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戦後処理と問題

目 次

  1. 戦争裁判
    1. 戦争裁判
    2. 東京裁判は不当である
  2. 占領政策と戦後処理問題
    1. 邦人の引揚げと復員
    2. 戦災国に対する賠償と戦後関係
  3. 戦争の評価
    1. 加害者としての見方
    2. 解放者・自衛戦としての見方
    3. 両方の面があるとする見方
    4. 戦争の評価(アジア)
    5. 台湾島一帯における評価
  4. 靖国神社問題


1.戦争裁判

■戦争裁判

 1946年(昭和21年)1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年(昭和21年)4月26日の一部改正の後、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて裁判が行われました。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は日本政府が支出しました。

 初めにダグラス・マッカーサーの名の下に戦争責任を追及する「極東国際軍事裁判(東京裁判)」が開かれ、元総理の東條英機陸軍大将、外交官で元総理の広田弘毅ら28名が連合国により戦犯として裁かれ、7名がA級戦犯として死刑(絞首)に処されたほか、元内大臣の木戸幸一、元陸軍大臣の荒木貞夫らが終身刑、元外相の東郷茂徳は禁固20年、元外相の重光葵は禁固7年となりました。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎らは不起訴となりました。

判 事

  • ウィリアム・F・ウエップ(オーストラリア連邦派遣) - 裁判長
  • マイロン・C・クレマー(アメリカ合衆国派遣)
  • パトリック(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣)
  • I・M・ザリヤノフ(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)- 陸大法学部長
  • アンリー・ベルナール(フランス共和国派遣)
  • 梅汝敖(中華民国派遣) - 法律家(本国では裁判官の職を持つ者ではなかった)。
  • ベルト・レーリンク(オランダ王国派遣) - 刑法と国際法の専門家
  • E・スチュワート・マックドウガル(カナダ派遣)
  • エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣)
  • D・ジャラニラ(フィリピン共和国派遣)

  • ラダ・ビノード・パール(イギリス領インド帝国派遣) - 東京裁判当時はヒンズー法学者で、著書に『ベーダ時代のヒンズー法哲学』『インド長子相続法』『出訴期限法』などがあり、判事の中で唯一、国際法の学位を有していた。東京裁判以降、国際連合国際法委員や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した。

    ■東京裁判は不当である

     この裁判では無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)など連合国軍の国際法違反行為に対する裁きを受けておらず、勝者による一方的な裁判であるとの批判もあります。

     証人の全てに偽証罪を問わなかった。また、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかったのも明らかである(確かに「平和に対する罪」はどのように考えても事後法であり、事後法である以上法治主義の根本原則に違反している)。こうした欠陥の多さから、東京裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も珍しくない。

     絞首刑(死刑)の執行は12月23日に行われました。この日は当時皇太子だった明仁親王の誕生日(現天皇誕生日)であったので、見せしめのためとの意見もあります。

     また、フィリピンや中華民国など各地で同じように戦争裁判(B、C級戦犯)が行われました。一部の人々は、これらの裁判に対して、裁判の体を成していないものも多く、多くの無実の人も罪に問われ処刑されたと、批判しています。

     その理由は全てが事後法による裁きのためです。また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等  ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク法廷が連合国の管轄下にあったのとは違い、本裁判はダグラス・マッカーサー司令官が布告する極東国際軍事裁判所条例に基づいて行われたものであり、そもそもチャーター(極東国際軍事裁判所条例)は国際法に基づいておらず、この裁判は政治的権限によって行われたとの批判もある一方、「事後法」やその他の不備など批判の多い裁判ではあったが、平和に対する罪などの新しい概念を生み出し、戦争犯罪を裁く枠組みをつくりあげる第一歩となったという評価もあります。

     判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝敖判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のI・M・ザリヤノフ判事とフランスのアンリー・ベルナール判事が法廷の公用語(日本語と英語)を使用できなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声が存在している。


