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近代日本の思想

目 次

  1. 西洋科学の受容
  2. 明治時代以降の武士道の解釈
    1. 国民道徳論
    2. キリスト教と国家主義の衝突
    3. 新渡戸稲造と『武士道』
    4. 社会主義の思想
 明治維新からしばらくの思想の歴史は、西洋社会思想の受容という面が強い。しかしその性急さと急激な導入でもありました。

 江戸期の平時に武士道は変質しました。しかし明治に至るまで、切腹も含め武家に特有のしきたり・法度が守り通されてきました。近代の武士道の再発見にはそれなりの理由があったのでないでしょうか。

1.西洋科学の受容

 江戸幕府は開国以後、洋学研究機関を拡充し、欧米に使節団、留学生を送り、西洋事情の摂取に務めました。番所和解御用掛を番所調所(のちの開成所、東京大学)に改称したのもその一環です。

 すでに開国以前から、西洋近代との出会いは、徐々に学問思想に影響を与えていました。禁教のキリスト教を布教させようと、鎖国の禁を破って入国したイタリア人宣教師シドッチを尋問した際に得た諸事情を記述した『西洋紀聞』のなかで、新井白石は、西洋と東洋の学問知識を比較し、「ここに知りぬ、彼方(西洋)の学のごときは、ただその形と器とに精しき事を。…」といい、のちに大槻玄沢(1757〜1827)が、蘭学の祖を新井白石とし、青木昆陽・前野良沢・杉田玄白と学統は継承されたと振り返っていますが、幕藩体制下にあって、日本・東洋の精神的優位を保持したままで、西洋の優れた文物、とりわけ科学と技術のみを導入しようとした受容の精神を、新井白石の感想は先取りしていました。白石の感想は、そのまま佐久間象山の「東洋道徳・西洋芸術(技術)」のふたつを学び人民に恩恵を与え国恩に報いる、という言葉に表されているように、科学技術における 西洋の優位、道義における東洋の優位という二元論をとりながら、西洋の技術の導入に心を砕いた姿勢につながりました。

 しかし、近代化の本格的開始は、それまでの東洋道徳の優位性という枠組みではすまず、むしろ西洋技術の背後にあり、それを支える社会体制や精神そのものを導入しなければならないという認識に転換せざるを得ませんでした。

 当初の明治政府の政策も、祭祀一致的な王政復古を基本として、神祇官の復興、神仏判然令(廃仏毀釈)などの神道国教化政策、キリスト教の禁止の維持等、諸外国からの非難を浴びる、まさに復古的な政策をとっていましたが、明治三、四年を境に、近代化により急ぎ欧米に伍していくという明確な目的意識のもとで統合されていきます。

 近代国家の創出には中央集権化が急務でした。1871(明治4)年、一挙に廃藩置県が断行されました。翌年に遣外使節岩倉具視一行(1871〜73)の帰国もあり、一連の文明開化政策を打ち出していきました。

2.明治時代以降の武士道の解釈

 さて本居宣長の古道論は、生前の弟子を自称する平田篤胤(ひらた あつたね)に継承され、記紀の古伝(神話)の背後に本当の伝えがあったはずだと考え、自ら古伝を創作します。それは宣長の死の理解に納得がいかないということでした。

 まず宣長は、抑制した古伝からの宇宙像・地球像の構築で向けられていましたが、篤胤の見解では、「死者はあのきたない黄泉の国に行くという説は漢籍の影響を受けたものだとするものです。彼は「幽冥」界という世界を構想します。幽冥界とは、大国主神が国を譲って現世から姿を消したあと支配している領域のことです。イザナミが黄泉の国へおもむいたのも死ではなく、顕(うつし)身のまま行ったのであるとみます。人も屍は黄泉の国に行くが、魂はそのようなところに行くはずがない。天に戻るはずであるが、しかし古伝にはそれがなく、「事実」によっても確かめられない。そこで古伝の真意と現世での表徴から、魂は、永久にこの国土にいる、すなわちこの顕国(うつしみ)の内にある「ほのかにしてみえないあたり」、「社」「祠(ほこら)」「墓のほとり」に留まり、身近な者たちに「幸(さちはひ)」を与えて見守っているとしました(霊の真柱・たまのみはしら)。これが篤胤のいう「魂の行方の安定(たまのゆくえのしづまり)」でした(近傍他界観)。その論を組み立てる過程で、篤胤は西洋の科学思想を利用し、また中国経由のキリスト教の知識を援用したことも明らかになっています。

