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近世江戸紫(えどむらさき)#745399最初のページ戻る次へ

江戸時代

概要出石藩豊岡藩村岡藩丹波・丹後の藩幕末〜明治開港と不平等条約植民地の歴史外国人居留地

概要

目次

  • 概要
  • 幕藩体制
  • 兵農分離
  • 江戸城
  • 江戸時代の大名
  • 地方政治
  • 藩という呼称
  • 近世の都市
  • 政治と宗教の分離
  • オランダの役割
  •  日本の近世は、武家政権による統一支配として江戸時代の原型が成立する織田信長の上洛(1568年)から徳川慶喜の大政奉還(1867年)まで、すなわち、安土桃山時代と江戸時代をあわせて近世とする説が一般的です。しかし、織田政権は地方の戦国大名による政治機構と変わりがないとみなし、豊臣政権からを近世とすることもあります。そのため織田政権を中央政権と見なすか否かで、中世と近世の境界が若干変わる見解が生まれます。

     江戸時代は、1603年(慶長8年)〜1867年(慶応3年) 慶長8年2月12日(1603年3月24日)に江戸幕府によって日本が統治されていた時代を指す日本の歴史の時代区分。

     徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸(現在の東京)に幕府が開かれた時を始まりとし、慶応3年10月14日(1867年11月15日)に大政奉還するまでの264年間。

     長く続いた戦国時代も、関ヶ原の戦いを境に終焉を迎えます。誕生した江戸幕府は、武家諸法度の制定や禁中並公家諸法度など諸大名や朝廷に対し、徹底した法治体制を敷きました。

    幕藩体制

     幕藩体制は、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念で、戦前段階には狭義に政治体制自体を指していましたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになりました。

     江戸幕府の支配体制は、中央集権国家が成立した律令制の時代や、前政権の織田政権・豊臣政権が、君主に権力が集中する形態を取って、太閤検地や刀狩令など日本全国の土地や民衆のすべてを管理する中央集権となっているのに対し、中央政府である江戸幕府を全ての武士の頂点とし、最高の統治機関としながらも、各大名がそれぞれの領地においてある程度独立した地方政府というべき統治機構()を形成していることと、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制をその基礎においていることが特徴です。

     諸大名を親藩、譜代大名、外様大名に分け、参勤交代や改易によってこれを統制しました。また、士農工商(士農工商という言葉は当時の階級を正確に表してはいないと指摘されている。)などといわれる身分制度によって武士を支配階級に位置づけられました。

     石高制については安土桃山時代に兵農分離が行われ検地によって徐々に形成されていたものですが、幕藩体制を形作る諸制度は初代将軍徳川家康以降、2代徳川秀忠、3代徳川家光の時代に、鎖国体制や知行制、村請制などが確立されていきました。武家諸法度や朝廷に対する禁中並公家諸法度、寺社への統制なども行いました。

     江戸時代には商人資本の成長や農村への商品経済の浸透、それらによる身分制の変質など、村落共同体の動揺は一揆や打ちこわしを招き、幕府や諸藩は幕政改革や藩政改革を行い再編を試みます。

     幕末には幕府は鎖国政策を改めて開国し、朝廷権威も伸長して公武合体路線が進められます。大政奉還、王政復古により解体され、明治初期には旧藩による統治は維持されますが、中央集権政策のもと版籍奉還、廃藩置県により幕藩体制は終結します。

     将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内に藩を形成し、支配していました。寛文4年(1664年)には全国の大名に一斉に朱印状を交付する寛文印知が行なわれました。なお全国の要所は将軍の直轄地(天領)として大名は置かず代わりに代官を置きました。多数の親藩大名に大領を持たせ、その合間に外様大名を配置し、譜代大名には小領と中央政治に関与する権利を与えるという絶妙の分割統治策を実施しました。

     江戸幕府の支配下、(水戸藩を除く)各藩大名に対して参勤交代を強いたり、築城・治水工事を命じたりして、大きな財政負担を与えることで弱体化させ、江戸幕府に対して武力反抗できないようにする政策を執っっていました。