    パール判事顕彰碑 京都霊山護国神社墓地内にて撮影

     イギリス領インド帝国の法学者・裁判官ラダ・ビノード・パール判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、事態の後で作った法で裁くことはできないとし「全員無罪」としたことで知られている。

     この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。パールは1952年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している。

     南京大虐殺(南京事件)については「すでに本官が指摘したようにこの物語の全部を受け入れる事は、 いささか困難である」と、検察の提示した十数万から数十万もの大虐殺とする証言や証拠に強い疑問を呈し「宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は、圧倒的である」(パル判決書下566頁)と、犯罪行為その物は存在したと判断を下し「弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。彼らはたんに誇張されていることを言っているのであり、かつ退却中の中国兵が、 相当数残虐を犯したことを暗示したのである」という弁護側の主張を述べる。しかし、それを行った人間は直接の上司と共に既に処罰されている事、「犯罪行為の指示」「故意の無視」といった事実は見受けられないことなどから、被告に繋がる問題ではないとして残虐事件の責任を問われた松井石根に対しても無罪を宣告している。そして米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであると痛烈に批判した。

     東京裁判は不当であると主張する人々や歴史家から称賛されていることはいうまでもない。1997年11月、インド独立50周年を記念して京都府京都市東山区の京都霊山護国神社に顕彰碑が建立され、パールの長男夫妻が来日し除幕式が行われた。また、終戦60周年の2005年6月には靖國神社にも同様の顕彰碑が建立された。

     また、神奈川県箱根町には下中彌三郎・パール両名を記念するパール下中記念館があり、東京裁判で用いた法服などが展示されています。

    パールは『パール判決書』(裁判の際に提出した意見書)の中で、 「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」

    と記述している、また、

    「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』。」 とA.J.ノックの言葉を紹介している。これについて、日本の保守系論者(伊藤哲夫:日本政策研究センター)は「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張している。

     また、フランスのアンリー・ベルナール判事は裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。

     オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、イギリス領インド帝国のラダ・ビノード・パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。

     A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。

     ヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされ、裁判に不備があったという意見が大部分であったといわれている。

     なお、イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2ヶ月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。

     イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」を引合いに出し「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。

       また、当時の日本統治を担当し、裁判の事実上の主催者ともいえた連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、後にハリー・S・トルーマンアメリカ合衆国大統領と会談した際に、「戦犯裁判は、戦争防止のためには役に立たない」と述べたといわれる。

     GHQは日本に於いてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したとされる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた。

     日本国内においては1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。

  • 2.占領政策と戦後処理問題

     GHQは民主化を進めると共に、国力を削ぎ、日本が二度と脅威となる存在にならないよう、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期基本的指令」に沿って、大規模な国家改造を実施しました。大日本帝国の国家体制(国体)を解体した上で、新たに連合国(特に、アメリカ合衆国)の庇護の下での国家体制(戦後体制)を確立するために、治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行いました。また、内務省の廃止や財閥解体、農地改革など矢継ぎ早に民主化政策を実施しました。並行して日本人の意識改革のため、情報が厳しく統制されるとともに、教科書やラジオ(ラジオ放送「眞相はかうだ 」等)などのメディアを通じ、情報誘導による民主化が実施されました。

     しかしながら、民主化政策はその後の冷戦体制構築のため路線変更され、警察予備隊(後の自衛隊)の設置や共産党員の公職追放(レッドパージ)につながりました。

     いまでも、日本のマスコミでありながら、戦勝国がすべて正義だといわんばかりの偏向した戦争批判・自虐史観的な放送内容は続いており、正しい歴史認識を伝えるメディアが少ないことは問題視されている。

     1952年(昭和27年)に締結されたサンフランシスコ講和条約により、GHQは廃止され、戦後処理は終了しました。ただし、この戦後処理はあくまで連合国側の戦後処理であって、日本国・日本人としての戦後処理は未だに決着していないとする見解があります。これが、国家の基幹となる歴史認識問題や日の丸問題、自衛隊と自衛権の行使問題、日本国憲法改正論議など様々な歪みを生み出しているとされています。また、この情況は必然的に靖国問題や日本の歴史教科書問題などの国内問題に、諸外国が干渉しやすい情勢をつくりだしているだけでなく、東アジア各国に対する外交への弱腰批判を生み出す要因の一つにもなっているのです。

