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近世江戸紫(えどむらさき)#745399 最初のページ戻る次へ

幕藩体制

江戸時代の大名

 大名とは大名主より転じた語。大いに名のとどろく者のことを指す。対になるのは小名。もともと地方で勢力をふるう者のことを言った。

 江戸時代の大名は、家格(かかく)・官位・石高・役職・伺候席によって序列が決められました。一万石未満の武士のうち幕府直属の武士を直参という。また、大名の格式として領地が一国以上またはそれに準ずる石高であるものを国主、城をもつものを城主(城主格)、城をもたないものを無城といって区別し、大名が江戸城に参勤した際に詰める部屋も格式に応じて分けられました。詳しくは伺候席を参照のこと。

 大名は武家諸法度や参勤交代の制度によって、幕府から統制を受けた。その他、御手伝と称する課役や江戸時代末期には海岸防備(台場の建設等)を命ぜられることもあり、大名は常に経済的にも苦しかった。

  大名は以下の大名の家格に分類されました。

  • 親藩…徳川氏の一族:「徳川氏」を称する御三家、御三卿(田安家、一橋家、清水家)、一門(「松平氏」)。

     将軍家同様に徳川姓を名乗ることが許された御三家を設置し、9男の義直を尾張藩(61万9,500石)、10男の頼宣を紀州藩(55万5,000石)、11男の頼房を水戸藩(35万石)に封じた。さらに2代将軍徳川秀忠の兄で家康の2男である結城秀康を越前藩に封じたのをはじめ、全国に徳川一門の大名を置いた。

    松平氏(まつだいらし)

     室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体です。江戸時代は徳川将軍家の一門、或いは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、徳川氏と縁戚関係にある一部の有力な譜代大名や外様大名にも松平の名乗りが許され、これらの諸家は江戸時代には公称において松平の姓を用いたが、ほとんどが明治維新のとき旧姓に復した。

  • 譜代大名…関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた家臣

     譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格とし、徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。江戸幕府の特徴として、譜代大名が幕府の要職を独占したことです。つまり、徳川将軍個人の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組において独裁体制を敷いていたのです。またこの事により、あまり政治に関与しなかった将軍であっても、幕閣の完全な傀儡になる事はなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となりました。。幕府の要職には全て譜代大名をもって充てた。幕府の軍事力を確保するとともに幕府の大老はじめ老中を中心とした重要な役職につけ、幕政を輔弼させた。譜代大名は権力と軍事力の分離のために比較的石高は低くされました。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となりました。

  • 外様大名…関ヶ原の戦い以降から徳川家に仕え始めた大名(関ヶ原の戦いで東軍として戦った豊臣系大名も含む)

     外様大名は関ヶ原以降、従属した大名であり、関ヶ原では徳川家に対抗した家も多い。それだけに幕府の警戒は強く、隠密による諜報活動を積極的に行い、不正や謀叛の恐れがある場合は、厳しく改易に処した。

  • 旗本・御家人…江戸時代の旗本は、三河から勃興した徳川氏の家臣が代表的です。ほかに北条、武田、今川の遺臣、大名の一族や、改易大名の名跡を継ぐ者、遠隔地の豪族で大名になりきれなかった名族、かつて戦国大名や、守護大名などであった赤松、畠山、別所、北条、富樫、最上、山名、武田、今川、大友、織田、金森、滝川、筒井、土岐、福島正則の嫡流、庶流の末裔などから構成されています。

     石高が8,000石前後で大名待遇の家格を持つ「大身旗本(3,000石以上の寄合や旗本で守名乗り(かみなのり・官名名乗り)ができた二千石以上の者)」及び、徳川将軍家の本家筋に当たる松平郷松平家(420石)は、交代寄合と呼ばれました。御目見(おめみえ:江戸時代、大名・旗本が将軍に直接お目通りすること)が許される資格が旗本、御目見以下の家格の者は御家人と呼ばれました。

     江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う大番(番方)、文官(役方、行政・司法・財政を担当)である町奉行・勘定奉行・大目付・目付などの役職についた。

