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近世江戸紫(えどむらさき)#745399 最初のページ戻る次へ

武士の思想〜武士道

概 要

目 次

  1. 武士道が目指す「知行合一」の思想
  2. 孔子を源泉とする武士道の道徳律
  3. 儒教によるサムライ精神の完成
  4. 武士道の礎石「義」
  5. 山鹿素行
  6. 上杉鷹山
  7. 本居宣長の意義
  8. 『三河物語』
  9. 『葉隠』
 江戸時代の学問の隆盛は戦乱の世がようやく終わり、豊臣方との対決の確執がほぼ決し、安定を迎えた慶長・元和間以降の平和が関係しているといえるでしょう。政治は、あらたな秩序を模索します。かつて戦闘者として常に中心にいた武士階級の役割はどのように変化したのでしょう。

3.武士道が目指す「知行合一」の思想

 武士道におけるあらゆる知識は、人生における具体的な日々の行動と合致しなければならない者と考えられました。中国の思想家・王陽明は、知識と行動を一致させるという意味の「知行合一」なる言葉を生み出しました。

 日本人の心性は、神道の素朴な教義で見るように、王陽明の教えにとくに適していると私(新渡戸)は思います。武士道がそこから吸収し、わがものとした本質は単純で、わが国の歴史上、もっとも不安定な時代の、もっとも危険な日々にあっても、武士にとっては十分な安息安全の処世訓となるものであったのです。

 わが国のサムライの祖先が持っていた健全で純朴な性質は、古代思想の本道や脇道から拾い集められた平凡で断片的な教えの束に過ぎなかったのですが、それらは精神の十分な糧(かて)を引き出しました。これらの寄せ集めの束から、新しい独特な男らしいかたちの人間形成をなし得たのです。いわば、それが武士道の芽生えだったのです。

2.孔子を源泉とする武士道の道徳律

 武士道は、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが最も豊かな源泉なりました。君臣、親子、夫婦、長幼、朋友についての「五倫」は、儒教の書物が中国からもたらされる以前から、日本人の民族的本能が認めていたものであって、それを確認したに過ぎませんでした。冷静で穏和な、しかも世故に長けた孔子の政治道徳の教えは、支配階級のサムライにとってはとりわけふさわしいものでした。孔子の貴族的で保守的な教訓は、武士階級の要求に著しく適合したのです。

 さらに孔子に次いで孟子の教えは、さらに武士道に大いなる権威をもたらしました。孟子の強烈で、ときには極めて民主的な理論は、気概や思いやりのある性質の人には特に好かれました。しかしその理論は、一面、封建的な秩序社会を覆す危険思想とも受け取られ、彼の書物は長い間、禁書とされました。にもかかわらず、この優れた思想家の言葉は、サムライの心の中に不変の位置を占めていたのです。

 孔子と孟子の著作は、若者にとっては主要な人生の教科書となり、大人の間では議論の時の最高の権威となりました。しかし、単にこの二人の古典を知っているだけでは、高い尊敬を受けることはできませんでした。孔子を知識として知っているだけでは、「論語読みの論語知らず」とのことわざが生まれたように、それは冷笑の対象とされ、西郷隆盛などは「書中の虫」として蔑んでいます。

 三浦梅園は、学問を青臭い野菜に例え、「野菜はその青臭さを取り除くために何度も茹でなければならない。少ししか読書をしない者は少し学者くさく、大いに読書している者はさらに学者くさく、どちらも同じように困りものである」といいました。梅園がいおうとした真意は、知識というものは、これを学ぶ者が同化させ、その人の品性に表れて初めて心の知識となる、ということです。したがって知的専門家は単なる機械だとみられました。要するに知性は行動として表れる道徳的行為に従属するものと考えられたのです。

 儒教では人間と宇宙はひとしく精神的かつ道徳的なものであるとされました。しかし、武士道は知識を重んじるものではありません。重んずるものは行動です。したがって知識はそれ自体が目的とはならず、あくまで知恵を得るための手段でなければなりませんでした。単に知識だけを持つ者は、求めに応じて詩歌や格言をつくり出す“便利な機械”としか見られなかったのです。

3.儒教によるサムライ精神の完成

 戦国時代の合理的精神によって大きく展開したサムライ精神は、江戸時代に完成期を迎えます。江戸時代の特徴は、世界でも例のない三百年という太平の世が続き、武士が私闘以外に武力を行使する機会がなくなったことと、儒教によってサムライ精神の理論づけが行われたことにあります。

