歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

伝説 先史 縄文 弥生 出雲 銅鐸 日槍 古墳 飛鳥 奈良 平安 鎌倉 室町 戦国 近世 近代 現代 地方鉄道写真SITEMAP

近世江戸紫(えどむらさき)#745399最初のページ戻る次へ

豊岡藩

目次

  1. 概要
  2. 豊岡藩

豊岡藩

神武山
神武山(じんむさん)。市街地の中央にある丘
   江戸時代に入ると、出石藩から豊岡藩として分けられ、但馬国城崎郡周辺を領有した豊岡藩が誕生しました。

 慶長二年(1597)、宮部継潤ののち杉原長房が豊岡城2万石の領主となりました。
 寛文8年(1668年)丹後国田辺(舞鶴)藩より、京極高盛が3万5千石にて転封となり、再度豊岡藩が置かれるが、城は使用されず神武山の麓に陣屋が建築されています。この際、京極氏は城主大名から無城大名に降格となり、陣屋の建設にあたり、幕府より金2千両が与えられました。  一国一城令により但馬国には出石城が残され、もはや豊岡城は杉原氏のころに廃城となっており、無実化していた。徳川幕府にあって藩政を行うのに軍事的な城の役割は全国的に終わりを迎えていたのです。

 4代高寛は享保11年(1726年)僅か10歳で没し、このため6歳の弟高永が1万5千石に減封の上、家名相続を許されました。減封に伴い藩士を大幅に除籍し、また残った藩士の禄も削減しました。

 享保12年(1727年)には江戸藩邸が全焼する不幸にも見舞われ、高永は藩政を立て直すべく、勝手方に倉持左膳を起用し藩政改革に当たらせました。彼の政策に反対した筆頭家老石束源五兵衛が藩を去るという事件が起きました。

 次の6代藩主高品の代になっても藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次ぎました。

 7代高有は文政6年(1823年)、藩営の産物会所を開設し柳行李(やなぎごおり)流通の独占を図り財政の再建に努めました。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭っています。

 8代高行は天保4年(1833年)藩校「稽古堂」を開いた。今の豊岡小学校。

 太平の世となり、人と物の流れが活発になる中で、城下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれました。藩財政をはじめ倹約が徹底されたリサイクル社会であったとされています。

 但馬は北回船による日本海航路の拠点として古くから竹野や津居山の港があり、東に久美浜は幕府の重要な港として直轄領として栄えた。豊岡藩は日本海にも近く、幕末には外国船警備のために気比・瀬戸にも台場(砲台)が造られました。

大石りく 但馬国豊岡藩京極家の家老石束源五兵衛毎公の長女として誕生。忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄の妻。理玖とも書く。

豊岡城

■沿 革
 豊岡城は、豊岡市の中世・近世における歴史的原点。
 伝承では、15世紀ごろ、九日市に守護所を置く但馬守護山名持豊(宗全)がこの山に築城、出石此隅山(こぬすみやま)城の出城として、神武山に木崎城(きのさき:城崎城)が建築され、山名四天王の重臣 垣屋氏に守らせました。山容から亀城・亀山、城の所在から城山とも呼ばれています。これに対して田結庄氏の愛宕山城は鶴城と呼ばれました。

 戦国末期、垣屋氏が事実上の但馬國の実力者となるに及び、この城は但馬支配の中心拠点となりました。
 神武山(標高49m)の名は、明治五年(1873)の「皇祖遥排所」設置によります。皇祖とは、天照大神や神武天皇のことですが、この遙拝所を、いつとはなしに、神武天皇を拝む「神武山」というようになったといわれています。今も神武山ふもとの豊岡簡易裁判所裏には石垣らしい石がそのまま散見できます。

 1580年(天正8)の羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国山名氏が滅ぶと、宮部善祥房継潤の支配となりました。宮部氏は、豊岡へ入ると、木崎城(城崎城)を豊岡城と改め、城を改築しました。宮部善祥房以来、数代の大名が十年余りかかって築いたといわれていますが、天守閣などの建物があったかどうかは、はっきりしません。各地から商人やお寺などを呼び寄せて城下町を造り、町内の土地の税金を納めなくてよいことにして、町を発展させました。このとき、城下町も整備され、豊岡の町の基礎ができあがりました。

