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明治維新


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概 要

目次

  1. 勝の功績
  2. 五箇条の御誓文
  3. 中央集権
  4. 地方行政と版籍奉還
  5. 廃藩置縣
  6. 廃藩置縣の実行
  7. 廃藩置縣の影響
 明治維新とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいいます。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させました。終了時期については、廃藩置県の断行(1872年)、西南戦争の終結(1877年)、内閣制度の発足(1885年)、立憲体制の確立(1889年)までとするなど諸説あります。この期間の政府(一般的には1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古以後に成立した政権を特に「明治政府」といいます。

 明治政府の上位官職を薩長土肥および一部の公家による専制政治として一時期ほぼ独占する状態となり、藩閥政治と揶揄されました。しかし実際には、新政府発足以来、この4藩出身者の中で熾烈な権力闘争・路線闘争が展開されることによって明治政府が運営されていました。

 薩長出身者は政府・軍部の中核を占めたが、土肥出身者は一部は明治政府に残りつつも一部は薩長政府を攻撃するという展開となりました。明治の国政は、良くも悪くも、この薩長土肥主導による政治であったと言えます。

 中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえなくもありません。なお、「明治維新」という語が一般に流布したのは昭和以降で、当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して「御一新」と呼ばれていました。

 短期間の内に西欧列強に比肩する国家を築き上げたことは諸外国からは奇跡と見られ、とくにアジア諸国にとって近代革命の模範となった。この革命の象徴となり、アジア初の本格的立憲君主となった明治天皇について、諸外国では日本以上に高く評価されることもあります。

1.明治政府への転換

 ペリーが来航し開国を要求してから、わずか15年後に徳川幕府と武家社会は滅亡しました。朝鮮の李朝は欧米列強が押し寄せてからも44年続きましたし、清朝は72年間も存続しました。

 李朝や清朝では、試験制度によって全国の優秀な人材が中央に集められました。それは皇帝や国王が強大な権力を持つ反面、地方の対抗勢力は弱いものでした。これに対して日本では、各地の藩で独自に多くの人材が要請されていました。

 また日本には、皇室という制度があり、全国の武士は究極的には天皇に仕える立場でした。皇室には政治の実権はありませんでしたが、権威の象徴であり続けました。

 幕末に日本が外国の圧力にさらされたとき、武士が持っていた忠義の概念は、藩の枠を超えて日本を守るという責任の意識と共通する面がありました。幕府に変わってあらためて皇室を日本の統合の中心とすることで、政権の移動が短期間にスムーズに行われたことは明治維新最大の特徴です。このような公のために働くという理念が新しい時代を築いていきます。

 1867(慶応3)年、慶喜は、徳川家が幕府という形で政権を維持することはもはや不可能であるとみて、政権を朝廷に返上しました(大政奉還)。この案はもともと坂本龍馬が、天皇を頂点とする新しい政治体制の中で徳川家も実力者として存続していくことができる方策として考え、土佐藩家老、後藤象二郎を通じて慶喜の側近に伝えられたといわれています。

 この慶喜の思いきった決断のうらには、天皇のもとで諸大名が集まる議会をつくり、その中で最大の大名である徳川家が議長につく可能性も考えられていました。

 一方、慶喜の意図を見抜いた薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は、公家の岩倉具視や長州藩の木戸孝允らと結んで、朝廷の実権を握る公家を見方に引き入れる工作を、たくみに行いました。その結果、1867年の暮れ、朝廷は王政復古の大号令を発し、天皇を中心とした新政府を組織することを宣言しました。続いて朝廷に慶喜の官位と領地の返上(辞官納地)を命令させました。こうして、約260年間にわたった徳川幕府の政治は終わりました。

 王政復古の大号令の中では、旧来のものを改め、すべてを新たに始めることを意味する「維(こ)れ新(あら)たなり」と言う言葉が用いられました。そこで、幕末から明治初期に至る一連の変革を明治維新と呼びます。

五箇条の御誓文

   五箇条の御誓文とは、、明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇(当時15歳)が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下では御誓文と表記します。明治新政府は発足当初から公議を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していました。明治元年正月、福井藩出身の参与由利公正が、坂本龍馬の船中八策と似ている部分が多い議事之体大意五箇条を起案し、参与東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出しました。

 江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することでした。その方針は、翌1868年の御誓文で具体的に明文化されることになります。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の浸透などです。