 国学は、明治新政府成立の後も、明治初期の神祇官の復活等の政策に影響を与えました。明治の初めの廃仏毀釈も国学の思想運動の結果ですが、その後の明治政府の近代化政策のなかで、国学運動は脱落し広義の国学も終焉を迎えました。島崎藤村の小説『夜明け前』はそうした平田派の信奉者が明治になって精神を失調していく姿を描いています。

 しかし学問としての国学は、近代学問に編成し直して国文学研究を確立しようとした芳賀矢一や、芳賀の視点を学び近代学問としての日本思想史研究という分野の成立に寄与した村岡典嗣の試みにつながります。

3.国民道徳論

 明治以降、文明開化とともに、西洋の価値観が移入され、道徳も変容しました。そのなかで「道徳」の28創出に大きな影響力をもった西村茂樹(1828〜1902)の『日本道徳論』(明治2年講演)では、「世教」と「世外教」のふたつに分類しました。「世教」には「支那の儒教」「欧州の哲学」が、「世外教」には「印度の仏教西国の耶蘇教」です。

 世教とは、価値のおきどころが現世ではなく、未来の応報と来世での魂のゆくえにある。要するに、世教は「道理を主とし」、世外教は「信仰を主とす」るものです。

 西村によれば、日本では「世外教世教相次いで到来し、仏道は上下共に一般に行われ、儒道は独り上等社会ににみ行われ」、「仏教に及ばず」という仏教優位の状況が続いたが、近世に入って、すなわち「三百年以前より儒道大いに武門の家に行われ」教育・政治・法律ともに「儒道に根拠」をもつこととなった。一方仏道は「下等人民の信仰するに止まりて」儒道に及ばず、幕末を迎えたのである。

 (明治維新以降の現状は)儒道が「廃棄」されたことにより、「日本の中等以上の人士は道徳の根拠を失い、人心の固結力を弛緩し、民の道徳がしばらく頽敗の兆しが芽生えた」という状況を迎えた。

 もちろん西村の近代化の過程の精神的状況のとらえ方は彼なりのものですが、「世外」的価値を否定し、「世教」のなかに道徳の価値を制限しようとする構想は、ひろく近代の支配的世界観につながっていきました。「国民道徳論」の運動は、公教育の場面に多くの影響を与え、また地方、神道を宗教の外におく(神社神道は宮内省に属させるべき)という思想の骨格を作っていきます(神道非宗教説)。

 思想運動としての「国家道徳論」は、かならずしも統一のとれた一体のものとしてすすめられたわけではありませんが、国家を天皇を長とした家族とみなし、忠孝を徳目とする国家主義という最大公約数はありました。

 大正期から、昭和にかけてのリベラリズム「国家道徳論」は、「教育勅語」(1890年、明治23年)以後、多くの論者が登場し一層さかんになりますが、その風潮ともっとも対立したのがキリスト教でした。

4.キリスト教と国家主義の衝突

 憲法制定、国会開設により、天皇制による支配の仕組みは整備されましたが、キリスト教が公然と活動できるようになったのは、1873年(キリスト禁教制の高札撤廃)以降でした。プロテスタントが中心となって活発な活動が始まります。横浜バンド、熊本バンド、札幌バンド等、各地で旧士族の師弟を中心に受容されました。キリスト教は文明かいかのなかで、まさに文明の宗教として受容されました。天皇こそ耶蘇教を採用すべきだという議論さえありました。それほどにキリスト教は啓蒙思想だけでなく、文学、民権運動にも影響をもちました。

 内村鑑三の不敬事件は、1891年「教育勅語」発布の二ヶ月後に起きた事件です。キリスト教との内村が、一高の始業式で「教育勅語」への礼拝をためらったという噂に端を発し、国家主義者から非難を浴び、免職となるまでの一連の事件です。ことは内村個人の問題を離れ、内村を擁護する人々と、「教育勅語」をたてにしてキリスト教を国家主義に反すると批判する井上哲次郎との間の論争で、井上の発表した文章に因み「教育と宗教の衝突論争」といわれます。各地でも事件があり、キリスト教は反国体的であるという印象を広く世間に与えました。

 キリスト教は近代化のなかで、女子教育や社会改良等の点で多くの功績を残し、このあとの社会運動、労働運動、大正デモクラシーにも影響を与えました。しかしこの事件ではキリスト教が防戦におわれ、ついにはキリスト教が天皇制に妥協を強いられるきっかけになりました。