    ■邦人の引揚げと復員

     連合国に降伏後の1945年(昭和20年)8月当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていました。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ソ連領地では、捕虜がシベリアに抑留されて、過酷な労働に従事させられる問題も発生しました(シベリア抑留)。

     軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省、第二復員省が設置されました。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管しました。

     政府は1945年9月28日にまず、舞鶴、横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島を引揚げ港として指定しました。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館、名古屋、唐津、大竹、田辺などでも、引揚げ者の受け入れが行われました。

    ■戦災国に対する賠償と戦後関係

     日本は1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約により、日本は太平洋戦争に与えた被害について、日本経済が存立可能な範囲で国ごとに賠償をする責任を負いました。この賠償(無償援助)は、各国の協力に基づく日本の復興なくしては実現しませんでした。またこのことは同時に東南アジアへの経済進出への糸口となり、日本の成長を助長する転機となると共に殖民地支配をした国の中で唯一、植民地化された国に対し謝罪の意を示すこととなり、結果的にアジア諸国とのその後の外交関係に寄与することになりました。

     サンフランシスコ平和条約14条に基づき、賠償を求める国が日本へ賠償希望の意思を示し、交渉後に長期分割で賠償金を支給したり、無償(日本製品の提供や、技術、・労働力などの経済協力)支援を行いました。他にも貸付方式による有償援助もありました。

    賠償(無償援助)について 

    3.戦争の評価

     太平洋戦争の評価については、戦後以来、歴史家だけでなく知識人、作家、一般市民などを巻き込んだ議論の的となっています。

    ■加害者としての見方

     加害者としての見方は、日本がアジアの近隣諸外国に対して行った軍事力を背景にした進出や併合などの行為を、誤った政策とし、太平洋戦争を否定的にとらえるものです。

     この見地に立つ人々の一部には、日本が太平洋戦争の被害者の立場(長崎市・広島市の被った原子爆弾投下など)を強調し過ぎるとし、侵略者=加害者としての立場からの反省が足りないと、主張するものもあります。

     これに関連して、戦争当時は国家として存在すらしていなかった中華人民共和国や韓国の日本に対する戦争責任の追及については、単なる反日教育によるアジテーションという見方は皮相的で、実際はアジア諸国に見られた閉鎖的で抑圧的な独裁体制の下にあって、権利を主張することができなかった当事国の民衆が、権利意識の高まりによって戦争の当事国である日本に国家、権力者の過ちによる戦争での被害の権利回復を求める運動の一環と主張する人もいました。

    ■解放者・自衛戦としての見方

     解放者としての見方は、アジア諸国が第二次世界大戦後に独立を果たせたのは、アメリカやイギリスなどの植民地化政策を行った国々との間での戦争であることが要因の一つであるとし、太平洋戦争そのものを肯定的に評価する立場です。この見地にたてば、日本は加害者であるという戦争理解や、近隣アジア諸国に対する謝罪への要求といった事態は、自虐的過ぎるということになるのです。

     また、自衛戦としての見方は、ABCD包囲網(日本が付けた名称で、アメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べた)によって日本が圧迫され、これを打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとするものである。また、アメリカが日本の大陸利権を否定することで圧力を加え、併せて人種的偏見による移民規制や、日系アメリカ人に対して人種差別的な政策を行ったことが、当時の新聞メディアに先導された日本人の反米感情を刺激し、対米戦へと踏み切らせたとの考えもあります。