    1. 交代寄合(こうたいよりあい)…江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。特別の由緒がある地方の豪族や大名家の分家、改易された大名家の名跡を継ぐもの等が列せられました。伺候席は、“帝鑑間”または“柳間”とされ大名と同等の待遇を受けた。

      例…山名家 但馬七味郡村岡領主 柳間詰 屋形号

    2. 高家…儀礼等を司る役目を負う吉良・畠山・今川・武田等の旧名門の家格出身者は家臣団とは別格の高家と呼ばれました。高家ははじめ吉良家など3家でしたが、次第に増加して26家となりました。高家は1,000石級の者が多く、家柄や官位に比して、家禄は少ないことが多い。高家肝煎は、10万石級の大名と同じ官位が与えられることもあったが、石高は最高でも5,000石未満であった。

    大名に与える官位

  • 従五位下(諸大夫・五位) - 一般大名
  • 従四位下(四品・しほん)

    官職は

    1. 侍従
      1. 国持大名(黒田、鍋島など)は従四位下侍従
      2. 南部・柳沢と準国主(丹羽、立花など)は初め従四位下または従五位下のち従四位下侍従に昇進
      3. 織田も江戸初期は準国主に次ぐ格式(「明和事件」「宇陀崩れ」で家格降下)
      4. 譜代の一部(榊原など)は従五位下のち侍従に昇進
      5. 譜代並・願い譜代の一部(真田など)は従五位下のち従四位下に昇進
    2. 権少将 - 国持大名の一部、親藩(津山、越前など)、親藩並(鳥取池田など)、連枝(高須、西条など)、井伊
    3. 権中将 - 保科(会津松平)、島津、伊達
    4. 参議(宰相) - 前田、家門(館林、甲府)
    5. 権中納言(黄門) - 水戸徳川
    6. 権大納言(亜相) - 尾張徳川、紀州徳川

    守名乗り…禁中並公家諸法度により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離した。武家官位では、「?守」「?頭」等の官名名乗りは官位とはされず、叙爵された者が称しているものとされた。氏や名字の次、諱の前に入れて名乗る。ただし、この官名名乗りにおいても幕府の許可が必要であり、次のとおり一部の官名に特例を設けるなどして大名統制に利用している。

  • 同姓同官名の禁止
  • 松平姓の国持大名による領国名優先使用(越前松平家の越前守など)
  • 大藩の国持大名による領国名優先使用(仙台伊達家の陸奥守、薩摩島津家の薩摩守、福岡黒田家の筑前守、佐賀鍋島家の肥前守など)
  • 大廊下、大広間詰め大名以外の老中と同一名乗り禁止
  • 国持大名以外の領国名使用
  • 幕府と朝廷をはばかる三河守(津山松平家のみ可)や武蔵守や山城守(慶応3年3月25日より)の禁止

    [武家官位の例]

    前田筑前守利家 加賀初代藩主 前田利家〔従四位下→従二位、左近衛権少将兼筑前守→権大納言〕

    別名 又左衞門、又左、又四郎、孫四郎(通称)、 槍の又左衞門、槍の又左(仇名)、 羽柴越中少将、羽柴筑前守

    姓を授ける習慣である賜姓→松平加賀守

  • 御家人(ごけにん)  平安時代には、貴族や武家の棟梁に仕える武士を「家人」と呼んでおり、鎌倉幕府が成立すると家人は武士の身分を表す言葉となり、鎌倉殿と主従関係を結び従者となった武士を、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて御家人と呼ぶようになりました。御家人は恩恵を受ける見返りとして、鎌倉殿へ軍事と公事の奉仕義務を負います。

     江戸時代には、御家人は知行が1万石未満の徳川将軍家の直参家臣団(直臣)のうち、特に上記の御目見得以上の家格の直参を旗本と呼ぶのに対し、御目見得以下(将軍に直接謁見できない)の家格に位置付けられた者を指す用語となりました。近世の御家人の多くは、戦場においては徒士の武士、平時においては与力・同心として下級官吏としての職務や警備を務めた人々です。御家人の大半は、知行地を持たない30俵以上、80俵取り未満の蔵米取で占められ、知行地を持つ者でも200石取り程度の小身でした。

