歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

伝説 先史 縄文 弥生 出雲 銅鐸 日槍 古墳 飛鳥 奈良 平安 鎌倉 室町 戦国 近世 近代 現代 地方鉄道写真SITEMAP

近世江戸紫(えどむらさき)#745399最初のページ戻る次へ

村岡藩

目次

  1. 因幡守護〜交代寄合〜村岡藩
  2. 村岡陣屋
  3. 村岡山名氏
  4. 法雲寺(ほううんじ)
  5. 村岡山名家系図
  6. 山陰道鎮撫使・西園寺公望
  7. 池田草庵と青谿書院(せいけいしょいん)
  8. 生野の変(いくののへん)
  9. 北垣 晋太郎(国道)
  10. 原 六郎(はらろくろう)

1.因幡守護〜交代寄合〜村岡藩


近世山名氏が用いた「糸輪に二つ引両」紋
 2009/2/7  関が原の合戦では家康側に付き、その功績により但馬七美郷を領地として安堵され、交代寄合(大身旗本として大名と同等の扱い)として代々の将軍に仕える基礎を築きました。 江戸時代に入り、徳川の世となると、山名豊国は但馬国七美(ひつみ)郷の6500石を安堵され、兎束(うづか)村(福岡)に陣屋を築いて地名を福岡と改めました。知行は1万石に達しませんでしたが、名門の出自により旗本でも別格とされ、後に交代寄合表御礼衆の一つとされました。交替寄り合い衆として幕末まで徳川幕府に十数代に渡り仕えました。家康が征夷大将軍に就任した折に室町幕府の足利義稙から山名氏当主に贈られた羽織を着て参上したという逸話がありますが、これは山名も徳川(得川)も同じく新田の流れをくみ、足利の祖とも、同流れであることを意識してのことかもしれません。名門の出自により旗本でも別格とされ、後に交代寄合表御礼衆の一つとされます。

 変わり身が早かったせいか、豊国に関する後世の評価は芳しくありませんが、豊国は連歌の名手で教養人、かつ名門の出身ということで家康から厚遇され、零落した但馬山名氏の旗本への取立を願うなど山名氏再興に尽力しました。また、自らを追放したかつての家臣たちが流浪しているのを聞き、改めて召抱えたといいます。


武家屋敷 2009/2/7
 初代豊国(とよくに・法名「禅高」)公・二代矩政(のりまさ)公は共に京や江戸で暮らされ七美庄には足を向けられた形跡はなく、藩の行政は国家老が行っておりました。

 しかし、寛永年間(19年・1642年)になり、村岡山名代三代矩豊公が藩地に入部され、初めて大名としての行政を行われました。(寛永19年「参勤交代」の制度化とも関連ありか?) その第一が藩都を現在の村岡の地に移され、村の名前も「黒野村」から「村岡村」へと改められ、新たな城下町造りに励まれました。その時、黒野村にあった寺院が「報恩寺」で、矩豊公は報恩寺を山名氏歴代の菩提寺と定め、鎌倉時代以来の宝牌を納めて名門山名宗家としての祭祀を尽くされました。

2.村岡陣屋


村岡陣屋(御殿山)2009/2/7 雪が残っていて行くことができませんでした。
 平安時代、七美郡は貴族の荘園となりました。但馬国は山名氏の領国となる。室町期に出石・豊岡に居城をかまえ、七美郡は山名の重臣である上野氏が中山城(福岡)、田公(たぎみ)氏が大谷城(小代城)や観音山城(高堂城:村岡)、福西城(村岡)は八木氏が預かりました。

 豊臣秀吉の西国征伐で出石に本拠を置いた但馬山名氏は滅亡し、因幡山名氏の最後の当主、山名豊国(禅高)は家臣の反対を押し切り、秀吉の前に屈して、秀吉から因幡にわずかの所領を与えられ、御伽衆(おとぎしゅう)[*1]として迎えられ、辛うじて山名の名を残すことが出来ました。

 村岡藩は慶応4(1868)年6月20日になって、太政官から高直しによる新田4千3百石の加増を認められ、石高は1万1千石となりました。

 これにより、村岡藩(むらおかはん)として新規立藩が許可されたのです。  明治2(1869)年6月23日、山名義済は藩籍を奉還し、村岡藩知事に任命されています。

3.村岡山名氏

  • 山名豊定(やまな とよさだ)

