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近世江戸紫(えどむらさき)#745399最初のページ戻る次へ

出石(いずし)藩

目次

  1. 出石藩
  2. 出石城
  3. 縄張りの分類
  4. 小出(こいで)氏
  5. 松平忠周
  6. 仙石氏(せんごくし)
  7. 仙石騒動
  8. 宗鏡寺(すきょうじ)と沢庵和尚
  9. 出石皿そば

出石藩


辰鼓楼

辰鼓楼は、大手門の一隅にあり、明治四年(1871年)旧三の丸大手門脇の櫓台に建設された鼓楼です。当時は一時間ごとに太鼓で時(辰)を告げました。辰の刻(午前8時)に藩士の登城(出石城)を知らせたもので、形が鼓に似ていることからこの名が付きました。明治14年に旧藩医池口忠恕氏が大時計を寄贈してからは時計台として親しまれ、現在は三代目の時計が時を刻んでいます。出石の町で暮らす人、出石を訪れる人に親しまれているランドマークです。
2006.8.14[但馬國出石観光協会]

 出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。

 文禄四年(1595)七月、豊臣秀吉の養子で関白だった秀次の処刑事件に関係して、前野長泰と子の長重が秀吉に捕らえられ殺されました。これに代わって播州龍野の城主だった小出吉政が同年八月に所領六万石(三万石とも)あまりの出石城主として有子城に入りました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、小出吉政は父の小出秀政と共に西軍に与して丹後国田辺城を攻撃しましたが、吉政の弟・小出秀家が東軍に属して関ヶ原本戦にて活躍した功績により戦後、徳川家康から6万石の所領を安堵されました。

 慶長九年(1604年)、岸和田城主だった父が亡くなったため、吉政は和泉国岸和田藩に移封され、代わって出石領は吉政の嫡男・小出吉英が領しました。城主となった吉英は長かった戦国の乱世も終わり、徳川の天下となって平和が回復した時代に、不便なだけの山頂の城を下に移すことを考え、ふもとに壮大な平山城を築いて移りました。築城には長い年月がかかったものと思われますが、一般には城主になった年の慶長九年だと伝えられます。


おりゅう灯籠

昔の出石川は現在の3倍以上の川幅があり、水も非常に豊かに穏やかに流れていました。日本海より30石級の大船が出入りしていた船着場です。灯籠の北側は関所もあり、川の端には蔵屋敷、塩蔵などが並んでいました。通称「おりゅうどうろう」の名の由来は、鎌倉時代、悲恋物語の主人公「おりゅう」の名にちなんだもので、灯籠と横の柳の木で「おりゅう」と恋人が寄り添う様子が作られています。夜になると灯籠に灯りがともります。[但馬國出石観光協会]

 その後、吉英も吉政の後を継いで岸和田領を継ぐことになり、出石は吉英の弟・小出吉親が継ぐこととなります。いわばこのとき、小出氏は岸和田と出石の両家に分かれたと見るべきであります。

 しかし元和5年(1619年)、岸和田領を継いでいた小出吉英が、5万石にて出石に移されることとなり、これに伴い弟の小出吉親は、丹波国園部へ移封され、園部藩を立藩します。結果、小出吉英は再び出石藩主になったのです。

 その後、但馬出石の小出氏は藩主の早世が相次ぎ、遂には第9代藩主・小出英及が元禄9年(1696年)に僅か3歳で死去すると無嗣断絶となりました。その後を受けて松平忠周が4万8000石で入りましたが、宝永3年(1706年)に信濃国上田藩へ移封されました。

 入れ替わりに信濃国上田藩より仙石政明が入り、仙石氏の支配で明治時代にまで至りました。明治4年(1871年)、廃藩置県により出石県となります。その後、豊岡県を経て兵庫県に編入されました。

出石城(いずしじょう)


有子山城
  ■沿 革

 山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でしたが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城しました。一旦、山名祐豊は城を失いましたが、今井宗久の仲介によって領地に復帰しました。

 1574年(天正2)、標高321mの有子山山頂に有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移しました。しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、山名堯熙は因幡国に逃走、滅亡しました。


「郷土の城ものがたり−但馬編」兵庫県学校厚生会
 有子山城は、しばらく城代の時代が続きましたが、
1585年(天正13)から前野長康、1595年(文禄4)から小出吉政が城主を務めました。
関ヶ原の戦いにおいて、小出氏は吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦ったが、秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵されました。

出石城
有子城(出石城)
 慶長九年(1604年)、小出吉英(よしふさ)により山頂の有子山城から有子山山麓に現在の有子城(こあり・出石城)が築城されました。出石城主となって信州の上田から移ってきた時の記録『近隣集』には、「小出大和守吉英の時ふもとに移ってこの城を築く、築年号や縄張りの作者は定かでない。」とありますから、吉英が城主になった慶長のころに何年かかかって築かれたものと思われます。

 この出石城は、但馬ではただひとつの大規模な近世の城で、近くでは篠山・宮津・鳥取に並ぶ大きな藩の名城でした。


「郷土の城ものがたり−但馬編」兵庫県学校厚生会
 城下の町すじは碁盤の目のようによく整い、あちこちに丁字路を設けて行き止まりを造り、町すじを曲げて見通しを妨げるなど、敵から防ぐための工夫がいろいろとされています。また町内の主な道路の中央には、小さな溝を通して水を流し、防火のための用水にするとともに、冬季の雪消しに利用しました。今でも雪の降る朝早くに、そろって雪を小溝に消す風景は、他の町には見られない習慣です。

 有子山の北側の平地に堀で囲まれた三の丸が築かれ、本丸、二の丸、下郭などの中心を山にかけて築いた「梯格式縄張り」とよばれる立派な平山城です。「丸」は「郭(くるわ)」ともいわれ、その場所を高塀で囲い、通行のための門を設けて独立させた一角をいいます。