 ここでいう儒教とは、中国の儒教ではなく、書物として入ってきた『論語』や『孟子』、朱子学、陽明学の類です。

 中国の生の儒教というものは、生臭い中国文化を前提とし、その上に立って統治の術を述べるものでした。生臭いというのは、官職は汚職にまみれ、人々はエゴイスティックで、ギトギトした世界と言う意味です。孔子は、こうした世界を認めた上で、礼による統治を説きました。

 日本では聖人君子というと、一汁一菜の質素な生活を守り、自らの行いを正し、公の場では人倫の道を説く人、というイメージがあります。しかし、『論語』には、君子は一汁一菜でなければならない、とは一言も書かれていません。

 中国の聖人君子とは、私生活では贅沢を楽しみ、人から賄賂をもらった場合はきちんと便宣を図ってやり、礼によって天下を治める方法を知っている脂ぎった政治化のことを意味しています。

 シュリーマンがイギリスの公使パークスに無理に頼んで江戸に旅したときのことです。当時は攘夷論が盛んな頃で、血気盛んな勤王の志士たちに殺される危険があり、五人の侍が護衛につきました。江戸滞在を無事に終えた後、シュリーマンは感謝の気持ちを込めて、五人に礼金を差し出しました。すると、彼らはそれを頑なに拒否しました。

 「彼らは、お金に換算されることが、自分たちの行為を汚されたように受け取っていたようだ」と、シュリーマンは書き残し、日本人の潔癖さに感心しています。

 日本人はこうした行為に対してお金をもらうのを、今でも恥じるところがあります。日本人は親切心でした行為に対して、お金を受け取るというのは失礼、と逆に怒る人もいるのです。こうした日本人の潔癖さは、昔の武士の嗜みから来たものです。こうした嗜みを親から教わり、代々受け継いできました。

 同じ『論語』を読みながら、なぜ中国人たちはお金に執着し、日本の武士は潔癖すぎるほど綺麗だったのでしょうか。それは、昔の日本人には、お金に汚い中国文化は輸入されず、書物だけが入ってきたからです。これは、儒教を日本にもたらし普及させた人たちが主に僧侶だったこととも関係があるようです。

 そのため日本では、書かれてある文字だけを頼りに『論語』を解釈し、極めて日本的な聖人像を作り上げました。本来の中国的な油臭さは完璧に抜き去られ、日本風にひどく淡泊かつ清く美しく解釈したのです。無私無欲な日本的聖人像が江戸期に完成したのです。

4.武士道の礎石「義」

   「義」は、武士の掟の中で、もっとも厳格な徳目です。サムライにとって卑劣なる行動、不正な振る舞いほど忌まわしいものはありません。林子平は、これを決断する力と定義して、「義は自分の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力である。死すべきときには死に、討つべきときには討つことである」と語っています。あるいは、真木和泉守という武士は、「武士の重んずるところは節義である。節義とは人の体にたとえれば骨に当たる。骨がなければ首も正しく上に載ってはいられない。手も動かず、足も立たない。だから人は才能や学問があったとしても、節義がなければ武士ではない。節義さえあれば社交の才など取るに足らないものだ」と述べています。

 「仁は人の良心なり、義は人の道なり」といった孟子が、その「仁」と「義」がすたれた世を見て嘆き、 「その道を捨てて顧みず、その心をなくしても求めようとしない。哀しいかな。鶏や犬がいなくなっても探すことはできるが、心をなくしては探しようがない」と言っています。

 要するに孟子によれば「義」とは、人が失われた楽園を取り戻すために通らねばならない、まっすぐな狭い道のことです。

 封建制の末期になると、太平の世が長く続いたために、武士階級の生活にも余裕が生じ、それにともないあらゆる種類の遊興や芸事が流行り始めました。しかしそんな時代でさえ、「義士」という呼び名は、学問や芸術の熟達を意味するいかなる言葉よりも「優れた者」と考えられました。この時代にあって、『忠臣蔵』の武士たちは、俗に「義士」として知られていますが、この率直で、正直で、男らしい徳は、最高に光り輝く宝石であり、日本人がもっとも高く賞賛する対象だったのです。

 義は、もう一つ、勇ましい徳である「勇」と双子の関係にあります。両方とも武徳ですが、義からの派生語と呼べるものに「義理」があります。文字通りの意味は「正義の道理」です。しかし、私たちが親や目上の者、もしくは目下の者、あるいは社会一般などに負う義理について話すときは、義理はいつのまにか「義務」のこととなりました。たとえば親に対するものは「愛」が唯一の動機ですが、それがない場合は、親孝行を強いるための何らかの権威が必要となります。そこで人々はこの権威を義理としたのです。

