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近世江戸紫(えどむらさき)#745399最初のページ戻る次へ

丹波・丹後の藩

目次

  1. 概要
  2. 丹後の藩
  3. 京極氏の主な人物
  4. 丹波の藩

概 要

 丹波国(たんばのくに)は、大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てています。このため、丹波国は甲斐や尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。地域性として亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬、篠山・氷上の兵庫丹波は但馬・摂津・播磨に密接に係わっています。

 特に畿内では国人の独立志向が非常に高く、山城や丹波などで、守護(細川氏)が数十年をかけても国人層の被官化を達成できない事例も見られました。丹波国は古くより山陰道からの京都の出入口に当たる地理的条件から各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの支配を受けました。ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれました。そして篠村(亀岡市篠町)では、鎌倉時代末期には足利尊氏が挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変へと向う際にそれに倣ったとされるなど、時代変革の舞台ともなりました。さほど有名ではありませんが、戦国時代に八上城の波多野氏は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともあります。

 江戸時代は一国を有する大名は出なかったものの一国7藩(丹波亀山藩、園部藩、綾部藩、山家藩、篠山藩(八上藩)、丹波柏原藩、福知山藩がありました。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩については松平氏や青山氏を中心として譜代大名による移封が多く、藩主が老中や寺社奉行、京都所司代、大坂城代を歴任するなど徳川幕府の重視する藩であったことがわかります。

 明治維新の際、桑田郡山国郷(現在の京都市右京区京北)で勤皇を標榜する山国隊が、桑田郡馬路村(現在の亀岡市馬路町)では弓箭隊が結成され、山陰道鎮撫総督西園寺公望に従って各地を転戦しました。このとき、弓箭隊の郷士の息子である中川小十郎(後の立命館大学の創立者)が西園寺と出会うことになります。

 廃藩置県後の明治4年(1871年)11月2日の第1次府県統合により、桑田郡、船井郡、何鹿郡は京都府に、天田郡、氷上郡、多紀郡は豊岡県に分けられました。さらに、明治9年(1876年)8月21日の第2次府県統合により豊岡県は廃止され、天田郡が京都府に、氷上郡、多紀郡の二郡が兵庫県に編入されることとなりました。その後、昭和33年(1958年)4月1日の市町村合併により、京都府南桑田郡樫田村が大阪府高槻市に、京都府亀岡市西別院村の牧、寺田地区が大阪府豊能郡豊能町に編入されています。

丹後の藩

 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こりました。細川忠興は家康に従っており、幽斎は僅かな兵とともに田辺城の留守を守っていました。そこへ、大坂方の大軍が攻め寄せたが、幽斎は屈することなく六十日間にわたって城を死守しました。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。藤孝の死によって歌道秘訣の絶えるのを恐れた後陽成天皇によって、包囲軍は田辺城から撤退となったのです。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。  戦後、細川忠興は関ヶ原の合戦の功により、一躍、豊前一国と豊後の内速水・国東両郡併せて三十九万九千石を拝領しました。幽斎も田辺城における功を賞され、別に隠居料として六千石を与えられました。こうして、細川幽斎(藤孝)は、慶長十五年、七十七歳を一期として世を去りました。文字通り、激動の時代を生き抜いた幽斎は、人生の達人といえる人物であったといえようか。  幽斎のあとを継ぎ、豊前の大大名となった忠興は三斎と号し、『細川三斎茶書』といった著書もあり、利久七哲の一人に数えられるほどの文化人でもありました。忠興も逸話の多い人物だが、ガラシャとの関係は世に喧伝されたところです。忠興のあとはガラシャとの間に生まれた忠利が継ぎ、寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後国に転封されました。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。

丹後田辺藩(たなべはん)

 丹後田辺藩は江戸時代、丹後国にあった藩の1つ。別名、近年は舞鶴藩(まいづるはん)と呼称される事も多い。藩庁は田辺城(別名舞鶴城(ぶがくじょう)京都府舞鶴市)。紀州田辺藩があるため、丹後田辺藩としています。

 丹後国は元々一色氏が守護を務める国でしたが、天正7年(1579年)、細川藤孝は明智光秀とともに反信長連合の一角だった一色氏らを滅ぼし丹後国・丹波国を制圧し功績を挙げました。藤孝は恩賞とし丹後一国を与えられ田辺城を築き、舞鶴を拠点に丹後一国を治めました。その後、天正10年(1582年)6月2日に親戚関係にあった明智光秀が本能寺の変を起こし、藤孝自身も加担するよう誘われますが、反光秀の立場を貫き、羽柴秀吉から丹後の本領を安堵されています。しかし藤孝は、親戚であった光秀の裏切りの責任をとる形で嫡男の忠興に家督を譲って隠居しました。その際、隠居城として宮津城を築き、丹後舞鶴から移りました。しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび、舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後、細川氏は豊前国中津藩へ転封されました。 かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。

 京極高知は嫡男の京極高広を宮津藩に、京極高三を舞鶴藩(田辺藩)に、京極高通を峰山藩に入れ、丹後を3藩に分割統治させました。京極高三により、ここに初めて舞鶴藩(田辺藩)が成立しました。藩域は丹後加佐郡全域で、現舞鶴市および宮津市由良、福知山市大江に相当します。

 京極家は近江源氏佐々木氏の末裔であり、有名な京極道誉(佐々木道誉)の子孫です。寛永13年、京極高直が二代藩主となりました。三代京極高盛は寛文3年(1663年)に弟の高門に2千石を分知し、また寛文8年(1668年)には、但馬国豊岡藩に転封となりました。