のち、宮部継潤は、他の但馬の毛利方を攻め、因幡の主城である鳥取城攻めに向かいます。鳥取城代になったとき、豊岡城に杉原長房が入城した。豊岡城2万石の初代領主となりました。

 杉原長房は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて西軍に属した。しかし、妻が浅野長政の娘であったため、長政の取り成しで旧領を安堵されました。

 慶長16年(1611年)には長政の遺領のうち、常陸国内の5千石を加増されました。 2代重長は藩政の確立に努め、正保元年(1644年)没した。重長には嗣子が無かったため、甥の重玄に正保2年(1645年)末期養子が認められたが1万石に減封されました。しかし、重玄も承応2年(1653年)17歳で嗣子無く没したため、改易となり一時豊岡城は廃城となり天領となりました。


宮部継潤(けいじゅん)
享禄元年(1528年)?〜慶長4年3月25日(1599年4月20日)
 通称は善祥坊。近江国浅井郡宮部村の小豪族の出自。
 秀吉の与力につけられて中国遠征などに従い、1580年頃には、山名氏討伐後に但馬豊岡二万石を有している。鳥取城攻めでは吉川元春の援軍を撃退し続けるという最も困難かつ重要な任務をこなした。
 天正10年(1582年)に戦功が認められ、因幡鳥取城の城代となりました。また、本能寺の変時、鳥取城は毛利家に攻撃される可能性が最も高い拠点であったが(山陽側は高松城の水攻めの影響で攻めることが不可能だった)、その拠点を任され続けたことから秀吉の信頼の厚さがうかがえる。

 本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると正式に鳥取城主となり、5万石を領した。九州征伐にも参戦し、日向国高城にて島津家久軍を撃退しています。天正18年(1590年)の小田原の役にも参陣。文禄2年(1593年)には、大友義統が改易された、豊後国の検地を山口宗弘と共に担当、また同年因幡国巨濃郡蒲生郷荒井村に因幡銀山を開き、秀吉から銀山経営を任されています。文禄3年(1594年)には伏見城の普請にも参加。慶長元年(1596年)、高齢を理由に子の長房に家督を譲って隠居した。秀吉からの信任は厚く、晩年は秀吉の御伽衆として、秀吉の相談相手を務めたと言われている。

羽柴秀長
 通称小一郎。別名:大和大納言。秀吉が信長の命令で中国方面総司令官となると但馬平定の指揮を委ねられます。黒田孝高(官兵衛)宛の秀吉直筆の手紙に信頼の代名詞として小一郎の名を出すなど、秀吉陣営の最重要の人物に成長する(黒田侯爵家文書)。

 天正5年(1577年)に但馬竹田城が斎村政広(赤松)によって落城すると、秀長が豊岡城代に任命されます。
 天正8年(1580年) 秀吉軍が但馬出石城を落城させ、これにより但馬平定が完了する。秀長は出石城主となり、また但馬7郡10万5000石を治める大名となる(これは秀吉の領主代役ではなく、秀長個人の戦功である)。また領地内にある生野銀山の管理にも携わっていた。


杉原氏

 慶長二年(1597)、宮部継潤ののち杉原長房が豊岡城2万石の領主となりました。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて西軍に属していました。しかし、妻が浅野長政の娘であったため、長政の取り成しで旧領を安堵されました。慶長16年(1611年)には長政の遺領のうち、常陸国内の5千石を加増されました。

 2代重長は藩政の確立に努め、正保元年(1644年)没した。重長には嗣子が無かったため、甥の重玄に正保2年(1645年)末期、養子が認められたが1万石に減封されました。しかし、重玄も承応2年(1653年)17歳で嗣子無く没したため、改易となり一時天領となりました。

 承応二年(1653)、杉原家断絶により城は破却されたと見られるが、本丸・萩の丸・笠の丸の他、天守台などの遺構が残されました。(現在は神武山公園として整備されている)

*1…藩翰譜(はんかんふ)は、江戸時代の家伝・系譜書。著者は儒者の新井白石。全12巻。元禄15年(1702)成立。元禄13年、甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したという諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけたもの。短時日に完成されたもので事実の誤呈があり,白石自身のちに補訂を加えた。写本で伝来したので巻次の差異や異本が多い。
杉原 家次