    ■両方の面があるとする見方

     この戦争には「2つの側面」があるという研究者がいました。きっかけは中華民国をはじめとする中国大陸への進出や勢力拡張を目的とした仏印への進出ですが、結果としてそれを理由にした米国の石油をはじめとする対日全面禁輸は、日本を予想だにしていなかった国家崩壊の危機に直面させました。すなわち、貿易全依存国である日本は石油がなければ船舶を動かすことはできず、船舶が動かなければ工業材料はおろか、食糧まで一切輸入することはできず、そうなれば産業崩壊はもちろんのこと餓死者さえ出かねないのです。また動かなくても排水の為に常に石油を消費する海軍は当然のことながら壊滅してしまい、もし日本が事態を放置して無抵抗状態になった時に、米西戦争の時のように、米国が何らかの口実で日本に宣戦布告をしてきた場合、日本は満足に戦闘さえできないことが懸念されました。

     そのうえ、ハルノートには日本との交渉再開の条件として中国大陸からの撤退(原案では満州を除くという但し書きがあったが、米国側は手交前に敢えて削除した)というおよそ短期間には実現不可能な条件が記されており、しかもその見返りは「交渉を再開する」というだけであり、禁輸解除は記されていませんでした。したがって、ハルノート受諾を含む外交による事態打開を目指しても、日本が破滅的な状況に直面する公算は極めて高いと予想され、進退窮まった日本は強行策として欧米植民地の資源地帯の軍事力による強制奪取とその防衛を目的とした東南アジア・太平洋地域への戦争を開始しました。

     このようにアヘン戦争やアロー戦争と似たような構造の侵略戦争である日中戦争と、米国や米国が指導した全面的な経済制裁に対する自衛が目的としての対米英蘭戦争という、目的・性質の異なった二つの戦争が併存していたのが太平洋戦争であるという見方です。

    ■戦争の評価(アジア)

     中国大陸(現在は中華人民共和国)や、日本の一部であった朝鮮半島(現韓国・北朝鮮)においては、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強いです。しかし、かつての植民地・占領地以外のアジア諸国からは、日本を加害者とする評価だけではなく、それ以外の評価がなされることもあります。加害者とする以外の評価があるのは、アジアには多民族国家が多く、各集団によって世界観が大きく異なるためであるとも言われていました。そのうち、直接に被害を受けていない地域では日本を評価する声があるとも、実際のところは少数派であるとも言われていました。これには、当地の人々にしてみれば独立は主として自分たちの力で達成したものという意識が反映していることに加えて、すでにそれぞれが以前に比べて国民国家化していることも関係しています。

     マレーシアやインドネシア、フィリピンなどの当時ヨーロッパやアメリカの植民地であった東南アジア諸国において、日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由については、純粋に日本の侵攻が独立に貢献したと評価されているケース、建国の功労者に日本の後押しで権力の座に就いた者がいるケース、戦後の独立戦争において旧日本軍人が指導・協力したケース、また単純に反米的なイデオロギーを持っていたケース、あるいは軍事政権の雛形として評価せざるを得ないケースなど様々であり、その理由を一概にまとめることは難しいようです。

     これらの国々で日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由として、日本の支配が強圧的であれどもイギリスやオランダ、アメリカなどの旧宗主国のそれに比べれば相対的にマシなものであったからという説もあるからです。また、そもそも旧宗主国の植民地支配によって蒙った被害があまりに甚大であるが故に支配期間においては圧倒的に短い日本による被害が問題にされにくいという面もあります。これとは逆に、日本の支配ののちに侵入してきた支配者への反感から日本への責任を問う声が比較的厳しくないという地域もあります。

     また、日本に協力する人々がいた一方、イギリスやアメリカなどの旧宗主国に協力して日本と敵対する人々もいました。この場合は、戦争が終わったのち、親日派も宗主国協力派も独立のために戦ったケースが多いのです。

    ■台湾島一帯における評価

     当時は日本による統治下であった台湾島一体では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われませんでした。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではありませんでした。

     第二次世界大戦後に中国大陸から入ってきて強権政治を行った中国国民党に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいます(「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」と言われている)。また、それらの大日本帝国を評価する勢力の一部には太平洋戦争についても「解放戦争」であったと位置付けている人もいました。