京極氏の主な人物

 代わって同年に、牧野親成・牧野富成兄弟が摂津国より、3万5000石で入城。以後牧野家によって明治維新を迎え、舞鶴県に至りました。

 牧野讃岐守康成(やすしげ)は、初名を正勝、通称を半右衛門といいます。その父は牛久保牧野氏寄騎の牧野山城守定成(八大夫)とされます。三河国在住時代は宝飯郡平井(現・愛知県宝飯郡小坂井町平井)に知行地がありました。永禄8年(1564年)徳川氏に所属し翌年8月平井(92貫文の地)を安堵されています。なお、定成(この実名にも諸説有り)以前の牧野山城守の系譜は確定したものが知られていません。牛久保城主一門にしてはなぜ寄騎の扱いであったか不明な点も多いようです。

 安土桃山時代以前の牧野氏のルーツは、不明な点や矛盾が多く、複数の異なった系譜が伝わり、また徳川氏帰属後は反徳川の急先鋒だった三河牛窪城主・牧野保成との関係を意図的に遠ざけたとも考えられ、これも系譜関係の不明確さの一因となっています。田辺藩主牧野氏と長岡藩主牧野氏との系譜関係を完全・確実に伝える史料は知られていません。

 天正18年(1590年)に康成は武蔵国足立郡石戸に5千石を与えられ、康成の3男の牧野信成は慶長4年(1599年)父の遺跡を継ぎ、慶長11年(1606年)より大番頭、小姓組番頭、書院番頭などを歴任。寛永10年(1633年)の加増で大名に列し、武蔵国石戸藩1万1千石として立藩。正保元年(1644年)の加増で関宿城主となり下総国関宿藩入封となります。信成の子牧野親成が段々に加増され、寛文8年(1660年)に封地を移されて丹後田辺藩3万5千万石の藩主になりました。

 以後、幕末まで歴代が同藩で封を重ね、明治維新後に旧藩主家は子爵となり華族に列しました。

宮津藩(みやづはん)

 関ヶ原の戦い後、信濃飯田城より、京極高知が、丹後守の称号と丹後一国、十二万三千石の領地が与えられ、宮津城から田辺城(舞鶴市)に入り(幕府に届出た正式な居城は宮津城)、国持ち大名京極家の領地となりました。藩庁は宮津城(京都府宮津市)に置かれました。江戸時代には宮津、田辺、峰山に藩庁が置かれました。また、久美浜に久美浜代官所が設置され北近畿天領を統括しました。

 京極高知は、京極高吉の子。母は浅井久政の女(京極マリア)。兄に京極高次と姉に豊臣秀吉の側室松の丸殿と義姉(従姉妹)に兄・高次の妻・初と従姉妹で豊臣秀吉の側室淀殿と従姉妹で徳川秀忠の妻・江がいます。正室は織田信澄の娘、継室は毛利秀頼(尾張守護斯波氏)の娘。嫡男は高広、三男に田辺藩主高三、養子に峰山藩主京極高通、娘婿に八条宮智仁親王、京極高通、六郷政勝。

 当初より豊臣秀吉に仕え、長年の功績により羽柴姓を許されるまでになり、羽柴伊奈侍従と称す。文禄2年(1593年)に義父である毛利秀頼の遺領を継ぎ、信濃伊那郡6万石・飯田城主となり従四位下侍従に任ぜられました。文禄3年(1594年)には10万石に加増されました。秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年(には織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦、関ケ原の戦いでも大谷吉継隊と死闘を演じる等、最前線で抜群の戦功を挙げ、戦後、丹後国宮津12万3,000石を与えられて国持大名として京極丹後守と称すことを許されました。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移します。

 宮津藩は庶流への分封により、宮津藩、田辺藩、峰山藩に三分割されました。これにより嫡流は7万8,200石となりますが三代にして改易。その後、子孫が高家として取り立てられ幕末まで続きます。田辺藩京極家は但馬豊岡藩へ転封となりましたが、峰山藩京極家は幕末まで一度の転封もなく丹後の所領を守り通しました。峰山藩京極家からは幾人もの若年寄が出、江戸幕府中枢において活躍しました。

 後に嫡男の高広を宮津藩に、高三を田辺藩(舞鶴藩)に、高通を峰山藩に入れ、丹後に3藩を並立させました。従って、実質的には京極高広より宮津藩が成立したといってよいでしょう。高広の子高国は、寛文6年(1666年)、幕府に悪政・一族不和等の不行跡を咎められ、改易となりました(宮津藩主京極家自体は高家旗本として存続)。

 天領を経て、寛文9年(1669年)、永井尚征が山城淀藩より入城しました。奏者番となった第2代藩主・尚長は延宝8年(1680年)、第4代将軍・徳川家綱の葬儀が増上寺で行われた際、乱心した志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に殺害されるという事件が起こった。尚長には嗣子が無く、結局は改易となった。後に弟の直円に大和櫛羅藩1万石が与えられて再興しています。

 天和元年(1681年)、阿部正邦が武蔵岩槻藩より入封しますが、元禄10年(1697年)には下野宇都宮藩に転出しています。入れ替わりに同地より奥平昌成が入封し、享保2年(1717年)には中津藩に転出します。代わって信濃飯山藩より青山幸秀が入封しました。第2代藩主・幸道は宝暦8年(1758年)、美濃郡上藩に移封となるなど、目まぐるしく入れ替わりました。

 遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入って、ようやく藩主家は定着をみることとなりました。松平(本庄)氏の家祖・宗資は第5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子資俊より松平姓を許されました。当家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出しています。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方として戦ったが敗戦し、以後は明治政府に恭順しました。

 明治4年(1871年)廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て京都府に編入されました。 藩主家の本庄松平氏は明治17年(1884年)、子爵となり華族に列しました。本庄子爵家の祖先です。

京極氏の主な人物

京極高吉

 永正5年(1508年) − 天正9年1月25日(1581年2月28日))は、京極高清(高秀)の子。妻は浅井久政の娘(京極マリア)。京極高次・京極高知・松の丸殿(武田元明妻、のち豊臣秀吉側室)の父。子の京極高知は、丹後藩(丹後宮津)の祖。関ヶ原の功により丹後一国および丹後守の称号を与えられ国持大名となる。田辺藩京極家は但馬豊岡藩へ転封となりました。