     初代家康と二代秀忠、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十一代家斉の治世は将軍親政で政治が行なわれましたが、それ以外の将軍は幕閣に政治を任せるか、前将軍(または将軍の父)である大御所に唯々諾々と従う存在であったかのように思われがちです。しかしこれは徳川期及び明治・大正期における大いなる誤解であって、歴代将軍の中でも一番独裁性の強かった徳川家康の治世においても、諌言したり政策立案する幕閣は存在したのでした。家康はむしろ諌言する家臣を好み、また意見の相違で家臣とつかみ合いの喧嘩をする事もあったといいます。また逆に三代将軍徳川家光の場合、治世の初期は大御所・徳川秀忠に従う存在でしかなく、秀忠死後は政治のかなりの部分を幕閣に任せており、家光が親政を行なったというのは幕閣がそのように宣伝した結果であるとも言われています。また、歴代の徳川将軍は能力の優劣はあったとしても、それぞれにおいてそれなりに政治に関与していた事実は確かなようです。基本的には老中を中心とする幕閣による合議で決定された事案を将軍が決裁するシステムが存続しました。

    兵農分離

     儒教において社会を構成する主要な身分(官吏・百姓・職人・商人)の上下関係を指す概念です。「四民」ともいう。ただし、江戸幕府では道徳的実践を重んじる朱子学が「官学」と定められ、「士」は「侍」に置き換えられ、工と商に区別はなく一括して町人と認識されており、また百姓(農)と「町人」との間に序列はなかった。実際には貨幣経済や産業の発達により商人が経済の主導権を握るようになり、武士が商人に依存するようになりました。現実の江戸時代の身分制度は未解明な部分が多く、今後の実証的な研究が待たれる面が大きい。

     また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは城下に住み藩主から俸禄を貰っていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末に活躍した人びとには、勤皇方、幕府方を問わず、下級藩士・郷士・町人など軽輩階層出身者であった者が多い。

     戦国時代に比較的流動性があった侍と百姓が固定化されるのが天正9年(1582年)頃から始まった太閤検地や天正16年(1588年)の刀狩などによってです。こうした兵農分離政策は江戸時代に一層強化され身分の移動は少なくなりました。こうした中、儒教では利益の追求は欲望を生み出して人間を堕落の方向に向かわせると考えられ、商工業に携わること自体が本来の人間があるべき姿に反する行為として否定的に捉えられていたが、実際には貨幣経済や産業の発達により商人が経済の主導権を握るようになり、武士が商人に依存するようになりました。

     百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。また、町人の職業が「工」か「商」かを制度的に区別することはなく、商人を職人より冷遇する制度もなかった。そして百姓の生業も農業に限られるものではなく、百姓身分で「商」や「工」に属するはずの海運業や手工業などによって財を成した者も多くいた。それ以外に村内、町内には細かな身分構造が存在していた。公家・僧侶・神主・検校・役者なども相当数おり、これらも公認の身分を保持していた。

    江戸城

     江戸に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継です。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の江戸本丸・二の丸辺りの台地上に置かれていたとされています。徳川幕府の公文書である徳川実紀では、15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城した平山城が最初の江戸城とされています。

     天正18年(1590年)、豊臣秀吉に後北条氏旧領の関東六州(武蔵・相模・伊豆・上野・下総・上総)を与えられて、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、居城としました。

     徳川家康が入城した当初は、質素な城で、太田道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模な城であったため、徳川家は開幕までにそれまでの本丸(元は二つの郭であったが入城後、間の堀を埋めて一つの郭にする)・二の丸に加え、西の丸・三の丸・吹上・北の丸を増築。また道三掘や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っています。

     1603年(慶長8年) 徳川家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。本丸・二の丸・三の丸(現在の皇居東御苑)に加え、西の丸(皇居)、西の丸下(皇居外苑)、吹上(皇居吹上御苑)、北の丸(北の丸公園)の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。工事には日本全国の大名が動員されました。

     1606年(慶長11年)、また諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、 外郭石壁普請:細川忠興(豊前小倉藩主)、前田利常(加賀藩主)、池田輝政(姫路藩主)、加藤清正(肥後藩主)、福島正則(安芸・備後藩主)、浅野幸長(紀州藩主)、黒田長政(筑前福岡藩主)、田中吉政(筑後藩主)、鍋島勝茂(肥前佐賀藩主)、堀尾吉晴(出雲松江藩主)、山内忠義(土佐高知2代目藩主)、毛利秀就(長州藩主)、有馬豊氏(丹波福知山藩主)、生駒一正(讃岐丸亀藩主)、寺沢広高(肥前唐津藩主)、蜂須賀至鎮(阿波徳島藩主)、藤堂高虎(伊勢津藩主)、京極高知(丹後宮津藩主)、中村一忠(伯耆米子藩主)、加藤嘉明(伊予松山藩主)

