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近代産業の発展とその背景

目 次

  1. 日本の産業革命
  2. 変化する都市と農村の生活
  3. 征韓論
  4. 朝鮮の近代化と日本
  5. 朝鮮半島独立運動

三つの強力な制度改革

 明治政府は三つの強力な制度改革、学校制度・徴兵制度・租税制度の改革を推進し、平等な国民により構成される近代国民国家の建設の基礎を固めました。これはやがて国民の側から、三大義務として理解されるようになりました。
学制の発布  1872年9月5日(明治5年8月3日)に、学制が公布されました。教育は国家のためでなく、個人のために必要なのだという考え方が説かれ、「どの村にも子どもを学校に行かせない家は一軒もなく、どの家にも学校に行かない子どもは一人もいないようにする」と宣言されました。小学校は義務教育となり、江戸時代の寺子屋の多くが小学校に転換されたため、わずか数年で2万6千校の小学校が設立されました。就学率は明治末には100%近くにも達しました。
徴兵制の施行  1873(明治6)年には徴兵令が公布されました。西洋の制度を取り入れて、20歳に達した男子は、四民平等にもとづいて士族・平民の区別なく、すべて兵役に服する国民軍をつくる改革でした。  しかし、江戸時代までは武器を帯びて戦うのは武士の名誉であり特権だったので、士族からは特権を奪うものとして反発を買い、平民からは一家の若い労働力を提供する負担が苦痛であるとして、初期の頃は不安を生みました。
地租改正(税制)の実現  1871(明治4)年、政府は農民が田畑に何を作付けするかは自由であるとし、翌年には田畑の売買も認めるというお触れを出しました。さらに政府は全国の地価を定め、土地所有者を画定して、彼らに地券を交付しました。そして地券を元に1873年、地租改正に着手しました。  江戸時代の年貢は収穫高にもとづいて米を物納するもので、税率も各藩でまちまちでした。この地租改正により、地価の3%に当たる地租を貨幣で納める制度に改められたので、全国の土地に一律に課税することが可能になり、政府の歳入は安定しました。  地租改正は、農民に土地所有権を正式に認め、納税の義務を課すものでした。これにより、近代国家の財政基盤は固まりました。

条約改正

 前出の通り、東アジアが欧米列強に植民地化されていくなかにあって、日本が植民地化を免れたのは何故だろう。

 江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結びました。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある)内容でしました。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになったのです。

 江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を引き継いだのですが、戊辰戦争の終結によって明治政府が日本の正統な政府であることが諸外国に認められると、1869年2月4日(明治元年12月23日)に明治政府は江戸幕府が勅許を得ずに締結した(不平等)条約には問題がある点を指摘し、将来的な条約改正の必要性を通知しました。

 この条約は1872年(明治5年)から改正交渉に入ることとなっていたため、1871年(明治4年)岩倉使節団が欧米に派遣されました。従来この使節派遣の目的は、条約改正の打診であったといわれてきましたが、実情は国法や近代的社会制度の整備が遅れていることから、改正時期の延期を諸外国に求めるものであったという学説が一般的になってきています。

 1885年(明治18年)に太政官制度が廃止され内閣制度が発足。条約改正は明治憲法制定と同時並行で取り組まれ、伊藤博文内閣の外相井上馨は鹿鳴館に代表される欧化政策を行いつつ交渉を進めました。1886年(明治19年)、井上は東京において諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で農商務大臣谷干城や法律顧問ボアソナードらからの反対意見を受けました。翌1887年(明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、全国的な民権運動が盛り上がり(三大事件建白運動)、条約改正交渉は中止となり、井上は辞任しました。

 黒田清隆内閣の外相大隈重信は1888年(明治21年)に交渉を再開するが、外国人を大審院に任用するなどの譲歩案がイギリスのロンドンタイムズに掲載されて日本へも伝わると、世論からは激しい批判がわき上がりました。大隈は改正案に反対する右翼団体の団員から爆裂弾を投げつけられ右脚切断の重傷を負い、これが原因で黒田内閣は崩壊、改正交渉はまたしも挫折しました。1888年11月30日には駐米公使兼駐メキシコ公使だった陸奥宗光が、メキシコとの間にアジア以外の国とは初めての平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功しました。

 山縣有朋内閣で外相青木周蔵は法権の完全回復を目指して交渉を再開。この頃にはロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢は軟化を示していたが、1891年(明治24年)の大津事件で青木が辞任に追い込まれた結果、中断を余儀なくされました。

 第二次伊藤内閣で、メキシコとの間に平等条約締結を成功させた陸奥宗光が外相となり、駐英公使の青木周蔵を交渉に当たらせ、1894年(明治27年)の日清戦争直前、ロシア帝国の南下に危機感を募らせていた英国と日英通商航海条約の調印に成功し、治外法権制度を撤廃させた。このことは後の日英同盟への布石となりました。

 条約改正が達成されるのは日露戦争において日本の国際的地位が高まった後のことです。1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに条約改正が達成されました。

1.日本の産業革命

 政府は明治初年より殖産興業に努め、官営事業は、西洋の産業の模範を民間に示す役割を果たしました。1880年代にはいると、政府は日本銀行を設立して金融制度を整え、官営工場を払い下げて、経済の発展を民間の手に委ねていきました。機械を備えた工場で大量生産されるようになった綿糸、生糸、綿織物は、重要な輸出品となりました。その輸出によって得た代金で、綿花などの原料や軍艦、鉄鋼、機械などが輸入されました。

 下関条約による賠償金は重工業に投資され、1901(明治34)年には官営の八幡製鉄所が開業して鉄鉱の国産が開始されました。それにともない、造船業も発展を遂げ、日露戦争後には1万トン以上の造船も可能になりました。

 このような変化を、日本の産業革命といいます。明治時代に近代産業が発展した要因の一つに、江戸時代以来の民衆の高い教育水準や勤勉の精神がありました。また四民平等等によって、人々のあいだに自分の努力と工夫で人生を切り開こうとする精神が育まれ、渋沢栄一のような有能な実業家が多数登場しました。

2.変化する都市と農村の生活

 産業発展を支えたのは、近代的な交通網の拡充でした。1889(明治22)年には東海道線の新橋・神戸間が全線開通し、全国の鉄道網が拡大していきました。また、馬車などの通行が可能なように道路も整備されていきました。地方の都市や農村にも鉄道が通って、それまでの街道筋にとってかわり、駅周辺が新たに発展しました。

 近代産業の発展や交通網の整備で、職業や事業の選択の幅が広がりました。農村でもsまざまな副業が試みられ、生活水準の向上で米食が普及し、人口も着実に増加していきました。子女を製糸工場の女工に出稼ぎに出したり、都市に移住して工場の労働者になる人々も多数出るようになりました。

 東京などの大都市では、ガラスが普及してショーウインドーが並び、民家でもガラス障子が取り入れられるようになりました。また、町が度に時計台が設置され、正確な時刻に合わせて生活する習慣が広がり、工場などでも時間単位で労働が行われるようになりました。

3.社会問題の発生

 近代産業の発展に伴い、工場労働者の低賃金や長時間労働が問題とされるようになりました。日清戦争後には、労働組合運動も始まりました。1891(明治24)年には、足尾銅山の鉱毒問題が発生し、1901(明治34)年、田中正造は天皇に直訴しようとして広く注目を集めました。急速な近代産業の発展の陰には、新たに解決すべき問題が生まれていきました。
引用:『日本人の歴史教科書』自由社
引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水正之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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