 京極氏は室町時代、四職に数えられる名族であり、最盛期は近江、出雲、飛騨の守護でした。しかし、応仁の乱前後の混乱期には内紛で衰えていた。高吉は父の高清に寵愛され、家臣の上坂氏に支持され兄の京極高広と家督を争ったが、浅見氏や浅井氏を始めとする国人達の支持を受けた高広に敗れ、追放されました。のち、高広も浅井氏と対立し追放され、下克上にあい国を奪われ、京極氏の衰退は決定的となりました。

 追放後の高吉は六角氏の支援の元、高広と争ったが、のち高広と対立した浅井氏に父と共に迎えられ一時返り咲くものの、傀儡であり結局近江を離れることになります。一時将軍・足利義輝の近臣として仕えたが、1560年に権力奪回を目指して再び近江に戻り六角氏と結んで浅井賢政(後の長政)に対して挙兵するも失敗し、近江における残された支配権を全て失います。

 1565年に義輝が暗殺されると、弟の足利義昭の擁立に尽力します。だが、義昭が織田信長と対立すると高吉自身は隠居し、子の高次を信長の家臣として仕えさせました。

 1581年、妻とともに安土城にてグネッキ・ソルディ・オルガンティノからキリスト教徒としての洗礼を受ける。だが、その数日後に突如として他界した。高齢のためということもあったのかもしれないが、突然の死去に、人々は仏罰で没したと噂した。

 地元の民には「泉源寺様」と呼び慕われ、元和4年(1618年)7月1日に亡くなりました。法名は養福院殿法山寿慶大禅定尼と伝わる。

京極マリア

 実名は不詳。当時は夫婦別姓なので本来は京極姓で呼ぶのは適切ではない。天文11年(1542年)頃、近江国の支配権を京極氏より奪った浅井氏の当主浅井久政の次女、長政の姉として小谷城で生まれます。

 京極高吉に嫁ぎ、子は永禄6年(1563年)に小谷城で高次、元亀3年(1572年)に高知、時期は定かでないが竜子、他に二人の娘(氏家行広室、朽木宣綱室)を設ける。天正元年(1573年)より前に、夫は嫡男の高次を織田信長に人質として送り上平寺に隠居しており、そこで共に暮らしたと考えられます。

 天正9年(1581年)、夫と共に安土城城下でグネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父より洗礼を受け、洗礼名としてドンナ・マリアを授かるが、その数日後に夫は死去します。

 天正15年(1587年)にバテレン追放令が豊臣秀吉により発せられた後も信仰を貫き、秀吉の側室となった竜子を除く四人の子が洗礼を受けたとされる。京、大坂での布教活動を経て、関ヶ原の戦いの後には次男の高知が領した丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に移り住み、高知の庇護の下此御堂という建物を中心に布教活動を行い、更なる信仰を深めたといいます。泉源寺村は丹後の最東端に位置し丹後若狭の国境に近いことから選んだとされ、長男が領する若狭の小浜にも度々足を運んだともいわれています。

 天文11年(1542年)頃 - 元和4年7月1日(1618年8月20日)。天文11年(1542年)頃、近江国の支配権を京極氏より奪った浅井氏の当主浅井久政の次女、長政の姉として小谷城(福井県)で生まれる。京極高吉に嫁ぎ、子は永禄6年(1563年)に小谷城で高次、元亀3年(1572年)に高知、時期は定かでないが竜子、他に二人の娘(氏家行広室、朽木宣綱室)を設ける。天正元年(1573年)より前に、夫は嫡男の高次を織田信長に人質として送り上平寺に隠居しており、そこで共に暮らしたと考えられる。

京極竜子

 (きょうごくたつこ)はじめ武田元明の正室、のち豊臣秀吉の側室となり松の丸殿、京極殿、西の丸殿と呼ばれた。父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。兄(弟という説もある)に京極高次。弟に京極高知。浅井長政は叔父、淀殿(茶々)(秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠正室)は従姉妹にあたる。 浅井氏の主筋に当たる京極氏の出身だったため、同じく秀吉の側室である淀殿よりも血筋上では名門に連なる。

 初め若狭守護・武田元明に嫁ぎ、二男を生む。しかし、高次と夫の元明は本能寺の変後、明智光秀の味方につき、元明は秀吉の軍に討たれてしまう。竜子は捕らえられた後、秀吉の側室となった。小田原城や名護屋城に秀吉が伴っていったり、醍醐の花見でも三番目の輿を使ったりなど、淀殿と杯の順番を争ったのは、後の世の受け継がれている有名な話である。かなり秀吉お気に入りの側室だったようである。肖像画より大変な美女であったと伝わる。

 秀吉の死後、高次の住む大津城に身を寄せた。関ヶ原の合戦後、寿芳院と号して出家し、西洞院に居を構えた。その後も竜子は京から度々大坂へ贈り物をしたり、豊臣秀頼に会いにきていた(『慈照院文書』)。秀吉没後も豊臣家の一員として北政所・淀殿と親交をもち続けていた様子が『舜旧記』からも分かる。

 大坂夏の陣の後は、淀殿の侍女(菊)を保護し、また六条河原で処刑された秀頼の息子・国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬した。寛永11年9月1日に死去。法名は寿芳院殿月晃盛久。墓所は、京都市中京区誓願寺にあったが、現在の墓所は、豊国廟。

 京極高次の出世は、この竜子と、彼の正室・初の縁による所が大きいと思われる。

高次流 (若狭京極家)