 内村は、高崎藩士の家に生まれ、札幌農学校(のちの北海道大学)に学び、在学中、米人クラークの影響を受け、同窓の何人かと改宗しました。渡米しアマースト大学で学び、帰国後「不敬事件」に巻き込まれました。その後社会評論に健筆をふるいますが、日露戦争に反対して「万朝報」の記者を辞め、雑誌「聖書之研究」によって反戦を説きました。彼は無教会主義という日本独自のあり方をとなえました。キリストによってのみ日本の真正な独立と自由があるとし、キリストと日本、つまり「二つのJ」への奉仕を説き、また『代表的日本人』では、日蓮や西郷隆盛らを高く評価しています。『求安録』等には心の修行を説く陽明学的な思索をみる見方があり、「武士道に接木されたるキリスト教」と自ら表現しているように、伝統とキリスト教という異なるものを強靱な人格によって統合するという、きわめて明治的な課題を背負った思想家・宗教家でした。

5.新渡戸稲造と『武士道』

 キリスト教徒であった新渡戸稲造が著した『武士道』には、次のように述べています。

 武士道とは、武士の守るべき掟として、あるいは教育された道徳的原理です。それは口伝で受け継がれたものか、著名な武士や学者の筆から生まれた、いくつかの格言によって成り立っていることが多いのです。むしろ不言不文の語られざる掟、書かれざる掟といえるべきものでしょう。それだけに武士道は、いっそうサムライの心の中に刻み込まれ、強力な行動規範としての拘束力を持ったのです。

 いうならば、最初の政治的な英国憲法と同じ地位を道徳的に占めていたものといえます。日本では17世紀の初めに江戸幕府から「武家諸法度」が発布されましたが、その十三箇条の短い条文が扱ったものは、ほとんどが婚姻や城郭造り、徒党に関してのことであり、教訓的な道徳律についてはほんのわずかしか触れていません。したがって、明確な武士道の源泉であるとは言えないものです。

 武士道の起源は、日本の長い封建制の時代のなかで、武士の生き方として自発的に培われてきたものです。したがって、封建制度そのもののように、多くの流れのなかで複雑に醸成されていったものだといえます。

 イギリスの封建制はノルマン人の征服から始まったとされていますが、「卑怯者」と「臆病者」という言葉は、健全かつ純粋な人間にとっては、最も侮辱的な表現を指すものでした。武士も同様です。もし、武士が殺し合いの軍事的なものだけに頼り、より高き道徳的な拘束力なしに生きたとすれば、武士の生活の中に武士道なる崇高な道徳律は生まれなかったでしょう。

 ヨーロッパではキリスト教が騎士道に都合良く拡大解釈されましたが、キリスト教は騎士道に精神的な道徳を吹き込んだようです。ラマルティーヌ(フランスの詩人)が、「宗教、戦争、そして栄誉は、完全なるキリスト教徒の騎士の三つの魂であった」と述べているように。

 仏教は、武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心を与えました。それは危難や惨禍に際して、常に心を平静に保つことであり、生に執着せず、死と親しむことでありました。

 ある一流の剣術の師匠(柳生但馬守宗矩)は、剣の極意を会得した弟子(徳川家光)に「私が教えられるのはここまで。これより先は禅の教えに譲らねばならない」と告げました。「禅」とはディアーナの日本語訳であり、それは「言語による表現範囲を超えた思想の領域へ、瞑想をもって到達しようとする人間の努力を意味する」。

 その方法は座禅と瞑想であり、その目的は私の理解する限りでいえば、あらゆる現象の根底にある原理について、究極においては「絶対」そのものを悟り、その「絶対」と自分を調和させることである。このように定義すれば、その禅の教えは一宗派の教義を超えています。そしてこの「絶対」を認識し得た者は誰でも、世俗的なことを超越して「新しき天地」を自覚することができるのです。

 仏教が武士道に与えられなかったものは、日本古来の神道がそれを十分に補いました。他のいかなる宗教からも教わらないような、主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝心などの考え方は、神道の教義によって武士道へ伝えられました。それによってサムライの傲慢な性質に忍耐心や謙譲心が植え付けられたのです。

 神道の理論にはキリスト教でいうところの「原罪」という教義はありません。むしろ逆に、人間の魂の生来の善良さと神にも似た純粋さを信じ、魂を神の意志が宿る至聖所として崇められています。神社に詣でる者は誰もがすぐに、その礼拝の対象物や装飾的道具が極めて少ないことに気づくでしょう。奥殿に掲げられている一枚の鏡だけが主要なものであるからです。