     永正9年(1512年)、山名致豊の子として生まれる。
    但馬の守護大名・戦国大名。 大永8年(1528年)、叔父で但馬守護であった山名誠豊が死去すると、その養子となって家督と但馬守護職を継承した兄・山名祐豊の命令で因幡に入って因幡守護となり、因幡守護となっていた山名誠通を抑えて鳥取城・岩井城を中心にして領国支配を務めた。

  • 山名豊国(やまな とよくに)

    天文17年(1548年)〜1626年11月25日(寛永3年10月7日)
    豊定の子。因幡国岩井城主となる。秀吉を通じて信長に降伏したため、秀吉の家臣となりました。御伽衆として迎えられた。秀吉没後はそのまま秀頼に仕えている。
    1560年に兄豊数が居城鳥取城を家臣武田高信によって失い没落すると、奪還戦を起こす。1571年但馬阿勢井において高信を撃破、1572年には山中鹿之介と結んで再度高信を破り、翌年遂に鳥取城を回復して因幡山名氏を継ぐ。
     その後、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣している。秀吉没後は徳川家康に属し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に属して従軍している。慶長6年(1601年)に但馬国内で6700石の所領を与えられ、山名氏は江戸時代を通じて交代寄合として存続することとなりました。
     名門山名氏の出身者だけあって、有職故実や和歌・連歌・茶湯・将棋などの文化面には精通していた。そのため、儀礼的なことに関しては秀吉・家康から大いに重用されている。

  • 山名堯熈(やまな あきひろ)

    祐豊の次男。但馬山名氏一族。 隠居した父の後見の元で政治を行うが、1575年に一度降伏した織田家から離反し毛利家についた為に、1580年に中国地方攻略を目指す羽柴軍に居城の但馬国出石城を攻められ、降伏した。出石城落城後は秀吉に登用され、秀吉・秀頼の豊臣氏二代に仕える。

    山名堯政(やまな あきまさ)
     堯熙の子。豊臣氏に仕える。後に家康に登用を請うも許されず、大阪夏の陣で戦死。

  • 山名堯政:堯熙の子。豊臣氏に仕える。後に家康に登用を請うも許されず、大阪夏の陣で戦死。

    1. 清水恒豊:堯政の子。父戦死時はわずか8歳。京都六条に潜居するも、旧臣清水正親及び因幡山名氏の尽力により、正親の養子として幕臣に列することを許される。。延宝7年(1679)5月16日死去。
    2. 山名時信:熙豊の嫡子。山名氏に複姓する。
    3. 清水豊頼:恒豊の次男。元禄15年1月14日死去。
    4. 清水豊永:豊頼の嫡子。宝永元年8月21日死去。
    5. 清水豊重:豊永の養子、実父は酒井重賢、母は豊頼の養女。享保8年5月10日死去。
    6. 清水豊春:豊重の嫡子。寛政6年6月21日死去。
    7. 清水豊信:豊春の嫡子。
    8. 清水豊道:豊信の嫡子。
      旗本分家一
    1. 清水熙豊:恒豊の長男。
    2. 山名時信:熙豊の嫡子。山名氏に複姓する。
    3. 山名時尚:時信の弟。次男服部保教(服部保昌の養子)、三男清水時庸(清水豊秋の養子)。
    4. 山名時連:時尚の嫡子。
    5. 山名時睦:時連の養子、実父は清水豊秋。
    6. 山名時習:時睦の嫡子。子に時方、時勝、時守あり。
      旗本分家二
    1. 清水賀豊:恒豊の三男。
    2. 清水豊秋:賀豊の養子、実父は前田定能。
    3. 清水時庸:豊秋の養子、実父は山名時尚。
    4. 清水時良:時庸の嫡子。
    5. 清水時親:時良の嫡子。
    6. 清水時柯:時親の子。 のちに清水氏から山名氏に復姓する。
      旗本分家三
    1. 山名豊常:豊頼の次男。山名氏に復姓する。
    2. 山名豊明:豊常の養子、実父は前田定勝。
    3. 山名豊実:豊明の嫡孫。父豊全は家督を継がずして死去。
    4. 山名如風:豊実の養子、実父は清水豊春。