 若狭国小浜藩初代藩主。丸亀藩京極家初代。永禄6年(1563年)、京極高吉と浅井久政の娘で長政の姉(京極マリア)の長男として、浅井氏の居城である近江の小谷城京極丸で生まれ、幼名は小法師と称した。父の高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭と織田信長が対立した際に出家し、高次は美濃へ人質として送られ幼少期を過ごす。元亀4年(1573年)7月には宇治の真木島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、近江奥島5000石を与えられる。

 初め織田信長に仕えますが、天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると光秀に属し、山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉からの追及を受けます。しかし、姉妹の竜子が秀吉の側室となった事から許され、天正12年(1584年)に近江高島郡の二千五百石を与え、その後は加増を重ね、文禄4年(1595年)には近江大津六万石になりました。

   天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭の武田元明と共に光秀に属し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めるが、13日の山崎の戦いで光秀は秀吉に討たれ、19日に元明は自害し、高次は若狭の武田領へと逃れる。秀吉の側室となった姉・竜子の嘆願などにより許され、秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江高島郡2500石を与えられる。翌々年には高島郡5000石へと加増された。 さらに同年の九州攻めの功により高島郡で大溝1万石を得、大溝城も与えられ、初めて大名となった。天正15年(1587年)、信長の妹である市の娘・初(父は浅井長政)を正室とする。高次と初は、いとこ同士であった。

 天正18年(1590年)、小田原攻めの功により近江八幡城2万8000石となり、翌年に秀吉が関白に就任すると、従五位下侍従に任ぜられる。文禄4年(1595年)には大津6万石へと加増され左近衛少将に任ぜられ、翌年には従三位参議に任ぜられる。豊臣秀吉の側室である姉・松の丸(京極)殿や、淀殿の妹である妻・初の七光りで出世した事から蛍大名とささやかれたが、関ヶ原の戦いの際には居城の大津城に常高院とともに篭もり、一万を超える西軍を引き付け関ヶ原へと向かわせず、その功により若狭小浜へと封ぜられ、京極氏の再興を果たした。高次は若狭国九万二千石を領した。小浜では、従来の後瀬山城を廃して日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に小浜城を築く。また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、城下町を整備した。

 正室お初の父は北近江国小谷城主・浅井長政、母は織田信秀の娘・市(織田信長の末妹)。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)、妹は徳川秀忠・正室(継室)の江(崇源院)。兄に万福丸、異母弟に万菊丸。 三姉妹のなかで一番格下の家に嫁いだと思われがちだが、新興の豊臣家や徳川家に比べ、京極家は室町時代に数ヶ国の守護を兼ね、四職に列した名門の大名家であり、一番格上の家に嫁いだといえる。また、京極家は実家の浅井家の直接の主筋に当たる。慶長14年(1609年)、夫・高次が亡くなると剃髪・出家して常高院と号す。この頃から甥・豊臣秀頼(姉の茶々〔淀殿〕が豊臣家の実権を掌握とも)と徳川家康(妹・江の舅)の対立が露呈するようになり、常高院は豊臣方の使者として仲介に奔走。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では徳川側の阿茶局とともに和議を取りまとめ両家の和議に尽力した。

 高次の子である忠高は、講和条件の大阪城の外堀を埋める作業の工事奉行となり大坂の役での功績により、寛永元年(1624年)には越前国敦賀郡が加増された。

 寛永11年(1634年)には、毛利家に対する押さえとして、京極氏が室町時代に守護をつとめた出雲国、隠岐国二カ国二十六万四千石へと加増され石見銀山も当てられます。正室は江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の四女・初姫(高次正室・常高院の養女)。将軍家姻戚として優遇された京極家でしたが、正室・初姫との夫婦仲はよくなかったとみられる。寛永7年(1630年)に初姫が死去した際は、忠高は臨終に立ち会うこともなく相撲見物に興じていたと伝えられる。このため舅である大御所・秀忠の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠により徳川家所縁の小石川の伝通院にてとり行われ、忠高をはじめ京極家関係者は葬儀への臨席を許可されなかった。嫡子の無いまま急死し、京極氏は改易されかけたが、それまでの徳川家に対する忠義を考慮されて、甥に当たる京極高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許され、さらに讃岐丸亀六万石へと転封となる。 高和の子である高豊は、嫡子の高或に五万一千石を、庶子の高通に多度津一万石をそれぞれ継がせた。 丸亀藩は飛び地として、近江の一部も領していた。

高或流(宗家)(讃岐丸亀藩)
 丸亀で明治維新を迎え子爵に列せられました。

高通流(多度津藩)
多度津で明治維新を迎え子爵に列せられました。

高知流 (丹後京極家)

 京極マリアの子。高次の弟である高知は当初から秀吉に仕え、天正19年(1591年)に近江国蒲生郡五千石、文禄2年(1593年)に信濃伊那郡六万石、翌年には十万石に加増されます。秀吉の死後は徳川家康に近づき関ヶ原の戦いでの抜群の功により、国持大名となり、丹後守を称することを許され、丹後国一国、十二万三千石を与えられました。高知は丹後国十二万三千石のうち、嫡男の高広に宮津藩七万八千石を、高三に丹後田辺藩(舞鶴)三万五千石を、養子高通に峰山藩一万石を分けて継がせた。宮津藩は、その後改易となったが、子孫は高家として栄えた。

 高盛は、1650年8月27日、江戸向柳原邸で生まれる。1663年、父の死去により丹後国田辺藩を継ぐ。このとき、弟の京極高門に2000石を分与した。

高広流(宗家)
 高広と嫡子で家督を継いだ高国の間で争いが生じ、寛文6年(1666年)幕府により所領を没収される。その後、高国の嫡子である高規とその子孫は高家として幕府に仕えた。

高三流(豊岡藩)
 高三の孫である高盛は、丹後田辺藩(舞鶴)から但馬豊岡三万五千石へ転封となる。高盛の孫である高寛は夭折し高永が末期養子として一万五千石を継ぎ、明治維新を迎え子爵に列せられました。