■内容

  • 1 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ − 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
  • 2 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ − 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
  • 3 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス − 官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
  • 4 一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ − 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
  • 5 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ − 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
  • 6 勅語 我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以って衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの趣旨に基き協心努力せよ。年号月日 御諱
  • 7 奉答書 勅意宏遠、誠に以って感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉載し死を誓い、黽勉従事、冀くは以って宸襟を安じ奉らん。
     慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印

     また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用されました。

  • 中央集権

     大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要でした。その事業は、岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託されました。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになりました。

    形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもありました。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた(例:太政官、大蔵省など。ただし、当然のことながら実態は律令制のそれとはかなり異なる)。

     王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行されましたが、明治天皇はまだ年少であるため(実際天皇親政は建前であった)、それを補佐する体制がすぐに必要となりました。そこで、明治元年閏4月21日、政体書が公布され(政体書体制)、さらに翌年、律令制の二官八省を模した二官六省制が発足します。具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省への改組など幾多の改変を必要とし、安定しませんでした。また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返されました。明治中央官制の改革は明治17年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定します。

     また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていましたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持されました。しかし、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟などもあり、1881年に「国会開設の詔」が出され、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置されました。1889年に大日本帝国憲法が公布、翌年帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家が完成しました(正確にはオスマン帝国のタンジマート改革における1876年ミドハト憲法公布がアジア初の立憲制ですが、同国は直後に君主専制に回帰しています)。

     また、首都については、当初京都では旧弊が多いとして、この時点では江戸の情勢が未だ安定しておらず、大阪*1遷都論が大久保利通を中心として唱えられました。しかし京都から都を移してしまうことには反対が多くありましたが、江戸城の開城もあり、江戸を東京とすることで落ちつきました。明治天皇の二度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都※2と見なされるようになりました(東京奠都)。

    ※1…「大坂」は江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代に「大阪」の字が定着。
    ※2…日本で「首都」という語が一般化したのは第二次世界大戦後のことである。1868年(明治元年)以来、東京は主に「帝都」と称され、1950年(昭和25年)の「首都建設法」制定以降になって「首都」の語が普及した。

    地方行政と版籍奉還

     慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古は、事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには、各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題でした。明治政府の地方行政としては、徳川家を駿府藩に移封し、京都・長崎・函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていました。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことでした。

     まず、明治2年の版籍奉還で旧藩主が自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命することで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となります。

     しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次ぎました。

     1871年8月29日(旧7月14日)に、薩摩・長州藩出身の指導者により廃藩置県が実施され、府県制度が設置され(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施されました。これにおいては、令制国(旧国名)の地名を用いなかったために、「領主所在地の名前をそのまま藩名にする」というものでした。明治維新の激動のなか、新しい国割りを進める上で藩主在所名をそのまま藩名にしたものでした。「政府の基本方針は、旧藩との関係を断ち切る意図から旧藩名の使用を極力避けるということです。

     明治維新政府は、明治元年(1868年)公布の政体書の中で、府(東京・京都・大阪)・藩・縣という地方行政区分を設定しました。その後、版籍奉還を経て同4年には廃藩置縣が断行され、歴史上藩が公式に存在したのは、明治初めの短い期間だけということになります。

     一方、旧天領や旗本支配地等は、政府直轄地として府と縣が置かれ中央政府から知事(知府事・知縣事)が派遣されました。これを府藩縣三治制といいます。ちなみに、「藩」という制度上の呼称はこのとき初めて定められたものであり、江戸幕府下の制度として本来は「藩」という呼称はありませんでした。したがって、公式には「藩」とは明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置縣までの2年間だけの制度です。

     明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となりましたが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様でした。

    4.廃藩置縣

     当時、藩と府縣(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩縣三治制は非効率でした。廃藩置縣の主目的は、年貢を新政府にて取り総める、即ち中央集権を確立して国家財政の安定を目的としたものですが、これには欧米列強による植民地化を免れるという大前提があったのです。

     しかし、廃藩置縣は、全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものでした。また軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠いていました。そして各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていました。藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出る所も出ていました(池田慶徳、徳川慶勝、細川護久、南部藩など)。

     明治3年12月19日(1871年2月8日)、大蔵大輔・大隈重信が「全国一致之政体 」の施行を求める建議を太政官に提案して認められました。これは新国家建設のためには

  • 「海陸警備ノ制」(軍事)
  • 「教令率育ノ道」(教育)
  • 「審理刑罰ノ法」(司法)
  • 「理財会計ノ方」(財政)

    の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩縣三治制の非効率さを指摘して、府・藩・縣の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとしました。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば、既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「縣」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかでした。