      清水姓は、山名家旧臣清水正親の養子となり名乗った姓であり、徳川御三卿の清水家とは無関係。

  • 4.村岡山名家系図

    清和天皇
     :(5代隔)
    源義家
     ┃
    源義国
     ┃
    源義重(新田氏の祖 新田義重)
     ┃
    義範(山名氏の祖)
     ・            
    持豊(宗全)                
     ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓ 
    教豊 勝豊 是豊 政豊 時豊 豊久
     ┝━━━┓    ┃  
    政豊   豊保   頼忠
     ┣━━━┳━━━┓  
    致豊   俊豊  誠豊 
     ┣━━━┓   │
    豊定   祐豊  祐豊
     ┣━━━┓   
    豊国   
     ┣
    豊政   
     ┃  
    矩豊
     | 
    隆豊豊就豊暄義徳義方義蕃義問義済義路義鶴
    

    1. 初代山名豊国 秀吉を通じて信長に降伏したため、秀吉の家臣となった。その後、豊国は秀吉から因幡にわずかの所領を与えられ、御伽衆として迎えられた。
    2. 2代山名豊政 交代寄合 山名豊国の子。下総国葛飾郡にて千石を賜りました。元和3年(1617年)に家督を継ぎ、但馬国福岡領主となりました。先に賜ったの下総国葛飾郡千石は弟の豊義に譲りました。寛永5年(1628年)、若干9歳の子の山名矩豊に家督を譲り隠居し、寛永7年に没しました。

    3. 3代山名矩豊 交代寄合。初めて大名としての行政を行われました。寛永19年(1642年)3月、陣屋が福岡から領地の中心地、但馬国黒野村に移され、同地を村岡と改名した。空山→蘇武岳、小屋川→混陽川そして、同年4月初めて国入りする。黒野にあった報恩寺を山名氏の菩提寺と定め、父の法名の「法雲」寺と寺名を改名し、法華経の熱心な信者であった為、臨済宗から日蓮宗へ宗派も変更した。(その後、天台宗に改宗)。男子に恵まれず福島正長の次男主税を養子に迎え、山名隆豊と名乗らせ嫡男とした。
    4. 4代山名隆豊 子女なく、元禄14年(1701年)、分家の山名光豊の三男の山名豊就を養子とした。
    5. 5代山名豊就 宝永元年(1704年)、隆豊が隠居し家督を継ぐ。大番頭より、元文4年(1739年)3月15日、寺社奉行に就任し、没するまでその任にあたる。
    6. 6代山名豊暄 立花貞俶の八男の貞俊を婿養子とし、義徳と名乗らせ家督を継がせた(翌年5月入部)。
    7. 7代山名義徳 明和2年(1765年)4月、豊暄の婿養子となり義徳と改名し、家督を継ぐ。
    8. 8代山名義方 文化3年(1806年)陣屋を尾白山に移し御殿山とよぶ。中腹に陣屋を築き、大手門、中門、長屋、鎮守社,煙硝蔵、練兵場を設けるなど家格にふさわしい体裁を整えました。男子が早世している為、越前国鯖江藩主間部詮茂の四男間部詮量を娘の整の婿養子とし、義蕃(よしあきら)と名乗らせ、文政4年(1821年)に家督を譲る。
    9. 9代山名義蕃は、天保7年2月21日(1836年4月6日)−明治4年2月20日(1871年4月9日) 父は山名義問。官位は従五位下。因幡守。
    10. 10代代義問は、村岡は山がちで耕地が少ない土地だったため、歴代領主は鉱山の開発や子牛市の開催など産業の振興につとめました。但馬牛の産地として知られています。特に、第10代義問はは新田の開発や教育の振興に力を尽くした名君といわれています。
    11. 11代山名義済は、父の隠居により幕末期の動乱の中で、義済は早くから尊王論者として官軍側に協力していたため、1868年6月20日、かねてから請願していた新田4千300石の加増を認められ、維新立藩(新規取立て)が認められて所領を1万1000石の高直しを明治政府に認められ、新たに但馬村岡藩を立藩した。1870年6月23日に但馬村岡藩の初代藩主となるが、翌年2月11日、版籍奉還で村岡県となり、同年7月、廃藩置県によって免官されて8月に東京へ移った。長男の山名義路に家督を譲って隠居した。
    12. 12代、義路は、但馬村岡藩の第2代(最後)の藩主。明治4年(1871年)2月11日、父の隠居で12歳で家督を相続し、後に陸軍少佐となりました。1871年の廃藩置県で豊岡県に編入され、12代山名義路の代に廃藩となりました。明治17年(1884年)、山名氏は華族制度の発足に伴って華族として男爵に叙された。後に貴族院議員にも選出されています。