   もし愛情が徳の行動に結びつかない場合は、頼りになるものは人の理性です。その理性は、直ちに人に正しく行動することを訴えるからです。

 同様のことは他の道徳的義務についてもいえます。たとえ義務が負担になった瞬間でも、「正義の道理」が私たちにそれを命令するからです。しかし、本来義理は第二義的な力です。動機づけの要因としては唯一の「律法」であるキリスト教の教えには劣ります。それは義理が人間社会が作り上げた産物だからです。

 人は偶然生まれた事実によって階級社会をつくり、その社会的単位は家族です。そこでは才能の優劣により年齢が重視されます。いわば義理は、自然な愛情が人間のつくった恣意的な習慣にしばしば屈服させられるような、社会的条件の中にあるからです。義理は時を経るうちに曖昧になり堕落しました。たとえば、なぜ母親は子を救うために、必要とあれば他の子を犠牲にしなければならないのか。なぜ娘は父親の遊興の費用を払うために、我が身を売らねばならないのか、といった状況において、「義理」は「正義の道理」として出発したにもかかわらず、しばしば詭弁のために用いられ、非難されることを怖れる臆病にまで墜ちてしまったのです。

5.山鹿素行

   江戸三百年の太平の世は、武士に大きな変革をもたらしました。戦争がなくなったことで、彼らは武人としての役割を半分終えてしまいました。幕府の命令によって大砲や鉄砲は各藩の武器蔵に収められ、弓矢も稽古以外では持ち歩かないようになりました。腰に大小を差すだけの「二本差し」になったのです。

 戦争がなくなると武力をバックにした「頼もしさ」は何の役にも立たなくなります。武力を抜かれた大名は、人倫の指導者になったのです。

 江戸前期の儒学者で軍学者である、大石内蔵助の師であった山鹿素行(1622〜85)は、いわゆる「士道論」を説き、士は農工商の三民に代わって人倫の道を実現するものであると位置づけています。ここでは武士は戦闘者ではなく、人倫のなかでの職分として位置づけています。

 「人民は天下万民のためにその極をたてたる所以にして、人君おのれが私するところに非(あら)ざる也…されば民あつまりて君起ち、君立ちて国成るの所以なれば、民は国の本と謂うべきなり」(『山鹿語類』)

 国の本は農民や町民であり、彼らのために君主は存在する。だから、人民は君主の私有財産ではない。君主は、天下万民のために設けられた政治機関に過ぎない、と言う意味です。

 これは、美濃部達吉が主張した天皇機関説に通じる考え方でしょう。

6.上杉鷹山

 こうした思想の流れをベースに、江戸後期、今もその名を語り継がれる名君中の名君、上杉鷹山(ようざん・1751〜1822)がいます。鷹山は九州高鍋藩秋月種美の次男ですが、米沢藩主上杉重定に請われて養子となります。幼少の頃から儒学者細井平洲の教えを受け、師弟の交流は平洲が死ぬまで続きました。

 鷹山は17歳のときに家督を相続し、第九代米沢藩主になります。上杉家は18世紀中頃には借財が20万両に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、このため他藩とは比較にならない程人口に占める家臣の割合が高かったため、人件費だけでも財政に深刻な負担を与えており、宝暦の大飢饉で危機的な状況でした。彼はただちに民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政らを登用して、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行いました。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していましたが、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、財政の大改革に着手します。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済しました。

 有名な「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」『上杉家文書』国宝の抜粋(為さずんばなんぞ成らん 『書経』)に由来)や、彼が春日神社に奉納した誓詞に次の歌が添えられています。

 「受けつぎて、国のつかさの身となれば、忘るまじきは民の父母」

 これは、平洲が日頃から教えていた治者の心を、鷹山がそのまま歌にしたものです。

 鷹山については明治の中頃、内村鑑三が英文で書いた『代表的日本人』の中で挙げ海外に紹介しました。1961(昭和36)年、第35代ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンがアメリカ大統領に就任したとき、日本人記者から、「日本で最も尊敬する政治家について」質問されたとき、ケネディが「ヨーザン・ウエスギ」と答えた話は有名だそうです。、鷹山の話は、戦前の小学校教科書に必ず取り上げられていたそうですが、戦後はすべて外されてしまいました。そのため、当時の日本人記者の中には、鷹山の名を知らず、東京の本社にあわてて問い合わせる者もいたそうです。

 平洲の思想を人格として体現したのが鷹山です。平洲が書き残した『嚶鳴館遺草』は、幕末の志士たちに大いに読まれました。吉田松陰はこれを座右の書とし、「士たるもの、必ず読むべし」と、友人や弟子に勧めました。

 西郷隆盛も島津久光に島流しにあっていた頃、この書に出合って大変感動しました。彼は「民を治める道は、この一巻で足りる」として、他人にも勧めたといわれており、細井・鷹山の思想と治績が、明治維新に与えた影響は大きいのです。  儒教・朱子学が官学的位置を占めていたなか、乱世が終わり江戸時代に、とりわけ都会で、多様化が進むなかで中世の仏教的観念が現実味を失いはじめると、あらためて人々や社会の有り様とは何かが問題となります。そうして儒教とは違った国学という思想が生まれました。