復元された本丸西隅櫓
 梯格式とはこの丸が段状に組み合わされたもので、組合せにより複雑ないろいろの形があります。また縄張りと設計(プラン)のことです。出石城の図を見ても分かるように、上から下に本丸、二の丸、二の丸下郭、と平地の三つの丸を築き、本丸の東側に山里の郭と本丸の上には稲荷社を祭った稲荷の郭ともいえる空き地があります。

 出石城の特徴のひとつがこの本丸上の空き地で、この空き地のために城内では一番立派な石垣が築かれてあります。これは狭い敷地の中に、物見と威容を誇る立派な天守閣がつくれないので、天守閣の代わりにをした天守台と見ることができます。この壮大な慶長様式の石垣と白い高塀は、足下に開ける出石盆地や、遠くの豊岡方面からもよく見えて出石城の威容を誇りました。次ぎに、本丸と二の丸の御殿を傾斜のある渡り廊下で結んだ設計は、全国でも珍しい様式だといわれ、また城内に立派な稲荷社や諸杉(もろすぎ)神社のやしろがあるのも特徴です。


登城門 2009.1.24

かつての出石城には7つの門がありましたが、明治維新の際に取り壊されました。これを何とか復元しようと、町民の寄付で平成6年11月に完成したのがケヤキ造りの登城門です。 昔、武士が登城に使っていたところから“登城門”と名づけられました。 同時に木造の登城橋が出来ましたが総工費は1億円です。

 櫓(やぐら)は本丸に一つ、二の丸に二つ、三の丸に一つの合計四つで、門は大手・東・西など七つがありました。城主は本丸御殿に起居するのが普通ですが、小出氏が九代で絶えて松平忠徳(ただのり)が城主のとき、日当たりが悪く湿気が多いために健康上の理由から平地の三の丸に対面所をつくって、ここに起居するようになりました。

 つぎに、出石城下の特徴ですが、有子の山裾の中ほどから、東門、大手門、西門、有子山西裾と城を囲んでコの字形に内堀をめぐらし、その中には城主一族の屋敷がありました。東の山裾から出る谷山川を利用して、町の中心部を囲むように西に下り、南から北に流れる旧出石川の本流につないで中堀として、その中に市街の中心部を設けました。現在でも町名として残っている材木・魚屋・八木・本町・宵田・田結庄・柳などの町人町を配し、その外側に東から谷山・入佐・鉄砲、西に小御料庄・馬場、南の小人・清水など侍屋敷が町人町の外側を囲むように置かれています。これはふつうの城下町とは反対の配置です。


日蓮宗 経王寺
 戦闘など非常のときは兵を集めて駐屯し防備に当たる目的で、城下の数多くの寺院を街道の大事な場所に置きました。東の京街道の経王寺、吉祥寺、光明院、北東に宗鏡寺とその塔中諸寺や本高寺、昌念寺など、北西には見性寺、西の街道口には称名寺や法城寺を、南の入口には福成寺とその塔中諸寺がありました。

 現在でもその面影をとどめる二層の鐘櫓が経王寺と見性寺に残り、経王寺には銃眼をもった高塀もありました。


福成寺
 出石城下に今も山名重臣の田結庄(たいのしょう)八木宵田(垣屋氏の宵田城に因む?)の屋敷跡に因む町名が残っています。

縄張りの分類

[註]:縄張りの分類

輪郭式(りんかくしき)・・・囲郭式ともいう。平城に多く見られ、本丸を中心に同心円形あるいは回字形に二の丸・三の丸を配した構成となっている。4方向に対して等しく防御が厚くなるが、曲輪を囲んでいく構造のために城郭の規模を大きくせざるを得ない。平城に多い縄張である。(例:大阪城、名古屋城など)

連郭式(れんかくしき)   尾根上に築かれて山城に多く見られ、本丸と二の丸を並列に配置する縄張である。奥行は深くなるものの、本丸の脇や背後が露出してしまい、その結果搦手(からめて)等の守りが追手(大手)に比べ手薄になることもある。(例:備中松山城など)

梯郭式(ていかくしき)

本丸を城郭の片隅に配置し、その2方向、あるいは3方向を他の曲輪で囲む縄張である。本丸の露出している側(たとえば背後)に、湖沼や山河、絶壁などの「天然の防御設備」がある場所に向く縄張である。   本丸の虎口を出たところに二の丸。二の丸の虎口を出たところに三の丸と、ハ   シゴ状に虎口を配した構成となっている。平山城に多く見らる。   (例:熊本城、会津若松城など)

並郭式(へいかくしき)

  本丸と二の丸を並べて配置し、その周りに三の丸を配している。(例:島原城など)

稜堡式(りょうほしき)

  横矢掛かりの一種で、屏風折りがなされている。(例:五稜郭、龍岡城など)

併用式(へいようしき)

  これらの縄張りを組み合わせた曲輪の配置がされている。これらの変形・発展型や合体型(例えば“輪郭式+梯郭式”といったように)と言えるものも数多くあった。また、これらの型式のみでは分類が難しい城郭もある(単郭式など)。そのほか研究者によっては、同じ城でも名称・認識が違う場合もあれば、その他の名称を使って細かく分類する場合もある。(大垣城、松本城など)

曲輪(くるわ)

城郭内にある一定区画を分かつ区域である。郭(くるわ)とも書く。江戸時代以降は丸ともいう。 その役割や機能によって配置されている。

本丸

一の曲輪などとも呼ばれる。“本丸”は城の中枢部であり、本丸御殿のような居住域兼政務域を持ち、戦時には最終防衛線となる。

天守丸

本丸の内にある天守を持つ曲輪、連立式天守や、連結式天守等の形式によって隔てられてできた曲輪。本丸をこの名称で呼ぶ場合もある。城によっては、天守郭や天守曲輪また本壇ということもある。

二の丸・三の丸

二の曲輪・三の曲輪などとも呼ばれる。二の丸、三の丸は本丸の副次的な役割を担い、規模は様々である。規模の大きなものには、二の丸御殿などの居住空間が置かれることがあった。三の丸については、武家屋敷が立ち並ぶことさえあった。しかし、どのように使われたにせよ、本丸防衛が目的であった。