 杉原 家次 (すぎはら いえつぐ)は、戦国時代の武将。羽柴秀吉の家臣。

 羽柴秀吉の正室・寧々(高台院)の叔父に当たる。その縁のため、早くから秀吉の家老として仕えた。
 通称は弥兵衛。天正十年(1582年)の山崎の戦い後、秀吉から丹波国福知山城主に任じられました。翌年の賤ヶ岳の戦い後には3万2000石の知行を与えられ、さらに京都所司代にも任じられました。

杉原 長房(すぎはら ながふさ)

 1574年(天正2年)〜1629年2月26日(寛永6年2月4日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。杉原家次の子。官位は従五位下。伯耆守。
 1584年、家督を継いで羽柴秀吉に仕えた。1592年からの朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣する。1596年、秀吉の命により近江国坂本から豊後国2002.4.29-2009に、1598年には2002.4.29-2009から但馬国豊岡に移されました。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に与して細川藤孝が守る丹後田辺城を攻めたが、妻が浅野長政の娘であり、高台院こと北政所の従兄弟にも当たるという縁戚関係から戦後は所領を安堵され、ここに但馬豊岡藩が立藩した。
1584年9月9日死去。享年55。

杉原重長

 元和2年(1616年)- 寛永21年10月28日(1644年11月27日))は、但馬豊岡藩の第2代藩主。父は初代藩主・杉原長房(重長は長男)。母は浅野長政の娘。正室は小出吉親の娘。継室は織田高長の娘。官位は従五位下、伯耆守。

 重長には娘が一人いるだけで、男児がいなかったため、父の長房の外孫に当たる杉原重玄(竹中重常の三男)を養嗣子に迎え、彼に自分の一人娘を娶わせることで後を継がせようとしたが、この末期養子は認められず、重長の死後、豊岡藩は2万石から1万石に減らされた上で重玄の家督相続が認められました。

1629年2月4日、56歳で死去し、後を杉原重長が継いだ。

杉原 重玄(すぎはら しげはる)

 寛永14年(1637年)〜承応2年10月14日(1653年12月3日))は、但馬国豊岡藩の第3代藩主。初名、重元。父は竹中重常(重玄は三男)。母は杉原長房の娘。正室は杉原重長の娘。官位なし。

 先代藩主・重長が正保元年1644年10月28日に死去した後、所領を1万石に減らされた上で正保2年1645年閏5月26日、末期養子となり家督を継いだ。末期養子が解禁されていなかった時期であったが、長房、重長2代における忠勤が考慮されたため。正保4年江戸城石垣普請助役を勤める。しかし嗣子無くして1653年10月14日に早世する。このため、杉原氏は断絶した。法号:光現院殿円芳秀徹大居士。墓所:東京都港区三田の林泉寺。

杉原義正(杉原家次の弟)が始祖の庶流家が旗本として家名の存続をしています。
三代・重玄に嫡子なく、無子改易となったため、豊岡城は廃城となり、その後天領(1653年〜1668年)となりました。豊岡市日高町水上に杉原旗本領、代官屋敷門が残っている。杉原氏は気多郡内の阿瀬銀山や八代にも所領を持っていました。

京極氏


家紋:四つ目結
 本姓は源氏。家系は宇多源氏の流れを汲む近江源氏 佐々木氏の別家。京極氏の祖佐々木氏は鎌倉時代以前より近江にあり、近江源氏とも称された家系です。
藩庁
豊岡県庁門 旧久美浜県から移設したもの。
豊岡市立図書館になっている。
 鎌倉時代に近江守護に代々任じられていた佐々木氏の当主である信綱は、四人の息子に近江を分けて継がせた。このうち江北にある高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京の京極高辻の館を継いだ四男の氏信を祖とする一族が、後に京極氏と呼ばれる様になりました。なお、この時に江南を継いだ三男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ六角氏の祖となっている。鎌倉時代は江北六郡の地頭であり、始祖の氏信は鎌倉幕府の評定衆を務め、後を継いだ宗綱は、幕府が朝廷に対し天皇の譲位を促した際の使者を務めている。
京極家
豊岡陣屋跡
 足利尊氏に仕えた佐々木道誉(京極高氏)の活躍により室町時代は守護大名、四職の一つとして繁栄した。応仁の乱の後は家督争いや浅井氏の台頭により衰退しますが、京極高次、京極高知兄弟が戦国時代を生き延び、延元3年/暦応元年(1338年)、後醍醐天皇らを吉野に追った足利尊氏が、京で北朝の光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ室町幕府が開かれると、道誉は功績を評され引付頭人、評定衆、政所執事、近江、飛騨、出雲、若狭、上総、摂津の守護を務めることとなりました。
 道誉が亡くなると、家督は三男である高秀が継ぎ、天授5年/康暦元年(1379年)に起こった康暦の政変では、美濃の土岐頼康と共に、管領細川頼之の罷免を求めて近江で兵を挙げ、それを成し遂げます。