 何故鏡だけなのか。すなわち鏡は人間の心を表しています。心が完全に平静に澄んでいれば、そこに「神」の姿を見ることができるのです。それゆえに人は社殿の前に立って参拝するとき、おのれ自身の姿を鏡の中に見るのです。そしてこの参拝という行為は、古代ギリシャのデルフォイの神託[*1]にも共通するものです。

 神道は、武士道の中に主君への忠誠と愛国心を徹底的に吹き込んだのです。これらは教義というよりむしろ情念として作用しています。したがって、中世のキリスト教の教会とは異なって、神道は信者になんの信仰上の約束も命じず、むしろ単純な行為の基準を与えたにすぎなかったのです。

[*1]デルフォイの神託…デルフォイの神託は神殿の中心部にある「立ち入り禁止区域」で行われ、この場所はアディトン(adyton)と呼ばれていた。そこでピュティアと呼ばれる巫女が神懸かり(トランス)状態となり、予言の神アポロンの言葉を語った。

6.社会主義の思想

 1890年にアメリカの恐慌が日本に波及し、生糸輸出が激減し、日本でも最初の恐慌が怒ったとされています。近代化は早くも資本主義固有の問題を包んでいました。雑誌『日本人』(1888年第六号)に「高島炭坑の惨状」の実態報告が掲載され、労働問題の存在が世に知られました。その後の日清戦争は、経済を進展させましたが、他方で工業や農業のひずみを一層拡大しました。大企業と多数の家内工業、大地主と小作人との格差なそから、労働力は都市へ安価な賃金労働者として流入しました。

 こうした社会情勢を背景にして、「社会政策学会」(1896年)、「社会学会」(同)、「社会問題研究会」(1897年)等が相次いで設立され、社会問題を学問的に調査し、その調整・調和をめざしました。

 労働者の側での組合結成の動きも始まりました。97年には「職工義勇会」を創立し労働組合結成をよびかけました。さらに「労働組合期成会」ができ、機械工の組合等が結成されました。政府は「治安警察法」(1900年)をもって対抗しました。

 社会主義についてははやくに加藤弘之(東大初代総長、兵庫県豊岡市出石町出身)がその著作で言及し、我が国体に相応しくないものと論評しています。

 社会主義思想が正しく紹介宣伝されたのは「民友社」(徳富蘇峰を中心とした思想結社)機関誌『国民之友』によるところが大きく、この時期の平民主義、国民主義とも、国民の実体に即した政策を求めるという視点から、社会問題、社会主義の思想に目を向けるという点で共通の認識をもっていました。

 他方で、社会主義への学問的理論的関心も深まりました。98年には片山潜、幸徳秋水、村井知至、安倍磯雄らによる「社会主義の原理と之を日本に応用する可否を考究」しようとした学究団体で、「社会主義研究会」が生まれました。会は次第に人道主義的傾向と実践的傾向に分裂し、実践的方針、「普通選挙運動への参加」という方向に向かい「社会主義協会」へと移行しました。それを母体に、1901年日本最初の社会主義政党「社会民主党」が結成されました。党そのものは治安警察法により即日解散となりましたが、その宣言は新聞等に公表されました。その宣言は「社会主義を経(たていと)とし、民主主義を緯(よこいと)としてその旗幟を明白」にするものでした。

 その後社会主義運動は、「社会主義協会」や、黒岩涙香・内村鑑三による「理想団」、さらに「平民社」とその週刊「平民新聞」に引き継がれていきました。1905年の弾圧による69号での廃刊まで、社会主義の拠点となりました。

 日露戦争の勝利以降は、日露講和に反対する民衆の「日比谷焼打事件」(1905年)など都市部だけでなく、各地に労働・小作争議が多発しました。1906年大同団結のかたちで「日本社会党」が結成され、普通選挙権獲得をめざす議会主義を掲げましたが、議会主義と幸徳秋水等の「直接行動論」とが対立し、秋水の主張が通りましたが、結社禁止令を受けることとなりました。運動の閉塞から、テロリズムへの傾斜を一部で生み、天皇暗殺を計画したとする嫌疑で直接行動派は全員検挙され、秋水はじめ12名が処刑されました(大逆事件1910〜11)。こうして時代は一挙に「時代閉塞の現状」(石川啄木)という状況を生み、社会問題を回避し、内面に沈潜するロマン主義的傾向を広めることとなりました。


『日本人の歴史教科書』自由社

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