西の丸

その城の所有主の隠居所として使われる。隠居所としての西の丸は、徳川家康が江戸城西の丸を自らの隠居場所としたことに始まる。姫路城や岡山城にも同様の西の丸がある。

帯曲輪・腰曲輪

主要な曲輪の周囲に配置される細長い小曲輪。豊臣大坂城のように2重に作られたものもあった。こうした曲輪は、敵が主要な曲輪に達するまでの時間稼ぎとなり、また防御側にとって有利に攻撃ができた。しかし、ひとつの曲輪が制圧されると、次の曲輪が射程に入ってしまうことが多く、中世の山城の曲輪は、鉄砲を用いた戦いに向いていなかった。

総曲輪

城下町を、長大な堀や土塁・石垣で防御して曲輪としたもの。総曲輪が存在する城の場合はここが最も外郭の防衛線となる。 出丸

城郭の防御能力の強化・弱点の補強・物見などの目的で作られる独立した曲輪。 大坂冬の陣に際して、大坂城総曲輪の南側に真田信繁(真田幸村)が造った「真田丸」などがある。

馬出

虎口の前面に配置される小曲輪。単純に敵の虎口への侵入を困難にする目的の他に、一種の射撃陣地として虎口の防御を有利にする。そのほか、小部隊の駐屯施設として城内からの出撃にも用いられる。土塁を築いただけの曲輪とは言いがたい小さなものから、名古屋城・篠山城・広島城のように巨大なものまで存在する。大きく分けて半円形のものを「丸馬出」、方形のものを「角馬出」と呼ぶ。

水の手曲輪(みずのてくるわ)

城郭の取水・水源施設をもつ曲輪。

虎口(こぐち)

城の出入口。大抵は曲げられて造られることが多く、城門や虎口の正面に蔀(しとみ)や?(かざし)と呼ばれる土塁を設けてまっすぐ進めなくすることもある。城の正面(近世城郭では通常は南)の虎口には大手門・追手門(おおてもん)、裏の虎口には搦手門(からめてもん)が構えられた。

塀は曲輪内を仕切るほか、防御の目的で石垣・土塁の上にも築かれた。中世には土塀・板塀・塗込塀などが、近世には防火のため、漆喰塀・海鼠塀が用いられた。塀や櫓には矢・弾丸などを射出するための小窓が設けられ、これを狭間(さま・はざま)といった。

櫓(やぐら)

櫓・矢倉(やぐら)は、物見台や倉庫、防衛を兼ねた建物をいう。櫓は通常、番号、方位を冠して巽(たつみ)・艮(うしとら)・乾(いぬい)櫓などといい、また用途などによって着見・月見・太鼓櫓などと呼ばれるものもあった。郭の角にある隅櫓は、近世城郭では通常二重櫓、大きな城などでは小規模な三重櫓が用いられることもあったが、中には大坂城本丸にあった三重櫓や熊本城にある五階櫓のように天守に匹敵する構造を持つ櫓があげられていた例がある。

天守

城郭の最終防衛拠点と位置付けられ、大型の望楼櫓が発展したともいわれる。戦国時代以降は城の象徴的存在となった建造物。

小出(こいで)氏


小出氏家紋 額に二八文字
(藤原南家二階堂流)
 有子山城は、しばらく城代の時代が続きましたが、天正13年(1585)から羽柴秀吉の但馬平定後、羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である前野長康が城主となりました。文禄4年(1595)からは小出秀政の嫡男小出吉政が有子山城(出石城)に入城しました。吉政は天正18年(1590年)、小田原の役に従軍。 文禄2年(1593年)、播磨国龍野城2万石の城主となります。

 秀政の父は織田氏の家臣で、秀政の妻は羽柴秀吉の母・大政所の妹であり、秀政は秀吉の叔父に当たります。羽柴秀吉に仕え、和泉国岸和田に3万石の所領を領しました。秀吉の死の直前に、秀吉の後継者・豊臣秀頼の補佐を秀吉から依頼されました。その経緯から、1600年の関ヶ原の戦いでは長男の吉政と共に西軍に与して、東軍に与した細川藤孝(幽斎)の守る丹後国田辺城を攻撃しました(なお、秀政は大坂城で秀頼と共にいた)。そのため、本来ならば戦後に処罰されるはずでしたが、次男の秀家が東軍に属して関ヶ原本戦で活躍したため、出石の領土は安堵されたのです。皮肉にも秀家は父に先立って病没しています。

 1604年(慶長9)、父・吉政が和泉国岸和田藩に移った後、吉政の嫡男・小出吉英が但馬国出石藩6万石を領し、有子山城が廃され、麓に出石城が築城されました。

 慶長18年(1613年)、父吉政が死去すると吉英が家督を継ぎ、岸和田に移ったため、出石は弟の小出吉親が継ぐこととなりました。後に岸和田から出石に移封となり、弟の吉親は丹波国園部に移封されて、園部藩を立藩します。

 小出氏の出自は藤原南家二階堂氏流とされ、発祥の地は信濃伊那とされます。尾張の小出氏は、伊賀守有能の弟藤四郎有政が尾張国中島郡に移住して小出を称したことが始まりといいます。子孫は尾張守護斯波家に仕え、五郎兵衛政武は永禄三年(1560)五月に尾州善照寺合戦で戦功があり、五郎左衛門政重のとき織田信長に仕えたとされます。政重の子が、小出氏の名をあらわした小出播磨守秀政です。  しかし、秀政の父政重までの系譜に関しては諸伝があり、小出氏の出自に関しては不詳というしかないようです。

 『多聞院日記』には、「小出播磨守は大政所の妹を妻にして、太閣一段の御意合なり』と記されています。『寛政重修諸家譜』にも秀政の室を「豊臣太閣秀吉の姑」としています。同じ尾張国中村出身として早くから秀吉に仕えていたことがうかがわれます。
 しかし、秀吉家中における同じ尾張派とでもいうべき加藤清正、福島正則らに比べて地味な印象で、いわゆる現在の総務畑的な存在であったのでしょう。