     御家人は、原則として、乗り物や、馬に乗ることは許されず、家に玄関を設けることができませんでした(乗り物には、扉のない篭は含まれない)。例外として、奉行所の与力となると、馬上が許されることがありました。有能な御家人は旗本の就く上位の役職に登用されることもあり、原則として3代続けて旗本の役職に就任すれば、旗本の家格になりうる資格を得られました。ただし、旗本と御家人の定義は直参のうち謁見できるかどうかであったので、家禄(俸禄)の高低は家格の決定に関係がなく、旗本で最も小禄であった者は50俵程度で、御家人の大半よりも少ない者もいました。200石(俵)取り以上の御家人もいましたが、400石を越える御家人は存在しませんでした。江戸時代中期以降は、地方知行制が崩れ、蔵米取に移行したり旗本に昇進したりしため、知行地を持つ御家人はほとんどいなくなりました。

     御家人の多くは、江戸時代中期以降、非常に窮乏した。諸藩の藩士は、家禄が100石(俵)あれば一応、安定した恵まれた生活を送れたとされるのに対し、幕府の御家人は100石(俵)取りであっても生活はかなり苦しかったと言われる。御家人は大都市の江戸に定住していたために常に都市の物価高に悩まされ、また諸藩では御家人と同じ程度の家禄を受けている微禄な藩士たちは給人地と呼ばれる農地を給付され、それを耕す半農生活で家計を支えることができたが、都市部の御家人にはそのような手段も取ることができなかったことが理由としてあげられる。窮乏した御家人たちは、内職を公然と行って家計を支えることが一般的であった。

    与力・同心

     与力(よりき)とは、鎌倉時代には単に加勢する人のことを指しました。寄騎とも書きます。その後、大名または有力武将に従う下級武士のことを指すことが多くなりました。江戸時代以前には、足軽大将など中級武士が大身の武士の指揮下に入る事を意味する語句としても用いられていました。戦国時代には、「寄子」(よりこ=有力武将(寄親)に対する在地土豪)の意味で用いられることが多く、彼らは下級武士ではなく、在地の領主(在地土豪)。数千貫文の土地を持つ例も珍しくありませんでした。また、より大きな大名に加勢として附属させられた与力大名の例もありました。代表例としては、柴田勝家に附属した前田利家など。

     江戸幕府における与力は、同心とともに配属され、上官の補佐にあたりました。そのなかで有名なものは、町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたりました。与力には、町奉行直属の個人的な家臣である内与力と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の2種類がありました。いわば、警察署長に相当するものと見てよいものです。

     与力は、馬上が許され、与力組頭クラスは、二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いでいましたが、将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されませんでした。役宅としては300坪程度の屋敷が与えられました。

     同心は、元々中世後期の日本において「一致団結」を意味する語として使用され、「一味」や「一揆」と同義語でした。江戸幕府の下級役人の一種で、諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭などの配下で、与力の下で庶務・警察などの公務を行いました。また諸藩においても、藩直属の足軽階級の正式名称を同心としているところも少なくありません。徳川家が幕府を開いたときに、直参の足軽を全て同心としたため、忍者を祖先とする伊賀同心、甲賀同心、鉄砲組の百人組、郷士の八王子千人同心等、様々な「同心」職ができた。 このように、江戸時代初期から同心となった者は、特に「譜代」と呼ばれ、無役となっても俸禄を受けることができ、子孫にこれを受け継がせることができました。

     江戸町奉行の下で、江戸の司法・行政・警察事務を務めた町方同心、市中見廻りを行なった廻り方同心がよく知られていますが、この町方・廻り方同心や、火付盗賊改方配下の同心は、捜査の補助や情報源として岡っ引、目明しなどと称する私的な手先を使用することが多くありました。これらのことから推測して、現在時代劇等で岡っ引や目明しがいわゆる現代の巡査階級の警察官のように言われることがありますが、彼らはあくまで同心の私的使用人にすぎず、正規の町奉行所構成員ではありません。むしろ、同心が現代の巡査階級の警察官に相当するといえます。例:銭形平次、『半七捕物帳』