高通流
 一万三千石の大名として丹後峰山で明治維新を迎え子爵に列せられた。

華族
 子爵となった京極高徳は現在の北海道虻田郡京極町に農場を拓き、後に町名の由来となりました。

各家ともに分封、転封、改易はあったが、ともに明治維新を迎え、華族に列せられました。

京極氏は、山名氏同様、室町幕府の四職を勤めた鎌倉以前からの名門武家だが、次代の激流に生き延びた。

峰山藩(みねやまはん)

 峰山藩は、丹後国に存在した藩。小藩とはいえ、戦国大名の京極高知が関ヶ原の戦いの戦功により賜った丹後一国の領土の一部を受け継ぐ由緒正しい藩です。

 初代藩主・京極高通は朽木宣綱の次男として生まれましたが、京極高知の養子となった。丹後国主であった京極高知は己れの遺領である丹後を三子に三分割し、高通には峰山地方の1万石を相続させました。これにより元々徳川秀忠から拝領していた3,000石と合わせて1万3,000石の諸侯となって、丹後峰山に陣屋を構えて立藩しました。

 宗家である宮津藩の京極家はほどなく改易され、丹後田辺藩(舞鶴藩)の京極家も但馬豊岡へ転封となったため、丹後一国を領した京極高知の所領も、結果的にはこの峰山藩の1万3,000石だけが丹後に残るだけとなってしまいました。

 第6代藩主・京極高久は若年寄となりました。この高久は、鬼平犯科帳において、鬼平こと長谷川平蔵の良き理解者として登場する人物としても有名です。

丹波の藩

   丹波は、江戸時代は但馬国同様、京都に近く、幕府直轄領(天領)が多く、一国を有する大名は出なかったものの、一国7藩(丹波亀山藩、園部藩、綾部藩、山家藩、篠山藩(八上藩)、丹波柏原藩、福知山藩がありました。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩については松平氏や青山氏を中心として譜代大名による移封が多く、藩主が老中や寺社奉行、京都所司代、大坂城代を歴任するなど徳川幕府の重視する藩であったことがわかります。

 丹後国は江戸時代になると京極氏が丹後一国(宮津藩、田辺藩、峰山藩)を治めました。寛文8年(1668年)丹後国田辺藩の京極高盛が3万5千石にて豊岡藩に転封。代わって牧野親成・牧野富成兄弟が摂津国より入城。1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称しました。

丹波亀山藩(かめやまはん)

 丹波亀山藩は江戸時代に丹波国にあった藩のうちの一つです。亀山(現在の京都府亀岡市)を拠点としました。亀山は古くは丹波国府・国分寺が置かれていた地で、山陰道の入り口に当たるため、江戸幕府から特に重要視されました。明治時代に亀山の地名を亀岡に改称したため亀岡藩(かめおかはん)とも呼ばれます。藩庁は亀山城。伊勢亀山藩があるため亀山藩ではなく丹波亀山藩としています。

 明智光秀は織田信長より丹波攻略を命じられると、まず亀山盆地に進出します。天正5年(1577年)に丹波亀山城を築いて入部したのが、亀岡の近世的な始まりといわれています。天正7年(1579年)に波多野秀治が討たれて丹波が織田領になると、その功績により光秀は信長より近江坂本城と丹波1国の領有を許された。しかし天正10年(1582年)6月、光秀は本能寺の変を起こして信長を殺し、自らも信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)に討たれ、明智氏は滅亡しました。

 その後の清洲会議で羽柴秀吉が織田氏の主導権を握ると、亀山城は信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(於次)が入城します。天正13年(1585年)に秀勝が早世すると、秀吉の甥に当たる豊臣秀勝(小吉)が代わって入部しました。天正18年(1590年)に徳川家康が関東に移封されたため、豊臣秀勝が甲斐に入部することになると、様々なな武将が短期間で入れ替わりしました。秀吉の甥で養子となった羽柴秀秋(小早川秀秋)もその1人であります。

 文禄4年(1595年)に豊臣政権下の京都所司代であった前田玄以が亀山城に入部します。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは前田玄以はやむを得ず西軍に加わったが、家康に西軍の情報を内通していたため、戦後に家康より所領安堵を受け、ここに丹波亀山藩が成立しました。慶長7年(1602年)5月、前田玄以が死去すると、後を子の茂勝が継いだが、茂勝は丹波八上藩に移封され、丹波亀山藩は天領となります。

 慶長14年(1609年)、徳川氏譜代の家臣である岡部長盛が下総山崎藩(千葉県北部)から移封され、丹波亀山藩が再立藩されました。長盛が亀山藩に入ったのは、大坂藩(大阪市)[*1]の豊臣秀頼への対策の1つでもあります。慶長15年(1610年)、西国大名を総動員して、亀山城の築城が始まりました。

 元和7年(1621年)、三河西尾藩より大給松平家の松平成重が2万2,000石で亀山藩主となります。寛永11年(1634年)、近江膳所藩より菅沼定芳が4万1,000石で入りますが、第2代藩主・菅沼定昭が嗣子無くして慶安元年(1648年)に死去し、菅沼氏は改易となります。代わって藤井松平家の松平忠晴が3万8,000石で入りますが、第3代藩主の松平忠周の時代に武蔵岩槻藩へ移封となります。貞享2年(1685年)、備中庭瀬藩より5万石で久世重之が入りますが、短期間で三河吉田藩へ移封となります。元禄10年(1697年)、美濃郡上藩より井上正岑が4万7,000石で入りますが、これも短期間で常陸下館藩へ移封されます。元禄15年(1702年)9月7日、遠江浜松藩から青山忠重が5万石で入りますが、第3代藩主・青山忠朝の時代に丹波篠山藩へ移封というように、藩主家が定着しませんでした。寛延2年(1749年)、青山氏と入れ替わりで形原松平家の松平信岑が亀山藩主となると、以後はようやくこの家系が代々の亀山藩主として定着しました。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府の山陰鎮撫使に降伏します。明治2年(1869年)、亀岡藩と改称。明治4年(1871年)7月、廃藩置県で亀岡県となります。11月に府県統合で京都府に吸収されました。