 織田信長が天下統一に邁進するなかで秀吉が次第に出頭、天正十年(1582)に起こった本能寺の変後、秀吉は天下人へと大飛躍をとげることになる。本能寺の変が起ったとき、秀吉は備中高松城攻めの最中で、毛利氏と和睦するや兵を大返ししたことは有名な逸話である。姫路城で一息いれた秀吉は、ただちに明智光秀との決戦をめざして出陣していったが、その留守をまかされたのは小出秀政であった。

 秀政は着実に天下統一を実現していく秀吉の側近くに仕えて、天正十三年、和泉国岸和田に三万石の所領を与えられて豊臣大名の一員となった。

 慶長三年(1398)、秀吉の死に際して、片桐且元とともに秀頼の補佐を依頼されているが、それだけ秀吉の信頼が厚かったことを物語っています。

 一方で嫡男の吉政は文禄二年(1593)に播磨国龍野二万石、ついで文禄四年には但馬国出石有子山城主となり六万石の大名となっています。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、出石城主の吉政は、その所領の立地もあって、父の小出秀政と共に西軍に与して細川藤孝が守る丹後国田辺城を攻撃したが、小出秀政は秀頼の補佐として大坂城にいたらしく、西軍としての目立った動きをしていない。しかし、吉政の弟・小出秀家が東軍に属して関ヶ原本戦にて活躍した功績により、本来ならば戦後に所領没収もやむをえないところであったが、徳川家康から改易を免れ、6万石の所領を安堵され、江戸時代も大名として存続しました。ところが慶長八年、皮肉なことに秀家は父に先立って病没、その翌年には秀政も死去したため、吉政は父の遺領である岸和田に移った。 いわばこのとき、小出氏は岸和田と出石の両家に分かれたと見るべきである。

 岸和田城は羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとしました。残された出石は吉政の嫡男小出吉英が領することになった。代わって出石は吉英の弟・小出吉親が継ぐこととなる。

 しかし元和5年(1619年)、岸和田領を継いでいた小出吉英が、5万石にてふたたび出石に移されることとなり、これに伴い弟の小出吉親は、丹波国園部へ移封され、園部藩を立藩します。

 その後、但馬出石の小出氏は吉英のあと、吉重−英安−英益−英及と相続したが、藩主の早世が相次ぎ、遂には第9代藩主・小出英及が元禄9年(1696年)に僅か3歳で死去すると無嗣断絶となりました。

 その後を受けて譜代の松平忠周が4万8000石で入りましたが、宝永3年(1706年)に信濃国上田藩へ移封されました。

 入れ替わりに信濃国上田藩より仙石政明が入り、仙石氏の支配で明治時代にまで至りました。明治4年(1871年)、廃藩置県により出石県となる。その後、豊岡県を経て兵庫県に編入されました。


松平忠周

 松平忠周(まつだいら ただちか)は、または松平忠徳(まつだいら ただのり)といって、江戸時代中期の大名。伊賀守流藤井松平家3代(三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市)を領した藤井松平家の傍流)。はじめ丹波亀山藩(亀岡市)の第3代藩主。次に武蔵岩槻藩主。ついで但馬出石藩主、そして1万石加増となり信濃上田藩の初代藩主。江戸幕府では側用人、京都所司代、老中を歴任しました。

 万治4年(1661年)4月19日、藤井松平家主で丹波亀山藩の初代藩主である松平忠晴の三男として生まれます。異母兄で亀山藩の第2代藩主・松平忠昭が病弱だったため、兄の養子となり、天和3年(1683年)に家督を継いで亀山藩の第3代藩主となります。

 第5代将軍・綱吉に近侍し、側用人にまで出世しますが、家宣が第6代将軍となると、側用人を免ぜられて幕政から遠ざけられます。その後、8代将軍吉宗が登場すると京都所司代を経て老中に起用されました。享保13年(1728年)5月1日、在職のまま江戸で死去。享年68。人品、文武の両道、共に優れ、和歌への造詣も深かったそうです。後を三男・忠愛が継ぎました。

仙石氏(せんごくし)


家紋:永楽銭
 松平忠周が信濃上田藩へ、信濃上田から仙石政明が入城しました。仙石氏は美濃国の豪族出身で清和源氏土岐流を称しています。廃藩置県まで出石藩主として続きました。
 仙石氏は、清和源氏頼光流(土岐支流)といわれています。久盛が仙石某の養子となって仙石氏を継いだということだけで、仙石某の系譜については記録がありません。仙石氏の中興の祖である仙石秀久(久盛の子)は、はじめ美濃斎藤氏に仕え、斎藤氏が織田信長に滅ぼされると、信長配下羽柴秀吉に仕えました。豊臣秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣で、秀吉の家臣団では最も早く大名に出世しました。

 秀吉が淡路国を攻略した後、淡路を任され、四国の長宗我部氏(ちょうそかべし)と対峙しましたが、1583年の引田の戦いで敗れるなど苦戦が続きました。ようやく1585年の四国征伐において軍功を上げ、讃岐国高松10万石を与えらるまでになりましたが、1586年、九州征伐の前哨戦である戸次川の戦いとその戦後処理で大失態を犯し、秀吉の逆鱗に触れてしまい高野山に追放されてしまいました。しかし、1590年の小田原征伐で功をあげ、信濃国小諸5万7千石の大名として復帰することができました。大名に返り咲くことができた数少ない武将です。

 1600年の関ヶ原の合戦では東軍に付き、所領を安堵されました。美濃の一土豪にすぎなかった仙石氏が一国一城の主に至る過程は、この乱世がいかに競争熾烈であったかを物語っています。