    13. 13代義鶴 明治24年(1891年)- 昭和42年(1967年)2月26日)は、大正・昭和の社会運動家。男爵。但馬村岡藩藩知事山名義路の子。東京帝国大学卒業後、1922年大阪労働学校創立に参加し、その講師となる。1926年総同盟第2次分裂により、日本労農党創立に参加する。1928年日本大衆党中央委員となり、1932年全国労農大衆党に参画するも、国家社会主義を支持したため、同年離党した。その後日本国家社会党に入党し、1946年貴族院議員となった。

      [*1]…御伽衆(おとぎしゅう)*1…戦国時代は参謀としての面が強かったため、僧侶や隠居して第一線から退いた重臣、没落した大名、武将が僧形となり務めることが多かった。戦乱の世が治まってからは、主君の無聊を慰める役割も重視され、豊臣秀吉の頃には、勃興した新勢力である町人らも召し出され新たな文化の担い手となりました。

    [山名氏系図]

    法雲寺(ほううんじ)


    兵庫県美方郡香美町村岡区村岡2365
     法雲寺 (香美町)は、兵庫県美方郡香美町村岡区にある天台宗の寺院。本尊は釈迦牟尼如来。 山名豊国(禅高)を始まりとする村岡山名氏(村岡藩)の菩提寺。江戸時代以前の法雲寺に関する記録は無く、不詳ではあるが数々の資料等により下記の歴史沿革が考えられている。

     現在の香美町村岡区周辺は南北朝の昔より七美(ひつみ)の庄と呼ばれており、庄内のほとんどは京都花園・妙心寺(臨済宗)第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の荘園でした。宗弼は俗名を藤原藤房といい、永和元年(1375年)、齢・八十歳の時に七美庄に自ら発願され「報恩寺」(ほうおんじ)を建立し、父母(父・藤原宣房)や先祖の菩提を供養すると共に、荘園の政所として、土地の管理に当らせていました。


    法雲寺参道
     江戸時代、因幡山名の嫡流・山名豊国(禅高)公は徳川幕府より七美庄一帯六千七百石を与えられ、村岡山名藩の初代となったが、初代豊国(とよくに)公・二代矩政(のりまさ)公は共に京や江戸で暮し、七美庄には足を向けられた形跡はなく、村岡藩の行政は国家老が行っていた。元禄19年(1642年)村岡山名代三代矩豊公が藩地に入部され、初めて大名としての行政を行い、その第一が藩都を兎塚(香美町福岡)から村岡の地に移され、村の名前も「黒野村」から「村岡村」へと改め、新たな城下町造りを行った。その時、黒野村にあった寺院が「報恩寺」で、矩豊公は報恩寺を山名氏歴代の菩提寺と定め、鎌倉時代以来の宝牌を納めて名門山名宗家としての祭祀を尽した。矩豊公は「報恩寺」(ほうおんじ)と言う寺の名に、公の父二代・矩政公の法名「法雲」(ほううん)をあてはめ、寺号を「法雲寺」の文字に変え、併せて公自身が熱心な法華経信仰者で有ったため宗派を臨済宗から日蓮宗に変更された。当時徳川将軍家は「天台宗」と「浄土宗」を信仰されており、矩豊公は御伽衆(おとぎしゅう)と言う将軍に近しい役職上からの判断も有ってか、その後「日蓮宗」から「天台宗」へと宗派を再び変更され、現在に至る。