    江戸時代の岡っ引について、史実とは異なる描写が多い。

  • 岡っ引は無給、または町奉行所の同心から受け取るわずかな給金で、いわば末端の警吏・同心の私兵的立場で活動したとされている。そのため、岡っ引きを本業にして生計を立てるのは困難である(岡っ引の中には強請や恐喝まがいの行為で金を集めていた連中もいて、何度も岡っ引を使うのを禁止させる御触れが出ていたほど)。よって、平次のように家業をもたない者が岡っ引としての活動に専念することは考えられない。
  • 平次らは常に十手を預かっているかのように描かれているが、岡っ引は常に十手を持っていたわけではなく、奉行所からの要請に基づき事件の度に奉行所に十手を取りに行ったとされている。また、十手を携帯する際も見えるように帯に挿すのではなく、懐などに隠し持っていた。
  • 十手に房が付いていることがあるが、房は同心以上に許されるもので岡っ引の十手には付かない。ましてや紫色の房は要職の者が付けるものであり、岡っ引が付けることはありえない。

     幕府の同心は、幕臣であっても旗本ではなく御家人身分であるが、同心筆頭クラスは80石(俵)5人扶持程度の俸禄を受けたので、実質的には100石近い。これは1万石の大名の重臣に匹敵するものである。  町奉行配下の与力と同心の多くは八丁堀に屋敷を拝領し(いわば現代の警察官舎)、しばしば、同心の代名詞とされました。ちなみにこの屋敷は与力が約300坪、同心が約100坪程度の屋敷を拝領された。いわゆる汚れ仕事として嫌われたために、実質的には世襲ではあったものの、形式的には代替わりの際には新規召抱えの体裁を踏んだ。最下級クラスでは二人扶持程度の俸禄でしかなかったものの、実際は諸大名家や町屋からの付け届けなどでかなりの実収入があり、そのため岡っ引や目明しのような私的使用人を雇う余裕もありました。

    例:必殺シリーズの中村主水(もんど:架空人物でテレビ番組オリジナルのキャラクターである)

    1972年9月の『必殺仕掛人』に始まり、1973年4月21日から放送された第二作『必殺仕置人』から中村主水が登場。かつて佐渡島で同心見習いをしていたが、登場当初は北町奉行所勤務であった。第6作『必殺仕置屋稼業』で南町奉行所へ転属。その後、仕置人仲間の市松を護送中に逃した罰で、定町廻りから牢屋見廻りへと左遷させられる。定町廻りに復帰させた上司が自分の命を狙っていることを知り、再び仕置人となる。20世紀最後の登場作となった映画『必殺! 主水死す』では、いつものように南町の定町廻りを務めていた。そして、かつての仕事人仲間だった権の四郎(津川雅彦)との抗争の果てにその生涯を閉じる。2007年7月7日に放映された特番『必殺仕事人2007』では、渡辺小五郎(東山紀之)が定町廻り同心として着任したため、中村主水(藤田まこと)はなぜか、生き返り書庫番に転属となっていた。映画とテレビシリーズは別物であると考えたい。続く『必殺仕事人2009』においては、さらに書庫番から木挽町の自身番(番屋・町交番のようなもの)へ配置換え(降格)されている。

  • 地方政治

     江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が原則的には一代に限り土地統治を認められた封建体制です。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なりますが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとりました。身分制についても同じです。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは大目付が発する監察使にその行政を監視規制されていました。このため武家諸法度違反で相当数の大名が改易・減封処分を受けましたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われました。

     大名には幕府によりその格式に定められた参勤交代と御手伝いの義務が課せられました。これが大名貧困化の大きな原因となりました。これを打開するために藩政改革が18〜19世紀にかけて各藩で実施される(早いところでは土佐藩が17世紀中葉に行った)。初期は倹約と藩札発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは紀州藩の「熊野三山寄付貸付」があり、大名みずからが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、仙台藩が大坂の升屋の番頭である山片蟠桃に藩財政を総覧させたように財政を商人に任せるような藩も出てきました。

     一部の国持大名の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた飛び地を持っていました(相給)。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られます。京都付近の淀藩は山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていたが、これは稲葉家が上総から淀に移封する際に付いてきた物と考えられます。こういう例は意外と多いようです。