信濃国小諸藩から同国上田領へ、そして出石藩に移封されました。

 初期の仙石氏の江戸城内での詰所は、譜代城主格として上席の帝鑑の間であったといいます。その後、四代当主仙石政俊以降は外様の小身の席である柳の間に替えられ、後代々同じといいます。

 出石藩に移封された際に信州上田からそば職人を連れてきたのが「出石そば」の始まりといわれています。

 江戸末期の天保六年(1835)には、三大お家騒動のひとつといわれる仙石騒動が起こり、幕府から領地を取り上げられて半分を失い、三万石に転落しました。江戸時代中頃には幕府を含めて一般的に藩の財政は苦しく、出石藩でも大変な打撃でした。
 出石藩は但馬でただ一つの大きな藩として五万八千石あまりの所領を持ちましたが、新しい田んぼを開発するなどで、本当は六万石を越えました。ところが天保六年(1835)に江戸時代の三大お家騒動[*1]のひとつといわれる「仙石騒動」が起こり、幕府から三万石に転落しました。それに江戸時代の中頃は幕府を含めて一般的に諸藩の財政は厳しく、出石藩でもしだいに苦しくなっていたので三万石の厳封は大へんな打撃でした。

 仙石久道が城主だった頃から、藩の番士も廃止され、破損した城の修理も行われぬまま明治維新を迎えました。

 江戸藩邸の在地は分かりませんが、江戸末期の江戸絵図に芝の増上寺西の神谷町?に仙石讃岐守屋敷があります。仙石家10代久利の墓所が東京都文京区白山大乗寺。幕末には御所の二筋目になる京都市中京区御幸町夷川通上ル(松本町)に京屋敷を設けました。禁門の変では幕府方として下鴨に布陣しています。逃亡中の桂小五郎捜索に奔走しています。

 明治維新になり、封建制度を廃止する方向を示したため、その時の出石藩では、「城郭を早く取り壊してしまわないと、今後に必ず面目を失って不利益をこうむるだろう。」と考える藩の要人たちが中心を占め、「せっかくの城だから残してほしい。維持する費用が入るのなら、今までの租税の他に別に納めます。」と存続を申し出た管内の庄屋連名の請願を退けて城の取り壊しを決定しました。

 城のとり壊しは、西園寺公望が山陰道鎮撫総督として巡視する前がよかろうと考え、町人まで動員して建物に縄をかけて引き倒したと伝えられます。同じ明治元年に完成した城もあると聞くとき、但馬唯一の城が取り壊されてしまい、時の流れとはいえ残念なことでした。

 また明治維新で失業した士族を救済するために、明治政府が一時的に家禄公債を発行し補助金を出しましたが、出石藩では他の藩よりもずっと低く報告したため、あまり少ない出石藩の申請を気の毒に思った新政府の役人が「もっと大きく書くように。」と注意したのを、「字が小さすぎた」と受け取り、大きな字に書き直して出したといわれています。本当の話かどうか分かりませんが、出石城を撤去した話からも想像して維新当時の混乱と旧藩の重臣や要人の動揺が想像されます。

   辰鼓櫓(しんころう)、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されて、但馬の小京都・出石は、観光地として賑わっています。  明治維新を迎え、最後の藩主仙石(越前守)政固は出石藩知事に、廃藩置県後は子爵となった。

弘道館(こうどうかん)

出石藩の藩校。

  • 1775年(安政4年)伊木町に出石藩藩校を創設し、学問所と呼ぶ。
  • 1782年(天明2年)時の藩主、仙石久行が学問所を立て替え、「弘道館」と改名する。
  • 1873年(明治6年)学制により第三大学区兵庫県、第二十四番中学区、出石郡第一番小学区出石小学校として開校する。
  • 仙石騒動


    家老屋敷
    白亜の土塀と長屋門のあるこの屋敷は、出石城の内堀の中にあった高級武士(家老級)の居住として使われていたものです。 外観は一見平家に見えますが、隠し二階があり不意の襲撃に備えてあります。 江戸時代における三大お家騒動の一つに挙げられる仙石騒動の中心人物仙石左京の屋敷があった場所のため「左京屋敷」とも呼ばれています。 現在、大名行列の諸道具なども展示しています。
    〒668-0214兵庫県出石郡出石町内町98
    [但馬國出石観光協会]
     江戸時代になって太平が続いた出石城下に、この時代の三大お家騒動[*2]に数えられて物語や芝居などで知られる大事件が起こりました。江戸時代も終わりに近い天保のころのできごとで、世に「仙石騒動」として知られています。

     文政から天保のころ(1818〜1843)、出石藩では城主にいちばん血筋の近い家柄の仙石左京が大老職に就いていました。家柄が良く才能もあったので、権力を握り藩の政治を独裁しておりました。

     たまたま藩主の仙石美濃守政美が文政七年(1824)の江戸参勤の途中で病気にかかり、江戸について間もなく死亡しました。講談や芝居では左京に頼まれた侍医が毒殺したように話を進めていますが、面白くするための作りごとで、出石を出発する時から風邪や麻疹が流行しておりました。

     亡くなった政美には後継ぎの子どもがなく、そこで老臣たちが相談して政美の末の弟で五歳になる道之助(のちの城主久利)を後継ぎに決めました。このとき左京は自分の子どもの小太郎(当時幼名新之助・十才)を後継ぎにしようとたくらみ、反対勢力の老臣酒勾(さこう)清兵衛や仙石主計(もんど・城主一族)、原一郎右衛門の執政権を奪い、そのあと江戸詰めの造酒派・荒木玄蕃(げんば)を含めて四人に隠居閉じこもりを命じて藩政を独占しました。

     また子どもの小太郎の嫁に幕府の老中である松平諏訪守康任の弟の娘をもらって、老中との親戚関係を結びました。 仙石主計、酒匂清兵衛、荒木玄蕃、原市郎右衛門といった造酒派の重臣は、左京が小太郎を藩主に据えようとしていると老公久道に直訴しました。久道は全く相手にせず、かえって4人は久道の怒りを買い蟄居を命じられます。このようなやり方を藩の中でいちばん激しく攻撃したのが河野瀬兵衛でした。