    4.坪谷御廟(つぼだにごびょう

    香美町村岡区村岡

     村岡山名藩3代・山名矩豊公から10代までの藩主が祀られている墓所。壺溪御廟とも書く。 田舎の六千石余の小藩ながら、山名家の家名に相応しい大名墓が整然と並ぶ。 御廟内には山名四天王と言われた、「太田垣」「八木」「垣屋」「田結庄」の墓が君主を護るように取り囲んでいる。

    5.山陰道鎮撫使・西園寺公望

    西園寺 公望(さいおんじ きんもち、1849年12月7日(嘉永2年10月23日) - 1940年(昭和15年)11月24日)は日本の公家、政治家。清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。両家は藤原公季を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統である。ただし遺伝的には彼は天皇家の男系子孫であり、東山天皇6世孫であるとされている。実父は右大臣徳大寺公純、実兄は3度にわたって侍従長となり、内大臣もつとめた徳大寺実則。すぐ下の弟の隆麿は住友家の入り婿となり、住友財閥を継いで第15代住友吉左衛門(友純)を襲名し、長く財界に君臨した。そして末弟には、財団法人立命館理事として活躍した末弘威麿がいた。 幼少時には、住まいが御所に近く、年齢も近かったことから、祐宮(のちの明治天皇)の遊び相手として度々召された。

     立憲政友会第2代総裁。第12・14代内閣総理大臣。贈従一位、大勲位、菊花章頸飾、公爵。本姓は藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。

     西園寺には、岩倉具視や三条実美のような幕末期における政治的功績はほとんど皆無であった。ただ鳥羽・伏見の戦いがはじまると、朝廷ではこれを徳川家と島津家の私闘と見なす意見が出るなかにあって、積極的な関与・主戦論を主張し岩倉ら倒幕派公卿に注目された。

  • 慶応4年(1868年)1月4日、若干17歳の西園寺公望は、明治政府山陰道鎮撫総督を兼帯。
  • 1月12日、態度の曖昧な松江・浜田両藩の真意を吟味するため薩摩・長州兵と鳥取藩士が加わった軍を率い、京都を出発した。北垣もこれに従軍します。
  • 慶応4年(1868)1月12日、山陰道鎭撫使を田辺(舞鶴)に入り、田辺藩に帰順を決し誓書を提出しました。
  • 慶応4年宮津旧三上家住宅に宿泊。
  • 豊岡藩 山陰道鎮撫使に属して生野に出兵。
  • 1月29日、西園寺公望一行が村岡に来村、川水が増水し、一行は2月2日まで逗留。鎮撫使の求めに応じて帰順の誓紙を提出し、入京して恭順、御所の守護に参加した。  29日、西園寺公望一行が村岡に到着。村岡藩は薩摩藩を通じて、代官を追放した後の但馬の生野警衛や、播州や摂津・兵庫出兵をしばしば命ぜられました。

    松江藩の軍艦二番八雲丸が、汽関の故障で宮津港に寄港した。当時、村岡(兵庫県)に滞在していた鎮撫使は、これを松江藩の挑戦と受けとめた。

  • 鳥取藩に入る。
  • 2月28日、鎮撫使一行440人は、傲然と松江城下に入ってきた。
  • 閏4月5日、政府但馬府中裁判所総督から政府山陰道裁判所総督及び東山道第二軍総督に異動兼帯。
  • 閏4月5日、政府但馬府中裁判所総督から政府山陰道裁判所総督及び東山道第二軍総督に異動兼帯。
  • 閏4月21日、政府参与を辞す。
  • 閏4月23日、政府山陰道裁判所総督兼東山道第二軍総督より政府北国鎮撫使に異動兼帯。
  • 閏4月24日、軍人として三等陸軍将に補す。
  • 6月14日、政府北国鎮撫使から政府会津征討越後口参謀に異動。
  • 6月20日、越後口大参謀に異動。
  • 改元して明治元年10月20日、政府新潟府知事に異動。  
  • 4月19日、政府但馬府中裁判所総督兼帯。
  • 明治2年(1869年)に京都御所内の私邸に開設した家塾。
  • 明治3年(1870年)12月3日、官費によりフランス留学のため、横浜より出航。ソルボンヌ大学で学ぶ。

    以降省略

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    ▲ページTOPへ

  • 近世江戸紫(えどむらさき)#745399 最初のページ戻る次へ
    Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reserved. E-mail
    inserted by FC2 system