され、この各区分毎に適正な納税の軽重が決められた。この区分は各国の国情、時勢により変動した。また、国司の格や人員も(大国の守は従五位上だが上国の守は従六位下、中国・下国には介は置かないなど)これに基づいた。

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