     同じ造酒派でこの行動の首謀者であったため左京は河野を追放しましたが、河野は江戸に登り仙石家の一族で旗本だった仙石弥三郎の執事、神谷転(たた)と結んで左京の陰謀を上書として提出して訴えました。江戸屋敷での経費も大幅に節減され耐乏生活を送っていた久道夫人は、上書の内容をそのまま信じ、左京が藩士から取上げた俸禄を不正に蓄財しているとして国許で隠居している久道に左京の非を激しく訴えました。久道から夫人の書状を見せられた左京は重臣を江戸に上らせ、久道夫人に弁明をすると共に瀬兵衛の消息を掴むことに全力を挙げました。江戸から帰り藩内に潜伏していた瀬兵衛は天領生野銀山にまで逃げましたが捕縛されました。河野を捕らえて獄につなぎ、間もなく町はずれの仕置きで首を斬って処刑しました。本来天領での捕縛には幕府の勘定奉行の許諾が必要で、無断捕縛は違法でした。

     左京は江戸に残る神谷を捕らえようとしますが、身の危険を知った神谷は主家を去り下総一月寺の虚無僧となり、名も「友鵞(ともが)」とかえて難を逃れます。左京は先に老中との縁を頼って、松平諏訪守康任の伝で江戸南町奉行筒井伊賀守を動かし、友鵞(神谷転)を捕らえさせました。

     このことの次第を、友鵞の友人で一月寺の役僧の愛ぜんが寺社奉行脇坂安董(やすただ)に訴えたことから仙石家の内輪もめが表沙汰になり、幕府の吟味が始まりました(町奉行には虚無僧を捕らえる権利がなかった)。左京をはじめ事件に関係した全員が江戸表に呼び出され、天保六年(1835)十二月に判決が出ました。

     左京は江戸の鈴ヶ森で獄門(斬首の上獄門台にさらす最高刑)、一味の年寄、岩田静馬と用人宇野甚助は死罪、左京の子小太郎は八丈島へ流罪、そのほか遠島・追放・隠居・謹慎など出石藩だけで三十一名が処罰され、老中松平諏訪守は同時に発覚した密貿易(竹島事件)の責も含め失脚、隠居を余儀なくされた他、南町奉行筒井政憲と勘定奉行の曾我助弼も失脚するなど、幕府の要職まで処罰が及ぶ大事件となって終わりをつげました。この事件で、出石藩は五万八千石あまりの領地の半分を取り上げられて三万石に厳封され、苦しい立場に追いやられました。

    諸杉(もろすぎ)神社

    但馬國出石郡
    兵庫県豊岡市出石町内町28
    式内社 旧県社
    御祭神 多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすく)
    祭神はアメノヒボコ(天之日矛、天日槍)命の嫡子・多遲摩母呂須玖神。

    当初は小坂村水上(むながい)に祀られていたが 天正二年(1574)、但馬国守護山名氏が居城を 此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり 城下である現在地に遷座したという。

     以上が一般に知られた仙石騒動のあらましですが、この話にはいろいろと不審も多く、その後の研究や言い伝えなどから、違った見方が強まっています。極悪非道のようにいわれがちな左京の人となりを、二・三の例から見直してみましょう。

     大老だった左京が藩の儒者桜井東門に「都合の良い日を決めて来宅し、儒書の講義をお願いしたい。」と頼みました。東門は『礼記』を引用して「礼においては来たりて学ぶと聞きます。良くお考え下さい。」と答えました。つまり教えを請いたいのならば自らこちらに来るのがすじではないか、と。

     明くる日、東門が家の門を開きますと、身分の高い大老の左京が、麻の上下を着けて門前に立ちその開くのを待っておりました。驚いた東門は、あわてて左京を出迎えたと伝えられています。左京が自宅に来て講義するよう頼んだのはせっかくの講義を自分だけが聴くのではもったいなく、家内や召使いにまで聴かせたかったためだと知れました。

     また、藩の財政が窮乏して役所のいろいろの費用を減らした時も、藩の学校弘道館の分は少しも削らず、藩士の俸禄を借り上げ(家臣に支払う俸給を藩が借りる名目で一部しか支払わない)たときも、武芸師範の手当は減らしませんでした。

     天保六年、仙石騒動の判決が下って、欠所になった左京らの家財を差し押さえに行った役人の報告でも「武具だけは相当あったが、衣服や道具類はなく、身分の高い家にしては質素なのに驚いた。」ともあります。

     藩主が江戸に着いて危篤のとき、病気見舞いに急いで出府するのに子どもの小太郎を連れて行ったことが陰謀の決め手にされ、評定所の判決文にも「仙石左京こと主人の病気が重く、相続する男子もないとき、急いで出府するのに要衝の小太郎を可愛いからといて連れてきたのは、みんなの疑いを招き、主家に対しても遠慮のない行いであり重罪に値する。」とあります。


    石部(いそべ)神社

    但馬國出石郡
    兵庫県豊岡市出石町下谷62
    式内社 旧郷社
    御祭神:天日方奇日方命
    大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命

    出石城から東へ出石高校や加藤弘之生家の前を過ぎる北側に境内があります。 境内入口の右には「式内 石部神社」、 左に「皇大神宮」と刻まれた社号標が建っている。 創祀年代は不詳。
    当初は坪井村に鎮座していたという。

    石部神社は、御祭神を「天日方奇日方命」と申して 延喜式神名帳(一、一〇〇年前)に記載されている由緒の ある神社です。 その神前には、ご神木の大ケヤキがそびえています。 この木の樹齢は一千年といわれ、幹の周囲は八メー トル、高さ三十メートルあります。 長年の風雪に堪えて幹には苔を帯びています。 「健康長寿」「幸福安全」を願って、昔から「幸の大ケ ヤキ」と呼ばれています。 境内には「皇大神宮」と「天満宮」がまつってあります。