[*1]…豊臣家の滅亡後、伊勢国亀山藩より松平忠明が10万石で入封し大坂藩が成立した。忠明は家康の外孫にあたり、祖父の養子となっていた人物である。忠明は大坂の陣で荒廃した大坂の町の復旧に努め、元和5年(1619年)大和国郡山藩に移封となったため廃藩となり、以後は天領として幕府により大坂城代・大坂町奉行が置かれた。

園部藩(そのべはん)

 園部藩は、丹波国船井郡(現在の京都府南丹市園部町小桜町)に存在した藩。

 園部藩は、元和5年(1619年)12月、但馬国出石藩主であった小出吉親が新たに入部してきたことにより立藩しました。所領はおよそ2万9800石ほどであります。初代藩主・吉親は園部城築城や検地、城下町の建設や治水事業に励んで藩政の基礎を固めた。吉親は寛文7年(1667年)6月9日に隠居し、家督は子の小出英知が継いだ。このとき、藩領は隠居料として吉親が5000石、英知が新墾田を併せて2万5000石を継ぐこととなりました。翌年3月11日に吉親が死去すると、その隠居料であった5000石は英知の弟・小出吉直と小出吉忠がそれぞれ3000石と2000石に分割して相続しました。

 第4代藩主・小出英貞は奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任し、次男の小出英治に1000石を分与しています。第5代藩主・小出英持も英貞と同じくその三職を歴任し、第6代藩主・小出英常は奏者番になるなど、幕府の要職を歴任しています。しかし第7代藩主・小出英タケの頃から飢饉や旱魃、洪水などの天災によって藩財政の窮乏化が表面化し、天明7年(1787年)には凶作と米価高騰などから百姓一揆が発生します。いわゆる天明の一揆であるが、これを皮切りにしてその後も火事などの災害が相次ぎ、藩内では打ちこわしや強訴が相次いで発生しました。このため、藩では煙草の専売制や木材の市場移出制を中心とした藩政改革を実施して効果を挙げています。

 幕末期には早くから御所の警備を行なうなどして官軍側に帰順しました。明治2年(1869年)の版籍奉還で最後の藩主・小出英尚は藩知事となります。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で園部藩は廃藩となったが、なおも英尚は園部県知事となりました。園部県は同年8月に廃され、同年11月には京都府に編入されたのであります。なお、藩主家は、子爵に任じられました。

綾部藩(あやべはん)

 綾部藩は、丹波国(現在の京都府綾部市青野町、または同本宮町)に存在した藩。藩庁は綾部陣屋に置かれました。

 綾部藩は寛永10年(1633年)3月5日に立藩した2万石の外様の藩であります。藩祖は九鬼隆季で、戦国時代に織田信長に仕えて名を馳せた水軍の将・九鬼嘉隆の孫であります。嘉隆の死後、九鬼氏は子の九鬼守隆が継いでいたが、その守隆が寛永9年(1632年)に死去すると、三男の隆季と五男の九鬼久隆との間で家督争いが起こりました。これは守隆が生前に五男の久隆を溺愛して嫡男に選んでしまったのが原因ですが、結果として御家騒動の結果、久隆は摂津国三田藩へ移封され、隆季は綾部にそれぞれ移封され、ここに九鬼氏は嘉隆以来の故郷である志摩国鳥羽藩の地を失うに至ったのでした。隆季は寛文元年(1661年)3月28日、弟の九鬼隆重に500石を分与し、分家を創設しています。また、隆季は城下町の建設や検地などを行なって藩政の基礎を固めました。

 しかし第2代藩主・九鬼隆常の代から大洪水や暴風雨による天災が起こって3,729人もの死者を出すなど、早くも藩政の衰退が始まります。その後も再三にわたって大洪水や大旱魃、大飢饉などが発生して藩は大被害を受け、第3代藩主・九鬼隆直の時代には藩財政が破綻し、藩札発行や倹約令制定、家臣団の給米減封などを中心とした財政改革が試みられたが、その後も大洪水などによる天災や百姓一揆までもが発生し、藩政はすっかり衰退してしまりました。なお、隆直の時代に藩校・進徳館が設立されています。

 このような中で第9代藩主・九鬼隆都は佐藤信淵や奥山弘平らを招聘して農業政策を中心とした藩政改革に取り組み、さらに山鹿素水を招いて軍事の改革も行なりました。隆都は弘化4年(1847年)に木綿会所を創設して専売制を実施し、藩財政をいくらかは再建することに成功しました。幕末期の動乱に入ると、隆都は文久元年(1861年)6月10日に家督を子の九鬼隆備に譲って隠居します。隆備ははじめ佐幕派であったが、禁門の変で御所の警備を務めた頃から次第に官軍側に与するようになり、慶応4年(1868年)1月には西園寺公望を通じていち早く新政府側に帰順しました。その後、隆備は版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により綾部藩は廃藩となります。その後、綾部県を経て、京都府に編入されることとなりました。

 ちなみに隆備も父に劣らず有能で、藩校・進徳館を篤信館と改名し、その翌年には藩内6ヶ所に郷学校を設立して、庶民教育に尽力しました。これは後に、明治政府による近代化教育の先駆けとなったのであります。

山家藩(やまがはん)

 山家藩は、丹波国何鹿郡(いかるがぐん)山家周辺を領有した藩。藩庁は山家陣屋(京都府綾部市広瀬町)。藩主の谷家は公家の園家を通して皇室との縁が深く、現皇室にも谷家の血が入っています。