    天守台の築造:黒田長政(筑前福岡藩主)

    石垣普請:山内一豊(土佐高知初代目藩主)、藤堂高虎、木下延俊(豊後日出藩主)

    本丸の普請:吉川広正(長州岩国藩主)、毛利秀就、

    城廻の普請:遠藤慶隆(美濃八幡藩主)

    など。

     徳川家康改築以降、本丸の天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度築かれている。慶長度には本丸の中心付近に建てられたが、元和期に現在の位置に変えられたと考えられている。慶長度の天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの動機は大坂城移築や仙台移築などとも言われ不明である。その元和度の天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されている。これの動機も秀忠・家光の親子関係に起因する説や、高層建築による漆喰の早期剥離に対する是正工事といった説があるが、詳しい所は不明である。寛永度の天守は五層六階の独立式層塔型で銅板張りの壁に銅瓦葺という姿であったが、明暦3年(1657)の明暦の大火で五層の天守閣を含めた城構の多くを焼失している。幸い、詳しい図面も残されているため唯一ほぼ正確な姿が判っている。焼失後、ただちに再建が計画され、現在も残る天守台が前田綱紀によって築かれた。計画図も作成されたが、「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」と言う意見と保科正之の江戸復興優先の方針により中止された。以降、名目上天守のない城となり再建されていません。本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。

    本丸御殿「表向」


    「東京江戸めぐり」さんより
    南(左)から北(右)に向かって順に「表向」、「中奥」、 「大奥」があった。その後も、江戸城は度々火災を被った。本丸は文久度(1863年)の火災で焼失したまま再建されず、西の丸に機能を移したまま明治維新を迎えている。

    伺候席(しこうせき)

    伺候席とは江戸城に登城した大名、旗本が将軍に御目見得(拝謁)する順番を待っていた控席のこと。殿席とも。

    伺候席は拝謁者の家格、官位、役職等により分けられており、大名家にとってその家格を表すものとして重視されていた。

    大名が詰める席には『大廊下』、『大広間』、『溜間』、『帝鑑間』、『柳間』、『雁間』、『菊間広縁(菊間縁頬)』の七つがあり、それぞれに詰める大名は出自や官位を元に幕府により定められていた。ただし、役職に就任した場合は、その役職に対して定められた席(奏者番ならば芙蓉間、大番頭なら菊間等)に詰めた。

    大廊下

    畳敷きの廊下兼事務室になっており、上、下に分かれていた。上の部屋には徳川御三家と御三卿、下の部屋には前田家、島津家など最高位の大名が詰めた。

    (黒丸A)白書院

    上段、下段が西側に、帝鑑之間と連歌之間が東隣にある。

    (黒丸B)黒書院

    …庭を間にして白書院の北側にあり、竹の廊下で結ばれている。上段、下段を西側にとり、東側には西湖之間、囲炉裏之間がある。

    大広間も白書院も本丸の中では格式の高い殿舎で、この二つをつなぐのが有名な「松の廊下」(ピンク部分)で、薄紫部分は中庭になっている。

    大廊下(おおろうか)

    将軍家の親族が詰めた殿席。上之部屋と下之部屋の二つに仕切られていた。上之部屋は御三家が詰めた。江戸初期は、三代将軍家光の血筋である御両典(甲府藩、館林藩)も詰めた。中期以降、八代将軍吉宗によって新設された御三卿の当主も詰めるようになりました。また、家光の正室本理院孝子の弟鷹司信平が大名に取り立てられ、松平姓を許され、上野吉井に一万石を給されたが、この鷹司松平家も上之部屋に詰めた。

    下之部屋は加賀藩前田家のほか、徳川家連枝の内でも制外の家といわれた越前松平家が詰めていた。江戸後期になると、十一代将軍家斉の男子を養子に迎えたり、女子を正室に迎えたりした大名が多発した。たとえば、阿波藩蜂須賀家、津山藩松平家、明石藩松平家などです。これらの当主は大広間から大廊下に転じる場合があった。