     これについて左京の儒学の師であった桜井東門が上京する左京に、子どもを連れて行くことを思いとどまるように忠告しますと、「最愛の子どもであるから一日もそばを離しがたい。」といって聞かなかったと記録にも見られ、大へんに子ぼんのうな人であったといわれ、主家横領のたくらみが、本当にあったとは判決文でも明らかにしておりません。

     ではこのような左京が多くの人から憎まれ、反対派から強く攻撃されたのはなぜでしょうか。大老として行った具体的な政治について見ましょう。

     左京が、大老本席についた文化十二年(1815)から大老になった前後は、出石藩は多額の出費に悩み、多くの借金がたまって財政が窮迫していました。そこで左京は役所の組織替えや政策の転換をはかり、文政三年(1820)には無能な勝手方年寄で執政の仙石造酒助(みきのすけ)を退け、岩田静馬を登用し、あくる年には左京自身が勝手方頭取を兼ねて政策を強行しました。行った上げ米を見ても、家臣の最高だった荒木玄蕃の千七百石で六割、百石では三割四分を三年間借り上げ、いっぽう御用商人からの資金調達をすすめ、予算をたてて役所の費用を倹約させ、代金の支払い方法なども改めました。

     また地元の商人を保護して冥加金を納めさせ、生糸などを国の産業に指定して奨励し、産物会所(藩の役所)で一手に扱って利益を増やしました。ことの上げ米は、武士の生活を苦しくし、役所の改革などで左京に不満を持つ者も多く、時には反対派が勢力を占めましたが無策に終わり、文政九年には再び左京が実権を握りました。身分は低いが能力のある宇野甚助を登用したのもこのころでした。藩の財政の危機を知らすために、家中に借財の内容を公開して良作を募るとともに、文政十年の冬には、ぎりぎりの上げ米を実施しました。面扶持(つらぶち)といわれるもので、家臣全部の家族一人について同じように扶持米一石八斗づつを渡して、残りはすべて借り上げる強行策で、藩財政の非常事態突入ともいえましょう。

     この政策は、禄の高い者ほど被害が大きく、左京に対する不満と反対は極限に達したことが想像されます。反対派は左京を目の敵にして主家横領の陰謀を持ち、藩政をかき乱す極悪人と攻撃し続けました。左京は荒木玄蕃や仙石主計らの反対派を抑えて目的の達成に努力しますが反対は強く、天保三年には財政の要職、勝手方を、天保六年には大老職もやめて隠居したいという願いを老公久道に出しましたが、二回とも藩のためにぜひ思いとどまるようにと頼まれて職を続けました。

     もし、主家横領の陰謀のみに終始する左京であれば、このような辞職願いはあり得ぬこととも思われます。

     ともかく、このころ江戸で起こった神谷転の逮捕がもつれて中央の問題に発展し、判決は左京を大罪人とし、若年の藩主久道は藩内取締り不行き届きの理由で、三万石を召し上げられる結果に終わりました。裁判では一方的に反対派の言い分が通り、左京側の弁明は全く聞かれなかったとも伝えられます。このような仙石騒動の結果と真相は、これからも究明すべき多くの問題を残しているといえましょう。

  • 久道夫人は実家である姫路藩邸に赴き、藩主酒井忠学の妻で将軍家斉の娘喜代姫にも藩の騒動を話していた。
  • 寺社奉行の脇坂安董は町奉行・松平康任に対抗し、権力掌握を狙っていた老中水野忠邦に仙石(出石)藩の騒動と康任の関係を報告した。康任を失脚させるため、水野忠邦と脇坂安董は左京が仙石家の乗っ取りを策謀しているとして将軍家斉に上奏する。喜代姫経由で仙石藩の騒動は家斉の耳にも達しており、家斉はこの騒動を寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行で構成される評定所が裁定し、その責任者を脇坂安董とすることに決める。
  • 松平康任が隠居した後、子の康爵が跡を継いだが、石見浜田から陸奥棚倉に懲罰転封された。南町奉行を解任された筒井政憲は左遷されるが、後に復権し川路聖謨と共に対ロシア外交の責任者となる。康任を失脚させた水野忠邦は老中首座となり、天保の改革を推し進める。脇坂安董は外様から譜代になり、老中に就任する。名を上げた川路聖謨は出世の契機となった。
  • 仙石藩はその後も抗争のしこりが残り、文久2年(1862年)藩主久利が実権を握り、親政を開始するまで長く藩内の政争は続いた。 [*2]…江戸時代の大名家における内紛。江戸期に主なお家騒動でも27軒も起きています。『ウィキペディア(Wikipedia)』では三大お家騒動として「加賀騒動」、「黒田騒動」、「伊達騒動」としています。仙石騒動(仙石氏 - 出石藩)は、最も幕府末期のお家騒動で1824年(文政7年)。
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    宗鏡寺(すきょうじ)と沢庵和尚

    宗鏡寺
    兵庫県豊岡市出石町東條33
    臨済宗大徳寺派の寺院。出石城主の菩提寺。沢庵宗彭所縁の寺として知られます。通称は沢庵寺。

     1392年(元中9年)、山名氏の菩提寺として入佐山の麓に創建されました。開基は山名氏清、開山は東福寺の大道似禅師。寺号は氏清の法号である宗鏡寺殿に由来するとされます。もとは出石神社近くの此隅山城の一角に宗鏡寺跡があり、落城後の新たな拠点としての有子山城を築城の折に寺もこちらへ移したものと思えます。山名氏滅亡後永らく荒廃していた寺は、出石城主小出吉英のすすめを受けた沢庵により1616年(元和2年)に再興されました。沢庵は将軍徳川家光に使えていましたが度々故郷の豊岡市出石町宗鏡寺「投淵軒」に閑居。通算30年以上を当寺で過ごしました。沢庵の墓所は境内に在ります。
    沢庵 和尚