     幕府の各大名の支配方法として、参勤交代と御手伝いの義務のほか、将軍の娘をもらったり息子を養嗣子としたり、お金を貸し与えたりしました。また、大名と大名の間を婚姻関係や養子関係で結んだりしています。なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への知行体制を 5代徳川綱吉の頃の18世紀初旬までに地方知行制(現地領主制)から俸禄制(サラリー制)へと変遷させています。

     江戸時代初期、各藩は隣接する藩との間で境界争いが盛んとなりました。有名な所では久保田藩と盛岡藩が干戈を交えるところまで発展した鹿角領争いですが、これ以外にも仙台藩と相馬藩、萩藩と徳山藩などがあります。これらは中期ごろまでに大体解決し、このとき決定した境界は現在にも引き継がれています。

     農村では名主、庄屋が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされます(地方知行制を温存した仙台藩など例外はある)。この名主、庄屋は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、苗字帯刀あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられるものも多くいました。また大きな村では複数名の名主、庄屋が寄合を開いて村を治めた。かれらは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もありました。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端をになう下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もありました。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなりました。

     また、読み書きを中心とした寺子屋や郷校が城下町のみならず農村部にも建てられたため、日本人の識字率は高かくなりました。また岡山藩の閑谷学校を初めとして、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作りました(→青溪書院)。このようなことが最上徳内や間宮林蔵などの農村出身者の活躍に一枚買っているといえまする。

     幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもありました。例えば、三河の水野氏が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入され、福山地方の方言に三河方言が混ざっているのです。また、信濃を統治していた仙石氏が但馬出石に転封した際、信濃の蕎麦を出石に持ち込んだため、出石そばが発祥しました。このような物の交流は各地で起こっていますが、これが現在の名産物になっている地域も多いのです。北部但馬弁のアクセントが関西弁とは異なり中部地方に近いのもそのためかも知れません。

    藩という呼称

     藩という呼び方がされたのは、意外なことに、じつは『江戸幕府は藩という呼称を、一度も公式には使用していない」(勝田政治『廃藩置県』(講談社))のだそうです。

     「天領」「」の用語は江戸時代においては公式文書で使用されることはなく、明治維新後に正式用語として認められたものです。また「幕府」も「(御)公儀」と呼ばれていました。

     「天領」は明治初期に旧幕府直轄領が天皇の御料(直轄領)になったときに天領と呼ばれるようになったもので、江戸時代には御領、御料所、公儀御料などと呼ばれていました。

     江戸時代の大名領は、今の県とは違って単なる地理的な行政区分ではありませんでした。殿様の支配地で、「京極飛騨守様御領分」といった言い方が正式です。飛び地も多く、地域としてのまとまりは後の県と比べると弱いものでした。公式の制度上は藩と称されたことはありません。「藩主」より、封地名に「侯」をつけて呼び表されることが多く、公的には藩士ではなく「京極飛騨守家中」や「家来」のような呼称が用いられていました。庶民は「京極の殿様の御領地」という言い方です。

     自分の出身や住んでいる場所を言うときには、古くから伝わる但馬国城崎郡豊岡村といった言い方が使われていたそうです。公式には「藩」とは明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけの制度で、日本史で言う藩は、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す後世につくられた歴史用語です。江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来するもので、いわば大名領の通称です。江戸時代の後半から広く使用されるようになりました。

     便宜上、今日の歴史用語では藩の領主である大名のことを「藩主」、大名の家臣のことを「藩士」と言い、藩に対して幕府の直轄領のことを「天領」と呼びます。

    近世の都市

     城下町は、日本の歴史が中世から近世へと大きく転換する過程で生まれた新しい都市形成です。近世の幕藩体制国家における標準的な都市として、十六世紀末から十七世紀初頭頃までの比較的短期間の間に全国で一斉に展開しました。近世の城下町は他の東アジア諸国には見られない日本独自の都市類型でした。

     近世の研究の一つの到達点である吉田伸之氏の城下町論によると、都市の成立を農村すなわち在地社会からの分離と位置づけ、非農耕的労働の分離とその定住域の形成と捉えています。武士階級がそれらを在地社会から分離し、集中させることによって形成された都市が城下町であるとしています。つまり、兵農分離・農商工分離という近世国家及び社会の基本的な編成結果として城下町が成立したのです。