 高秀の嫡子である高詮は、父のから継いだ飛騨の守護職に加え、明徳2年(1391年)に山名氏が蜂起した明徳の乱での活躍により出雲と隠岐の守護職も任ぜられる。高詮の代に、京極氏は四職の一つとなり、以後の当主は江北、出雲、隠岐、飛騨を領し、侍所司を務める事となりました。また、高詮の弟である高久は近江の尼子郷を継ぎ、尼子氏の始祖となりました。  持清は、応仁元年(1467年)に足利将軍家の家督相続などから生じた応仁の乱で一万余騎を率いて東軍に属し京で戦います。

 その後、当主の座を得た高清は近江にいましたが、その後継を巡って、次男の高吉を押す高清らと、長男の高広を押す浅井亮政らの間で争いが生じ、高清は亮政らに敗れ追放されます。すぐに高清は亮政と和睦し江北へと戻りますが、これを境に江北の支配権は浅井氏に奪われたと考えられています。ただし、一介の小国人に過ぎなかった浅井氏による江北支配も順調ではなく、なおしばらくは京極氏を名目上の守護と仰ぐ時代が続いていました。しかし、永禄3年(1560年)に浅井賢政の六角氏との断交を機に京極高吉が復権を画策して六角氏と結んで挙兵を企てるが失敗して江北を追われ、京極氏の江北支配は完全に幕を閉じました。

 京極 高吉(きょうごく たかよし、永正5年(1508年) − 天正9年1月25日(1581年2月28日))は戦国時代・安土桃山時代の人物。高佳・高慶と表記される場合もある。長門守。中務少輔。

 京極高清(高秀)の子。妻は浅井久政の娘(京極マリア)。京極高次・京極高知・松の丸殿(武田元明妻、のち豊臣秀吉側室)の父。

 高吉は父の高清に寵愛され、家臣の上坂氏に支持され兄の京極高広と家督を争ったが、浅見氏や浅井氏を始めとする国人達の支持を受けた高広に敗れ、追放された。のち、高広も浅井氏と対立し追放され、下克上に会い国を奪われ、京極氏の衰退は決定的となった。

 追放後の高吉は六角氏の支援の元、高広と争ったが、のち高広と対立した浅井氏に父と共に迎えられ一時返り咲くものの、傀儡であり結局近江を離れることになる。 一時将軍・足利義輝の近臣として仕えたが、1560年に権力奪回を目指して再び近江に戻り六角氏と結んで浅井賢政(後の長政)に対して挙兵するも失敗し、近江における残された支配権を全て失う。

 1565年に義輝が暗殺されると、弟の足利義昭の擁立に尽力する。だが、義昭が織田信長と対立すると高吉自身は隠居し、子の高次を信長の家臣として仕えさせた。 1581年、妻とともに安土城にてグネッキ・ソルディ・オルガンティノからキリスト教徒としての洗礼を受ける。だが、その数日後に突如として他界した。高齢のためということもあったのかもしれないが、突然の死去に、人々は仏罰で没したと噂した。