7.本居宣長の意義

 なかでも『古事記』を注解し公開した本居宣長の意義は大きいといわれています。宣長の神道的世界の解明は、賀茂真淵に『古事記』の解明を進められたことによるものです。以来三十数年間『古事記』の解読に邁進し、『古事記伝』を完成させました。先行する国学者が、その難読性からほぼ『万葉集』に留まっていましたが、宣長によって『古事記』が突破されたのです。この作品に、日本人の原質、すなわち仏教・儒教の影響を受けるより前の時代の日本人の生き方と社会のあり方を見つけたのです。

 宣長は『日本書紀』を「漢意(からごころ)」の書として中国風の思想の影響を受けたものとして『古事記』より低く見ていました。「日本」という呼称自体が他者(中国大陸)を意識したものであることを理由のひとつとしましたが、漢文体の表記の問題でもありました。

 大きく異なる二つの書物をもったことはその後の思想史に大きな意味をもつことになったのは確かです。

 近代になり、津田左右吉氏は批判的立場から、記紀を政治的作為の産物とみなしましたが、しかし、古代人の思考のあきらかな断片を今に伝えることは否定できないでしょう。『古事記』は『魏志倭人伝』と同様に原本はありません。今の所一番古く確かな写本として、古事記研究の底本となっているのが「真福寺本」(名古屋市)と呼ばれるものです。

8.『三河物語』

 大久保彦左衛門(忠教)の『三河物語』(1622年)は、武士の内面を知る格好の資料です。徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書です。上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、下巻では太平の世となってからの忠教の経験談や考え方などが記されています。この本は大久保家に秘蔵され、明治になって公になった本ですが、公開するつもりもなく子孫だけに向けて記されたため、逆に忠教の不満や意見などの思いがそのまま残されていることから人気になったと伝えられています。

 下巻の巻末には読み手に対して、「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓(えこひいき)を目的として書いたものだとは思わないで欲しい」といった趣旨の言葉が記されており、門外不出と言いながらも読み手を意識しているという忠教の人間くささがうかがえます。

 大久保の家は代々徳川家に仕え、譜代の中でもおもだった家系です。彦左衛門自身、多くの親族が戦死し、男子としては一族でひとり生き残りました。

 彦左衛門は、現在の不遇を嘆きながらも、子孫には外様の身勝手な者達と違い「御譜代の衆は、良くても悪しくても御家の犬」としてご奉公申し上げるのだと諭します。つかの間の人生ではあるが、「名(名誉)にはかへべきか、人は一代、名は末代なり」と言い切ります。

大久保家…彦左衛門は大久保忠員の八男、ただし庶子として生まれる。大久保家は三河におこった松平氏の三代信光から九代徳川家康に一族あげて忠勤を励んできた。譜代の中でもとくに由緒ある家柄。(1560〜1639)

9.『葉隠』

 佐賀藩士山本常朝(1659〜1719)の語ったことを田代陣基(つねもと・1668〜1748)が筆録したものとされ、時代は大久保彦左衛門の時代からさらに、平穏な時代と変わり、武士たる戦闘者の位置も大きく変わりました。この書のもつ意義は、戦闘者たる武士の心得、あり方を生々しい言葉で残していることです。

 常朝は、武士の前もっての覚悟を肝要なこととしてあげます。

 「武士というは死ぬことと見付けたり。二つ三つの場にて早く死ぬ方に片付くばかり也。別に子細なし。胸座って進む也。図に当たらず犬死などをいふ子とは上方風の打ち上がりたる武道なるべし。二つ三つの場にて図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人生きる方がすき也。多分すきの方に利が付くべし。もし図にはずれて生きたならば腰抜け也。此の境危うき也。図にはずれて死たらば気違ひにて恥にはならず。是が武道の丈夫也。毎朝毎夕改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく家職を仕おおすべき也」

 常朝は繰り返し、毎日毎日覚悟を決めておかねば、いざという場でのなすべき事が果たせない武士のあり方を語ります。サムライの道は忠も孝も不要であり「死狂ひ也。この内に忠孝はおのづからこもるなるべし」といい、主君の「御用」のためには「知恵芸能」、分別など一切いらない、と強調しています。

 また、主君への献身を死んでも相手に知られぬ「忍恋(しのぶこひ)」と表現するなど、武士の献身の道徳を、極限まで表現していることで、今も有名です。

引用:『日本の思想』 東京理科大学教授 清水正之
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