     城下町の基本的な構成要素として、(1)城郭と領主の館、(2)武家地、(3)足軽町、(4)寺社地、(5)町人地の5つを挙げています。

     近世における日本の首都[*1]は江戸と京都でした。将軍と幕府、天皇と朝廷に権力が分化しており、中世の鎌倉と京都も同様です。江戸は1580(天正十八)年の徳川家康の入都後、本格的な建設が開始された都市です。1657(明暦三)年の明暦大火を契機とする大規模な都市改造を経て、ほぼその骨格が形成されました。1670年頃の絵図では江戸城を中心に東西約12km、南北約8kmですが、これ以後も都市域は拡大していきます。江戸の人口は、1609年ごろに15万人と伝えられますが、江戸の人口の最古の記録は、『正宝事録』の註釈として記された元禄六年(1693年)六月十七日の35万3588人であり、18世紀初頭には100万人(ただし、武士の人口は、参勤交代に伴う地方からの単身赴任者など、流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から100万人程度までとかなりの幅があり、最盛期の江戸の総人口も68万人から150万人まで様々な推定値が出されている。)を超え、世界一ないしはそれに匹敵する規模であったと推定されています。成人男性の識字率も幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、ロシア人革命家メーチニコフや、トロイア遺跡を発見したドイツ人のシュリーマンらが、驚きを以って書いています。また、武家だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられています。その様に世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができます。これは単に空間的な規模の問題だけではなく、江戸の都市社会を構成する諸要素の豊富さ複雑さという点においても、群を抜いているといえるでしょう。江戸城は堅固な城壁と幾重にも巡らせた水堀によって厳重に防御されています。その一方で都市全体を取り囲む城壁は存在しません。これは江戸のみならず城下町一般に共通する特徴であり、他の東アジア諸国の首都と異なっている点でもあります。

     京都は、794(延暦十三)年の平安京遷都以来、1300年近い歴史を有する都市です。1637年の地図から、近世の京都は東西約3km、南北約8km程度の細長い都市であることが分かります。これは正方形に近い形の都市として建設された平安京の東半分にあたる左京の範囲とほぼ重なっており、京域を越えて北側と東側に拡大した地域も含んでいます。十六世紀末に豊臣秀吉が京都を取り囲むように造営した御土居と呼ばれる土塁の範囲内、すなわち洛中と呼ばれます。近世の京都は幕府の直轄地で人口は約30〜35万人、これは同じく幕府の直轄地であった大坂とほぼ同じで、江戸に次ぐものでした。とはいえ江戸の約三分の一程度であり、江戸の巨大さが再確認できるでしょう。ただし城下町一般には含まれない京都独自の都市生=都市的要素が存在しました。それは内裏(だいり)公家町です。近世において京都が首都として担った機能は、これ以外に宗教的機能と経済的機能があります。

     京都及びその周辺には仏教諸派の総本山や神社の総本宮が集中しており、京都は宗教都市としての側面も有していました。経済的機能については、京都が近世において全国最大の手工業都市であったことです。西陣織をはじめとして、現代の京都の伝統産業とされているものは、いずれも当時の手工業です。

    日本の首都[*1]…日本で「首都」という語が一般化したのは第二次世界大戦後のことです。1868年(明治元年)以来、東京は主に「帝都」と称され、1950年(昭和25年)の「首都建設法」制定以降になって「首都」の語が普及した。2009年(平成21年)現在、現行法で直接的な表現で定めるものはないものの、一般的には「首都建設法」(昭和25年法律第219号:廃止)により定められた東京都です。1956年(昭和31年)の「首都建設法」廃止後は、現行法で「首都は東京都」と直接的な表現を用いて定めるものはないが、東京都が首都とみなされる理由としては、日本国憲法で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定される天皇が常在し、皇居が東京都に所在すること、同じく憲法で国会(立法府)、首相官邸や中央省庁(行政府)、最高裁判所(司法府)という三権の最高機関のいずれもが東京都(中でも千代田区)に所在することが挙げられる。国会召集の詔書には、国会議事堂が所在する「東京に召集する」と書かれる。また、国際的にも東京都が日本の首都とみなされている。


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