 藩祖・谷衛友は織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将(大名)で、丹波国山家にて1万6000石を領しました。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、衛友は西軍に属して小野木重勝らと行動を共にし、東軍に与した細川藤孝(幽斎)の丹後国田辺城を包囲します。しかし、西軍に属したのは本意でなかったため、内々に歌道の師匠でもあった藤孝に通じており、そのため、戦後は徳川家康から所領を安堵されています。

 山家藩は、明治時代まで谷氏13代の支配が続いた。2代衛政の代に、弟の衛冬に1,500石(梅迫谷家)、甥の衛之に2,500石(上杉谷家)・衛清に2,000石(十倉谷家)を旗本として分知したため、以後、藩の石高は1万石となりました。  明治維新においては、いち早く新政府方に恭順を示しました。明治4年(1871年)、廃藩置県により山家県となり、京都府に編入された。明治17年(1887年)藩主家は子爵となり華族に列しました。

福知山藩(ふくちやまはん)

 福知山藩は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)に存在した藩。居城は福知山城。

 戦国時代の天正7年(1579年)、織田信長の家臣であった明智光秀に丹波一国が与えられ、光秀は一族の明智秀満にこの地を任せました。天正10年(1582年)に光秀が信長に対して謀反を起こしたとき、秀満はその挙兵に賛成し、信長を本能寺に討った後は安土城を占領しましたが、光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れると、秀満は安土城を放棄して有名な「湖水渡り」を行なって近江坂本城にいる光秀の妻子を刺し殺して自分も自殺しました。その後、丹波は秀吉の支配下となり、福知山には杉原家次、小野木重次(公郷)らが入る。重次は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方し、丹後田辺城(舞鶴城)の城攻戦総大将となるが、本戦で西軍が壊滅すると東軍の細川忠興の追討を受けて自害しました。

 同年末、関ヶ原で東軍に与した有馬豊氏は、本戦で後ろ揃えを務めた武功から、遠州横須賀藩3万石から福知山6万石に加増移封され、ここに福知山藩が立藩しました。慶長7年(1602年)に豊氏の父であった有馬則頼が死去すると、豊氏は父が摂津国三田藩に領していた2万石も相続することとなり、合計8万石の太守となりました。その後、大坂の陣においても徳川方として武功を挙げたため、元和6年(1620年)閏12月に20万石に加増の上で筑後久留米藩に移封された。その後は伏見奉行・小堀政一がしばらくは統治を行います。

 元和7年(1621年)8月、丹波亀山藩から岡部長盛が5万石で入るが、寛永元年(1624年)9月に美濃大垣藩に移される。代わって摂津国中島藩から稲葉紀通が4万5700石で入るが、慶安元年(1648年)8月に改易となりました。その後、半年ほどは天領となったが、慶安2年(1649年)2月28日に三河刈谷藩から松平忠房が4万5900石で入る。しかし寛文9年(1669年)6月8日には肥前島原藩に7万石で加増移封となりました。代わって、常陸国土浦藩から朽木稙昌が3万2000石で入り、以後、朽木氏13代の支配で藩政は安定化しました。

 明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で福知山藩は廃藩となり、福知山県となります。同年10月2日、豊岡県となり、明治9年(1876年)8月21日には京都府に編入されることとなったのであります。

篠山藩(ささやまはん)(八上藩)

 前田茂勝は、織田信忠(織田信長の嫡男)に仕え、豊臣氏のもとでは五奉行を務めたことで有名な前田玄以の子であります。茂勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に属して丹後国田辺城攻撃に参加し、細川幽斎(藤孝)に降伏を勧める使者を務めた。戦後、父の玄以が石田三成の挙兵を内通していたこと、幽斎を助けたことなどを考慮されて、茂勝は慶長7年(1602年)に丹波亀山藩の所領から八上に移封されることで存続を許されました。所領は5万石でした。

 茂勝は江戸城普請役などを務めたが、次第に酒色に溺れて藩政に関心を示さなくなります。これにはかつて茂勝はキリシタン(洗礼名コンスタンチ)であったが、父の玄以に強制されて棄教を余儀なくされたことが一因しているとも言われています。しかしそれが慶長13年(1608年)には遂に茂勝の発狂というとんでもない事態が起こったのであります。茂勝は自分を何かと諌める忠臣・尾池清左衛門とその子息を殺害し、さらに連座というわけのわからない罪を着せて渡辺大膳、畑平太夫を切腹させてしまったのであります。尾池は徳川家康と知己があったため、家康は茂勝の行為に激怒し、直ちに茂勝を発狂したという理由のもとに捕らえて前田氏を改易とし、茂勝の身柄を京都所司代の板倉勝重、次いで出雲国松江藩主で茂勝の姉婿に当たる堀尾忠晴に預けましました。茂勝は後に隠岐国に流され、そこで死去しました。

 前田氏改易後は、松平康重が常陸国笠間藩より入りました。この康重は松井松平氏の出身者だが、徳川家康の庶子説もあります。康重は慶長14年(1609年)12月、篠山藩に移封となったため、ここに八上藩は廃藩となったのであります。

 篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県篠山市北新町城内)に存在した藩。

 慶長14年(1609年)、山陰道の要衝である篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとする理由から、近畿や中四国における15カ国20大名の賦役により篠山城が築城され、同年末に松平康重が八上藩より5万石で移封されたことから、篠山藩が立藩しました。康重は元和5年(1619年)7月19日に和泉国岸和田藩に移され、代わって上野国高崎藩より松平信吉(徳川家康の異母妹の子)が5万石で入りましたが、信吉は翌年8月1日に死去し、後を継いだ松平忠国は慶安2年(1649年)7月4日に播磨明石藩へ移された。代わって摂津高槻藩より松平康信が5万石で入ります。康信の後は松平典信、松平信利と続いたが、前者は在位3年、後者は在位4年という短命な藩主でした。そして松平信庸、松平信岑と続き、信岑の時代である寛延元年(1748年)8月3日、丹波亀山藩に移され、入れ替わりで青山忠朝が5万石で入りました。その後、藩主家は青山氏として明治時代まで続き、第6代藩主・青山忠敏は明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により篠山藩は廃藩となりました。その後、篠山藩は篠山県を経て同年11月2日に豊岡県、明治9年(1876年)8月21日には兵庫県に編入されたのでした。