    ただし、大廊下と大広間は、将軍家との親疎の違いであり、大廊下が大広間よりも格が上ということを意味しない。大広間席、帝鑑間席、柳間席の大名は「表大名」といわれ、五節句や月次のみ登城した。

    (黒丸@)大広間(おおびろま)

    四位以上の外様国持大名詰所。伊達、細川、島津、毛利、黒田、池田、浅野など有力国持大名(国主)および准国持大名(准国主)の席。国主以外でも、四品(四位)以上の官位を持つ親藩および外様大名はこの席に列席した。「大広間」は西側に上段、中段、下段があり、その東隣に、二之間、続いて三之間、松之間がある。

    例:明石藩主(親藩)松平(越前)慶憲

    (7)溜間(たまりのま)

    別名黒書院溜之間(くろしょいんたまりのま)。通称を松溜(まつだまり)といい、これに詰める者を溜詰(たまりづめ)という。

    代々溜間に詰める大名家を定溜・常溜(じょうだまり)または、代々溜(だいだいたまり)といい、会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家をいう。なお、一代に限り溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家、姫路藩酒井家、忍藩松平家などがある。また老中に永年在職し退任した大名が、前官礼遇の形で帝鑑間および雁間より一代限りで溜間詰格という形で末席に詰めることもあった。

    例:京都所司代、大坂城代、姫路藩主(譜代)酒井 忠惇など。

    初期の段階では定数は4〜5名であり、重要事については幕閣の諮問を受けることとなっており、また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっていたなど、非常に格式が高いものとされていた。江戸中期以降、飛溜の大名らも代々詰めるようになりました。また、桑名藩松平家、岡崎藩本多家、庄内藩酒井家、越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになり、結果として幕末には員数が15名近くになり、希少性もなくなり初期の趣旨は甚だ形骸化した。

    (2)帝鑑間(ていかんのま)

    江戸幕府成立以前から徳川氏に臣従していた大名が詰める席。この席に詰める大名を幕府では譜代大名(「譜代席」)と呼んでいた。関ヶ原の戦い後に14万石前後或いはそれ以上の石高の城へ封じられた家系で、戦力として軍団を引率し、要衝の地を守護することを家命としていたため、老中など幕府役職者は、この帝鑑間からは輩出しないことが一般的であった。

    例:尼崎藩主(譜代)松平(桜井)忠興、龍野藩主(譜代)脇坂 安斐、山崎藩主(譜代)本多 忠鄰、丹波亀山藩主(譜代)松平 信正

    ただし、親藩(宍戸藩松平氏・広瀬藩松平氏等)や外様大名(真田氏等)から願によりこの席に移った大名(御願譜代)や新規取立ながら家格向上によりこの席に移った大名(柳沢氏等)もある。父親が重職者の場合、嫡子(部屋住)は雁間に出る。

    (1)柳間(やなぎのま)

    官位が五位および無官の外様大名・交代寄合・表高家・並の寄合衆が詰める席。准国主でも五位の時はここに詰め、四品に昇進すると大広間に移る。各家の嫡子もみな同席。

    例:出石藩主(外様)仙石久利、但馬豊岡藩主(外様)京極高厚、村岡領主(外様)山名義済、丹波柏原藩主(外様)織田 信親、三田藩主(外様)九鬼 隆義、赤穂藩主(外様)森 忠典、小野藩主(外様)一柳 末徳、園部藩主(外様)小出 英尚、綾部藩主(外様)九鬼 隆備

    (5)雁間(かりのま)

    幕府成立後新規取立の大名の内、城主が詰める席。老中、所司代の嫡子もこの席に詰めた。ここに詰める大名は「詰衆」と呼ばれ他の席の大名と異なり毎日登城するため、幕閣の目に留まり役職に就く機会が多かった。そのため、帝鑑間からこの席への移動を望む大名も多かった。雁間・菊間広縁を総称して「雁菊」という。

    例:駿府城代、高家、篠山藩主(譜代)青山忠敏、福知山藩主(譜代)朽木 為綱、丹後田辺藩主(譜代)牧野弼成、宮津藩主(譜代)松平宗武

    (3)菊間(きくのま)広縁

    幕府成立後新規取立の大名の内、無城のものが詰める席。旗本役である「大番頭、両番頭、旗・槍奉行武役の職」の詰席でもある。

    菊間の本間は雁間大名の嫡子の席とされ(「詰衆並」)、大名当主が詰めることはなかった。旗本の家で、父が若年寄、奏者番に勤仕中であれば嫡子は菊間にでる。菊間縁頬ともいう。