豊岡京極氏

京極屋敷
京極家屋敷
 三代・杉原重玄に嫡子なく、無子改易となったため、豊岡城は廃城となり、その後天領(1653年〜1668年)となりました。

 寛文8年(1668年)丹後国田辺藩より 高知流(丹後京極家)京極高盛が3万5千石にて豊岡へ転封となり、初代豊岡藩主となりました。1668年5月3日、田辺藩から豊岡藩に移封されます(しかしもともと病弱だったため、1667年から養嗣子に迎えていた弟の京極高住に1674年3月18日、家督を譲って隠居した)。この際、豊岡京極氏は城主大名から無城大名に降格となりました。陣屋の建設にあたり幕府より金2千両が与えられました。

 4代高寛は享保11年(1726年)僅か10歳で没しました。

 高永は但馬豊岡藩の第5代藩主。豊岡藩京極家7代。享保5年(1720年)4月23日、第3代藩主・京極高栄の次男として豊岡で生まれる。兄・高寛が復姓して家督を継いだため、別家の黒田家を継いだ。しかし享保11年(1726年)に兄が早世し、豊岡藩が一時的に改易されます。このとき、祖父の京極高住の尽力もあって、弟の高永が1万5000石に削減された上で家督を継ぐことを許され、このため6歳の弟高永が1万5千石に減封の上、家名相続を許されました。減封に伴い藩士を大幅に除籍し、また残った藩士の禄も削減しました。また、享保12年(1727年)には江戸藩邸が全焼する不幸にも見舞われました。藩政を立て直すべく、勝手方に倉持左膳を起用し藩政改革に当たらせました。彼の政策に反対した筆頭家老石束(いしづか)源五兵衛が藩を去るという事件が起きています。このような失政続きで、宝暦7年(1757年)には強訴も起こっています。

 次の6代藩主高品の代になっても藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次ぎました。

 7代高有は文政6年(1823年)藩営の産物会所を開設し柳行李流通の独占を図り財政の再建に努めました。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭っています。

 8代高行は教育に熱心で、天保4年(1833年)藩校「稽古堂」を開きました(現在の豊岡小学校)。

 第9代京極高厚は最後の藩主です。豊岡藩京極家11代。高行の長男として江戸麹町藩邸で生まれる。弘化4年(1847年)、父の死去により家督を継いで藩主となり、同時に従五位下、飛騨守に叙任。嘉永2年(1849年)、駿府加番となり、嘉永4年(1851年)に大坂加番になりました。

 1843年(天保14年)、豊岡藩は津居山港を異国船から守るため、幕末の海防政策として、数ヶ所に砲台が築かれました。11インチ砲や10貫砲を備えました。瀬戸港台場、瀬戸奥面台場、津居山、瀬戸、気比に築造した台場は「瀬戸台場」と呼称されています。いずれも文久二年(1862)に完成したようです。嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリーが浦賀に来航し、日米和親条約(1854年)締結の8年後です。

 文久3年(1863年)の生野の変で豊岡藩は幕府方として活躍し、平野国臣や横田友次郎らを逮捕するという功績を挙げています。

 明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となりました。明治3年(1870年)、藩校の稽古堂を女学校に改めて、藩士子女の教育化に務めました。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により豊岡県知事となりました。11月には県知事を廃されて、東京へ移りました。明治17年(1884年)、華族令によって子爵。明治18年(1885年)に正五位に叙され、その後も従三位、勲四等に叙され、貴族院議員となりました。

江戸藩邸は現在の千代田区麹町、京藩邸は東山区高台寺南、八坂の塔の東隣にあった。

大石理玖(りく)


理玖遺髪塚/香林会館 豊岡市日撫(ひなど)
 但馬国豊岡藩京極家の家老石束(いしずか)源五兵衛毎公の長女として生まれました。母は佐々信濃守休西の娘。石束家は代々京極家の筆頭家老を勤め、1200石を食む京極家中一番の名門家でした。りくの出家後の法名は香林院(こうりんいん、)。

 貞享4年(1687年)、播磨国赤穂藩浅野家の代々筆頭家老家の大石内蔵助良雄(くらのしけよしお)と結婚し、赤穂城内にあった大石邸へ移住。京極家・浅野家・石束家・大石家も先祖の出自は近江です。時に内蔵助29歳、りく19歳。以降、二人はその夫婦生活の中で、元禄元年(1688年)に長男松之丞(のちの大石主税良金(ちから よしかね))、元禄3年(1690年)に長女くう、元禄4年(1691年)に次男吉千代、元禄12年(1699年)に次女るりを生みました。また内蔵助にはりくとは別にお軽というがいたようで、元禄14年(1701年)2月17日に妾の産んだ女子が四歳で夭折したことが花岳寺の資料に見えます。しかし大石夫妻の赤穂での平和な毎日も長くは続きませんでした。