丹波柏原藩(たんばかいばらはん)

 丹波柏原藩は、丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)に存在した藩。藩庁は柏原陣屋に置かれた。

 織田信長の弟・織田信包は慶長3年(1598年)6月、伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封されました。これが柏原藩の立藩です。信包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与しましたが、戦後は改易されずに済み、大坂城で豊臣秀頼に仕えました。慶長19年(1614年)、信包は大坂冬の陣直前に死去しました。その後、信包の孫で第3代藩主・織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められましたが、信勝は慶安3年(1650年)5月17日に嗣子無くして死去してしまい、ここに柏原藩は廃藩となり、その所領は天領となりました。

 元禄8年(1695年)4月14日、信長の次男・織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことにより、柏原藩が立藩されました。これは大和宇陀藩2万9000石の藩主であった信休の父・織田信武が元禄7年(1694年)に発狂して家臣の田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという宇陀騒動を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったのであります。信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに務めたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9年(1696年)には年貢軽減を求める愁訴が起こりました。その後も柏原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩内では要人をはじめとする61人のリストラ、藩士の俸禄削減、藩札の発行などの諸改革を断行したが効果は無く、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こりました。

 第5代藩主・織田信守はこのような中で奢侈に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨みました。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位をめぐっての争い(秘命騒動)や保野騒動が起こり、藩政は大いに乱れることとなりました。第6代藩主・織田信古の時代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4年(1833年)には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生しました。このような中で第8代藩主となった織田信敬は、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行します。そして藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立しました。第9代藩主・織田信民は信敬の遺志を受け継いで新たに藩校・崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨びました。

 幕末期、信民とその後を継いだ織田信親は、尊王攘夷運動を目指して行動します。このため早くから官軍側に与し、明治2年(1869年)の版籍奉還で信親は藩知事となります。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により柏原藩は廃藩となり、柏原県となりました。

 なお、織田氏の諸藩では、織田信雄の系統は柏原藩の他に天童藩が、織田長益(有楽斎)の系統は柳本藩、芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続しました。有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在しましたが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶しています。

春日局(かすがのつぼね)

 江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号で、本名は斎藤 福(さいとう ふく)。 父は美濃の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる齋藤利三で、母は稲葉一鉄の娘・稲葉あん。稲葉正成の妻で、稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利は実子。養子に堀田正俊。江戸城大奥の礎を築いた人物。松平信綱、柳生宗矩とともに家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられました。

 実家の斎藤家は美濃国の守護代を代々務めた武家の名門でした。春日局は、その当時父の所領のあった丹波国(現・兵庫県および京都府)の黒井城下館(興禅寺)で生まれました。丹波国は明智光秀の所領であり斎藤利三は家臣として丹波国内に光秀から領地を与えられていました。

 その後父・斎藤利三は主君の光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討ちました。しかし、羽柴秀吉に山崎の合戦で敗戦すると帰城、利三は坂本城下の近江堅田で捕らえられて処刑されており、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられています。

 福は女であることから追われることはなく、母方の親戚に当たる三条西公国に養育されました。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができました。その後、伯父稲葉重通の養女となり、稲葉一鉄の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となります。稲葉正成は、関ヶ原の戦いにおいて、主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家を勝利に導いた功労者です。のちに、将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604年)に2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(家光)の乳母に正式に任命されます。選考にあたり、福の家柄および公家の教養と、夫正成の戦功が評価されたといわれています。

 家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』によれば、秀忠夫妻が竹千代の実弟・国松(松平忠長)を溺愛している様子を憂慮し、自害しようとした家光を諌め、元和元年、駿府にいた大御所の徳川家康に竹千代の世継を確定させるように直訴したとされます。この直訴はその時は失敗し、後に家康が江戸城を訪れたときにその江与の溺愛ぶりを見て考え直した、という説もあります。

 一方でまた、大奥の総取締に任ぜられて、奥向きの公務を取り仕切るようになり、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握ります。寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図ります。しかし武家である齋藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(春日局は三条西公条の玄孫になる)、また育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしましたが、既に他界していたため、やむをえずその息子三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家の娘として参内する資格を得、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、また従三位の位と「春日局」の称号、および天杯をも賜ります。後に官位は従二位にまで昇叙しました。

 お江与の死後は家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万の方や、お楽の方、お夏の方などの女性たちを次々と奥入りさせました。

寛永20年(1643年)9月に死去、享年64。
辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」

異説

  • 将軍家の乳母に登用された経緯には、京都所司代板倉勝重が一般公募した話などが伝えられる。あるいは、秀忠の正室お江与の侍女である民部卿局の仲介で乳母となったともされる。また、家康の手が付いていたという見方もある。乳母に過ぎない身分の者[3]が将軍世継ぎ問題で家康に直訴したとしても、通常家康が会うとは考えにくいとして、お福がかつて愛妾の一人であったとする説もあるが、定かではない。映画「女帝 春日局」(1990年)はこの異説で描かれている。また近年、春日局が家光の生母という説があり、テレビの歴史番組などにも取り上げられている。
  • 大奥では、乳母は黒子のように覆面をして授乳する奇習があった。これは春日局の権勢に懲りた幕閣が、将来の将軍と乳母のつながりが深くなり、後に政治に介入されるのを避けるために考案した風習という説がある。
  • 山崎の戦いの後、義理の叔父である長宗我部元親を頼り、土佐の岡豊城で過ごしたという説がある。
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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