    例:大番頭、書院番頭、小姓組番頭、旗奉行、槍奉行、峰山藩主(外様)京極高陳

    (6)芙蓉間席

    例:大目付、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行、遠国奉行(京都町、大坂町、駿府町、長崎、伏見、奈良、伊勢山田、日光、堺、浦賀、新潟、箱館、佐渡、生野(1716年(亨保元年)代官に変更)、羽田)、大坂定番、作事奉行、普請奉行、甲府勤番支配、禁裡付、仙洞付など

    例:遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、または遠山金四郎景元。
    テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。

  • 天保6年(1835年)5月20日、西丸(内大臣右近衛大将徳川家慶)小納戸頭取より小普請奉行に
  • 天保8年(1837年)8月20日作事奉行→天保9年(1838年)2月12日、勘定奉行・公事方
  • 天保11年(1840年)3月2日、江戸北町奉行
  • 天保14年(1843年)大目付
  • 天保15年2月22日、朝鮮使節来聘御用取扱兼帯
  • 弘化2年(1845年)3月15日、大目付から江戸南町奉行
  • 嘉永5年(1852年)3月24日、寄合席
  • 嘉永5年(1852年)に隠居すると、剃髪して帰雲と号し、現職を離れて3年後63歳で死去。

    彫り物をしていた事を確証する文献はないが、時代考証家の稲垣史生によれば、若年のころ侠気の徒と交わり、その際いたずらをしたものであろう、続けて稲垣の言によれば奉行時代しきりに袖を気にして、めくりあがるとすぐ下ろす癖があった奉行として入れ墨は論外なのでおそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないかという。遠山の死後、講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説『遠山の金さんシリーズ』などで普及した。現代ではドラマが製作された影響を受け、名奉行として世間に広がり大岡忠相と人気を二分することもあるが、ドラマのような名裁きをした記録は殆どない(もっともこれは大岡にも言えることである)。

    大岡越前守忠相(おおおか ただすけ)

  • 1686年(貞享3年)12月、大岡忠真の養子となる。
  • 1700年(元禄13年)7月、家督相続。
  • 元禄15年(1702年)27歳で書院番→宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には使番となり、
  • 宝永5年(1708年)には目付
  • 正徳2年(1712年)正月に37歳で遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)
  • 享保元年(1716年)には普請奉行
  • 享保2年(1717年)、60代で就任する事が多かった町奉行を40代で江戸南町奉行→吉宗の享保の改革で忠相は諸改革のうち町奉行として江戸の都市政策に携わることになり、評定所一座にも加わり司法にも携わった。このころ奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され両町奉行所の支配領域が拡大し、忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていた。
  • 享保3年(1718年)、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。
  • 享保6年(1721年)、市政においては、町代の廃止や町名主の減員など町政改革も行なう。
  • 享保7年(1722年)に直接訴願のため設置された目安箱に町医師小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置された。また、与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモ(薩摩芋)の栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言している。また、弛緩していた江戸近郊の秩序再建のため、地方御用を拝命して農政にも携わり、役人集団を率いて武蔵野新田や上総国新田の支配、小田原藩領の酒匂川普請などに携わっており、さらに儒教思想を浸透させるため忠孝者への褒章も積極的に行っている。
  • 享保10年(1725年)9月には2000石を加増され3920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化する。
  • 元文元年(1736年)8月、寺社奉行→寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任、三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し、正式に大名になる。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相一人だけであり、極めて異例である。
  • 寛延4年(1751年)6月、大御所吉宗が死去。忠相は葬儀担当に加わっている。
  • 同年11月には寺社奉行を辞職し自宅療養し、翌12月に死去、享年75。

  • (8)御右筆 右筆(文書・記録の作成など現在の書記にあたる)には表右筆と裏右筆がある。奥右筆は機密書類なども扱った。
  • (9)御用部屋 大老、老中、若年寄がここで政務を執り、幕政の最高方針を決めていたといわれる。
  • (10)桔梗の間 御番医師の詰所で襖に桔梗の絵が描かれていた。
  • 出典: 『ヨーロッパの歴史』放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 恩
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