     台湾島一帯を中華民国(ないし中華人民共和国)の一部であると主張する勢力の中には、日本の支配を「中華民国への侵略行為に過ぎない」と評し、太平洋戦争も侵略であったと評する人もいます(外省人=中国大陸出身である場合が多い)。

     戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴きました。これについての評価も分かれていました。当時は日本国民であったのだから当然とする人もいれば、不当な強制連行であったと批判する人々もいました。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している人々もいました。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と差別的な取り扱いがなされたことに対する批判もあります。

     また、中華民国にも大韓民国、フィリピン、オランダなどと同様従軍「慰安婦」になることを強いられた女性達がいるとして、日本政府を相手に損害賠償を求める動きも出ています(日本政府は個人資産で一部中間賠償をおこなったので個人賠償は行なっていない)。


    [脚注]

    * 「従軍慰安婦」という言葉自体、議論の対象になっていました。つまり自発的にそれになった人、もしくは怪しげな業者にだまされたりしたものであり、日本軍が強制連行したなどの資料は一切見つかっていない。一例として当時のいわゆる従軍慰安婦・娼婦は軍票の簿価の総計だけのみで換算して「当時の日本の総理大臣をはるかに上回る収入を得ていた」とする試算もある。台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点のひとつとなっていた。

    * 台湾での戦争観を語る際に、本省人(台湾島出身)が親日であり日本支配肯定論、外省人(大陸からの移住者)が反日抗日的であるとの見方がありますが、実際はそれほど単純ではないのです。省籍矛盾については特定の政治家が選挙運動で煽ることによって起こる面も否定できず、そうした背景を理解しないで台湾の戦争観を論じると誤解が生じるおそれがあるとされます。本省人には、福建系と客家系がいること、また台湾人を語る際には台湾先住民の問題が欠けている傾向が見られること、省籍については近年外省人、福建系をはじめとした本省人の垣根が解消される傾向にあること、外省人はエリートと低所得層との格差が激しく多様であること、低所得層の外省人と台湾先住民との婚姻のケースが多いなど単純ではない、という意見もありますが、そのように詳細に見て行けばおよそ概説は不可能であり、つまるところ学問的考察は不可能になってしまいます。

    4.靖国神社問題

     靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案により明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊の司令官、ペリーの浦賀来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。

     「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見がある。終戦記念日である8月15日の参拝は大東亜戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。

     日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであったが、中国(中華人民共和国)、韓国(大韓民国)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の3カ国はA級戦犯が合祀されていることから、日本の首相参拝が行われる度に激しい反発を繰り返しており、外交問題となっています。

     しかし、本来、靖国問題というのは、政治問題にも外交問題にもなり得ません。神道は日本の文化の問題であり、古来から中華圏の宗教観とは一致しません。宗教も祭祀も認めない国が「日本の文化」に注文を付けるべきではありませんし、日本には死者をむち打つ文化はありません。死ねば等しく神です。A級戦犯を合祀しているというが、上記のように、そもそも東京裁判は、国際法による軍事裁判ではなく、極東国際軍事裁判所条例による裁判であり、判決自体が無効です。中国は、日中平和友好条約で戦犯問題に何の留保条件もつけていないばかりか、「内政の相互不干渉」の原則を約束していました。日韓基本条約もそうですが、条約は過去のあらゆるトラブルを解消して再出発しようという取り決めです。本音は、覇権の確立を狙っており、秦の時代からの中華思想そのもので、内モンゴル、チベット、その中に台湾同様、日本を組み込もうとしているのです。対日圧力になるものがあれば何でもいいのです。

     法治国家でない国に法治国家で民主主義である日本や他の国々の価値観が通用しないことはいうまでもないのです。

    引用:『靖国問題と中国』岡崎久彦
    引用:『中国・韓国反日歴史教育の暴走』黄文雄(台湾出身。早稲田大学商学部卒、明治大学大学院卒、拓殖大学日本文化研究所客員教授、評論家)
    『日本人の歴史教科書』自由社
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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