     澤庵 宗彭(たくあん そうほう)1573-1645。天正元年、但馬国出石に生まれる。『七美郡誌』によると、「田公綱典入道秋庭入道の子采女澄正の二男を宗彭という」とあり、母は牧田又之丞日下部光政の娘とあります。また、一方では、綱典の次男半兵衛尉真典の三男が沢庵宗彭というとも記しています。

     ところが、出石方面では山名の家老秋庭能登守綱典という者がいました。これは三浦大介義昭の弟義行が相模国高座郡秋庭に住み、地名をとって秋庭を号したといいます。あわただしい戦国末期の世相のなかで秋庭能登守は出石郡の小坂村大谷に引隠して帰農しています。田公氏の生まれか、平姓秋庭氏の生まれかは異論が多い。しかし、沢庵宗彭は平姓秋庭氏の生まれとするのが通説のようです。

     沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)沢庵の法号を得た。1607年沢庵は京都の大徳寺首座となり、大徳寺徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。1609年、37歳で大徳寺の第154世住持に出世しましたが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻りました。1620年(元和6年)郷里出石に帰り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺に投淵軒と名付けて庵を結びました。

    紫衣事件(しえじけん)

    勅使門(重要文化財)2009/1/28
    慶長年間(1596年 - 1614年)建立の御所の門を下賜され、寛永17年(1640年)に移築されたもの。(2009/1/28)
     大徳寺は、臨済宗大徳寺派大本山。京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残しています。

    三門 (金毛閣 重要文化財)
    二層の山門。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)、千利休が上層を完成させて金毛閣と名づけられた。利休は上層に自身の木像を安置した(つまり、門をくぐる者は利休の下を通ることになる)が、これが豊臣秀吉の怒りを買い、秀吉はこのことを楯に利休に自決を迫ったという。
     大徳寺は、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする歴代多くの名僧を輩出茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院です。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっています。江戸時代初期に幕府の統制を受け元住持である名僧、沢庵宗彭が紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けたが、幕府との関係ものちに回復しました。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えています
     江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなりました。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられました。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣[*1]の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められました。

    大仙院 京都市北区紫野大徳寺町54-1
    大仙院

     永正6年(1509年)に大徳寺76世住職古岳宗亘(こがくそうこう、大聖国師)によって創建された。現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹である。 大仙院の三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ加茂の河原で梟首された千利休の首を山内に持ち帰り手厚く葬りました。


    国宝 玄関
     日本の方丈建築としては東福寺・龍吟庵方丈に次いで古い遺構である。「床の間」が現れるのもこの時代で、大仙院の床の間は日本最古とされ、玄関も日本最古の玄関として国宝に指定されている。 (2009/1/28)
     1627年(寛永4年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じました。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)・東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪としました。上山藩主の土岐頼行は、流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれています。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇しました。

    三玄院 石田三成、浅野幸長、森可成(蘭丸)が建立。 (2009/1/28)
     関ヶ原の戦い後の10月1日、石田三成が家康の命により六条河原で斬首されました。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られました。また一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われています。

     1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許されました。沢庵が剣術家・柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名です。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入りました。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まりました。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見しました。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになりました。


    龍源院(りょうげんいん) - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏が創建。龍吟庭、東滴壷、阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
    黄梅院(おうばいいん) - 織田信長が建立。蒲生氏郷の墓がある。総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立
    芳春院(ほうしゅんいん) - 加賀前田家の菩提寺
    高桐院(こうとういん) - 細川氏にゆかりがあり、細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝えられる墓もある。
     同年郷里出石に戻りましたが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下りました。沢庵は江戸に留まることを望みませんでしたが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来きませんでした。1639年、家光は萬松山東海寺を創建し沢庵を住職とします。家光は政事に関する相談もたびたび行いましたが、これは家光による懐柔工作であると考えられています。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示しています。1644年、土岐頼行が萬松山東海寺に出羽国上山の春雨庵を模した塔中を、沢庵のために建立しました。晩年の沢庵の言動は変節とも、家光に取り込まれたとする説もありますが、最終的には紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのです。

    墓所 (宗鏡寺)

    1646年1月27日(正保2年12月11日)、沢庵は江戸で没した。『墓碑は建ててはならぬ』の遺誡を残しているが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺 (東京都品川区)に墓がある。

    沢庵漬け

     ダイコンの漬物であるいわゆる沢庵漬けは一伝に沢庵が考えたといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたともいう。後者の説によれば、家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられるが風聞の域を出ない。
    宗鏡寺

    紫衣[*1]…紫衣とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。

    出石皿そば

     江戸時代中期の宝永3年(1706年)信濃国上田藩より但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、上田からそば職人を連れてきたのが「出石そば」の始まりといわれています。現在は割り子そばの形態をとっており、この形式となったのは幕末の頃で、屋台で供される際に持ち運びが便利な「てしょう」と呼ばれる小皿に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされます。昭和30年代(1955年〜1964年)に「出石皿そば」と呼称されるようになったと言われます。

     店舗では通常1人前5皿で供されます。1皿に盛られた蕎麦の量は2〜3口程度であり、1皿単位での追加注文も可能な店が多い。蕎麦は実を丸引きしており、色は茶褐色である。徳利に入ったダシと、薬味として刻みネギ・おろし大根・おろしワサビ・トロロ・生鶏卵1個などが出されます。蕎麦猪口にダシと薬味を好み分入れ蕎麦を浸して食する。以前は出雲割り子そばのように皿に直接ダシと薬味をかけて食していたという。 「挽きたて」「打ちたて」「茹がきたて」の”三たて”が伝統的な信条とされています。

     蕎麦を盛る小皿は出石焼で各店舗オリジナルの絵付けがされており、各店の皿を見るのも楽しみ方の一つである。
    出石観光マップ

    出石そば 出石町皿そば組合

    但馬の偉人

    出典: 「郷土の城ものがたり−但馬編」兵庫県学校厚生会
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    近世江戸紫(えどむらさき)#745399最初のページ戻る次へ但馬の城
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