 同年3月14日、江戸城で勅使饗応役をつとめていた主君浅野内匠頭長矩が高家旗本の吉良上野介義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹の上、赤穂藩は取り潰しとなってしましました。5月の赤穂城開城後、内蔵助が開城残務処理にあたっている間、四人の子らとともにりくは、一時但馬豊岡の実家へ帰りましたが、その後、内蔵助が山科に住居を定めたので、7月初めにりくも山科に移り、再び一緒に暮らしました。この夫婦生活でりくは、また一人子を身ごもりました。しかし内蔵助の盟約に加わった同志たちの間で密談が進む中、盟約の「妻子にもしゃべらない」の原則を守るため、元禄15年(1702年)4月15日、内蔵助は、盟約に加わることを望んだ長男主税を除いて、りくと他の子らを再び豊岡に戻しました。さらに内蔵助は、りくと絶縁。連座が及ばぬようにとの配慮でした。7月5日に石束家で三男にあたる大三郎良恭を出産しました。

 12月15日、夫内蔵助と長男主税を中心にした赤穂浪士たちが仇の吉良義央の首をあげて本懐を遂げたあと、2月4日に切腹となります。残されたりくは、内蔵助の遺児たちの養育にあたりました。長女のくうと次男吉千代はそれぞれ若くして死去しましたが、次女るりと三男大三郎が無事成長しました。また世間では亡き夫大石内蔵助の義士人気が過熱したこともあって、安芸国広島藩の浅野本家が内蔵助の子を家臣に欲しがり、正徳3年(1713年)9月に大三郎は、父内蔵助と同じ1500石にて浅野本家に仕官しました。また次女るりも広島藩士で浅野家一族の浅野直道と結婚しています。りくは、落飾してから香林院と称し(青林院とする文書も)、広島藩から隠居料として100石を支給されていましたが、元文元年(1736年)に死去。享年68。広島の国泰寺に葬られました。

元禄赤穂事件(忠臣蔵)

 元禄赤穂事件は、むしろ「忠臣蔵」の名称でよく知られていますが、この名称は本来、事件を基に脚色した演劇等の総称です。曾我兄弟の仇討ち、伊賀越えの仇討ちと並んで“日本三大仇討ち”と称されています。

 事件後はさまざまな劇化が試みられ、討入りから45年後の寛延元年8月(1748年8月)人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月には歌舞伎として上演されました。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっています。しかし、浅野長矩(内匠頭)が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門伝八郎の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語りませんでした。そのため後世に様々な説がありますが、どれも推測の域を出ていません。

 たとえば、主君である浅野内匠頭だけが切腹となり、吉良上野介に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと言われており、確かに江戸前期の刃傷事件には喧嘩両成敗の“判例”がいくつかあります。

  • 寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。喧嘩両成敗により猶村は切腹改易、鈴木と木造も改易となった。
  • 寛永5年(1628年):目付豊島刑部少輔明重が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木忠精を殺害し、その場で自害した豊島事件
  • 貞享元年(1684年):若年寄稲葉石見守正休が、本丸で大老堀田筑前守正俊を殺害し、正休もその場で殺害された事件。

    江戸城外でも刃傷事件が発生している。

  • 慶長14年(1609年):水野忠胤の屋敷で、久米左平次(大番士)が松平忠頼(遠江国浜松藩主)と服部半八(大番士)に刃傷に及ぶ。久米と松平はその場で斬られて死んだ。喧嘩両成敗により久米家と松平家はともに改易に処され、服部も捕らえられて切腹改易となった。また直接は関係ない水野も切腹となった。原因は囲碁の勝負に松平が口を挟んだためであった。
  • 延宝8年(1680年)6月26日、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝が永井信濃守尚長に対して刃傷に及んだ。内藤は切腹改易。永井は即死した。永井家も改易に処されたが、これは喧嘩両成敗ではなく無嗣のためであった。

     徳川家光の時代から徳川綱吉の時代まで長く刃傷事件がなく、また綱吉時代に起こった殿中刃傷にしても、被害者がその場で殺害されており、ただ加害者を切腹させればよいだけで、被害者も加害者も生き残った例が長く存在しなかった。

     「喧嘩両成敗」は、秩序が崩壊した戦国時代に誕生した慣習法であり、かぶき者[*1]が好んだ法でした。戦国武将でもある徳川家康や徳川秀忠はこれを幕法として採用しましたが、事件当時はすでに百年近い時を経た元禄の世であります。戦国時代の名残が残っているとはいえ、「武断政治」から「文治政治」への転換が図られて、「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は、無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性があると当時の儒学者などからの批判もあったといいます。

     江戸幕府は身分制社会であり、法や捜査は決して近代的でないし平等でもありません。「喧嘩両成敗」の概念は要するに捜査の価値もない禄高の低い軽輩者の喧嘩をおさめ、捜査の手間暇を省くために適用されることが多かったのでうすが、大名身分に喧嘩両成敗の適用は伊達美作守村和の事例ぐらいしかありません。江戸時代の大名は主に一万石以上の所領を幕府から与えられた武家で、赤穂藩は城主大名(外様 2万石)、吉良家は高家の最名門の家柄でするが、それでも石高で言えば4,200石です。このような場合に「喧嘩両成敗」の概念が提要される時代ではなかったようです。

     後世にひとつだけ浅野と吉良の事件に似た刃傷事件が発生しています。徳川吉宗の時代の享保10年7月28日(1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件です。水野忠恒(松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ってくれましたが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかりました。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かってしまった。このとき将軍徳川吉宗は、水野を秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させました。そのうえで毛利家は咎めなしとしました。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がりませんでした。同じ事例でも徳川吉宗と徳川綱吉の違いがここにあると言われています。綱吉は戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。これは父家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響しています(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めました。また幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されています。また外様大名からも一部幕閣への登用がみられる。戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなどたいへん学問好きな将軍でした。儒学の影響で歴代将軍の中でももっとも尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査のうえに修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させました。公家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増しています。

     また後半は、貞享元年(1684年)堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになりました。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母桂昌院に従一位という前例のない高官を朝廷より賜るなど特別な処遇をしました。有名な犬公方といわれ生類憐れみの令[*2]をはじめとする後世に“悪政”といわれる政治を次々とおこなう。

    [*1]かぶき者…戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596〜1643)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。傾奇者・歌舞伎者と表記される場合もある。かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪うなどの乱暴・狼藉をしばしば働いた。自分の武勇を公言することも多く、それが元で喧嘩や刃傷沙汰になることもあった。辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていた。

    [*2]「生類憐みの令」…そのような名前の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼ぶ。「犬」が対象とされていたかのように思われているが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類・貝類・虫類などの生き物にまで及んだ。ただ、綱吉が丙戌年生まれの為、特に犬が保護された(綱吉自身犬好きで、100匹の狆犬を飼っていたという)。

    元禄の大飢饉は1695年〜1696年(元禄8年〜9年)に全国的にも影響を及ぼし、但馬出石藩では農民による打ちこわしが起き米価は騰貴した。ところがこの様な飢饉の中でも、幕府は8万匹の野犬を中野犬小屋に収容し、犬一匹につき一日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)、干しイワシ一合を与え、江戸町民の間では米価騰貴の中での幕府の犬への厚い待遇に対して、憤りが高まった。また、厳罰説を正しいと仮定した上での弁護論もある。生類憐みの令を処罰された側から見ると悪法に見えるが、例えば、当時、まだ戦国時代の「人を殺して出世する(賃金を得る)」がごとき風習が未だ根強く、病人や牛馬などを山野に捨てる風習や、宿で旅人が病気になると追い出されるなどの悪習などを改めるための法律であったと考えれば、厳罰を持って処すことの是非を軽々しく評価はできない。尚、生類憐みの令がきっかけで庶民にも犬を飼う習慣が出来たとする説も存在する。

    元禄赤穂事件
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    ▲ページTOPへ

  • 近世江戸紫(えどむらさき)#745399 最初のページ戻る次へ
    Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reserved. E-mail
    inserted by FC2 system