     しかし、その実現には紆余曲折がありました。当時、中央集権体制を進めるために廃藩置縣の必要があることは、政府内の共通認識となっていましたが、その実施に向けた方策について急進的な木戸孝允と漸進的な大久保利通との対立が続いていました。また、木戸が能力を重視して大隈とともに旧幕臣の郷純造や渋沢栄一らを新政府に登用したことについて、旧幕臣の腐敗こそが江戸幕府の滅亡の原因で、維新のために尽力した薩長土肥の若い人材こそが政府に必要である、と考える大久保には理解できませんでした。

     大久保は、薩摩藩の藩政改革のために鹿児島にいた西郷隆盛に政府出仕を促して、新政府そのものの安定と自己の勢力の挽回を図ろうとしました。折りしも山縣有朋の御親兵設置構想が浮上すると、大久保は岩倉具視とともに勅使として鹿児島に入って西郷説得に成功し、御親兵設置の企画推進のための出仕同意を取り付けたのです。

     ところが、出仕の際に西郷が出した意見書(「西郷吉之助意見書」)が大きな波紋を呼びました。西郷は新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようであると糾弾しました。それは大久保が批判対象とする旧幕臣を飛び越して一連の政策立案の中心である大隈をその最大の対象とし、またこれを補佐する伊藤博文・井上馨ら、更に伊藤・井上を推挙した木戸に対する糾弾でした。のちに1877年(明治10年)の西南戦争(せいなんせんそう)へと発展します。

     大久保は、西郷出仕の必要性を重視してこれを受け入れました。明治4年(1871年)1月に西郷は上京し、薩摩などの維新功労者の新政府登用策の受け入れのみで一旦は了承しました。しかし、西郷の新政府への不満は、その富国政策とその指導にあたる大隈ら大蔵官僚にあったために、木戸・大隈との対決は避けられませんでした。

     また、長州藩の大楽源太郎による反乱や、その支持者によると言われる広沢真臣暗殺、公家の愛宕通旭・外山光輔による新政府転覆計画発覚(二卿事件)など、新政府内部は更に混乱の様相を見せ始めたのです。

     大久保は、6月25日(8月11日)に政府人事の大幅改造を断行して参議を西郷と木戸の2人に限定し、自分は大蔵卿として大隈らを掣肘することとしました。しかし、西郷によって推挙された大蔵大丞・安場保和が、大隈弾劾の意見書を提出したために、大隈やこれを支持する江藤新平・後藤象二郎らが結束してこれに対抗しました。弾劾は木戸との全面衝突を望まない西郷や大久保の反対で否決されたものの、新政府は西郷派と木戸派に分裂しつつあり、廃藩置縣どころか政務は停滞し新政府分裂の危機に至りました。

     7月4日(8月19日)、山縣の下に居合わせた鳥尾小弥太と野村靖(いずれも木戸派に相当する)が、会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られて、山縣に対して廃藩置縣の即時断行を提議しました。新政府を諸藩と対峙させることによって政権両派の再統一と求心力を回復させようとしたのです。これは、西郷が廃藩置縣推進派の木戸と協力して、新政府を支える意図があるのかどうかを確かめる目的もありました。山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走りました。

     翌日には、2人は井上を味方に引き入れ、7月6日(8月21日)、井上は木戸を、山縣は西郷を説得して、更に大久保や大隈にも同意を取り付けた。西郷も現状の政局を打破するために廃藩置縣によって政府内の流れを変えることを望んだのです。かくして9日(8月24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道、大山厳、木戸、井上、山縣の7名の薩長の要人間で、木戸邸で密かに練られた廃藩置縣案は三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈らの賛成を得たのです。

  • 5.廃藩置縣の実行

     明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置縣を命じました。王政復古に次ぐ第2のクーデターでした。

     午前十時に、鹿児島藩知事島津忠義、山口藩知事毛利元徳、佐賀藩知事鍋島直大及び高知藩知事山内豊範の代理板垣退助を召し出し、廃藩の詔勅を読み上げました。ついで、名古屋藩知事徳川慶勝、熊本藩知事細川護久、鳥取藩知事池田慶徳、徳島藩知事蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられました。午後には、これら知藩事に加え、在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下されました。

     藩は縣となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられました。各縣には知藩事に代わって新たに中央政府から縣令が派遣されました。なお、同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣されました。

     当初は、藩をそのまま縣に置き換えたため、現在の都道府縣よりも細かく分かれており、3府302縣ありました。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の縣と比べると弱いものでした。そこで明治4年10〜11月には3府72縣に統合されました。

     その後、縣の数は69縣(明治5年(1872年))、60縣(明治6年(1873年))、59縣(明治8年(1875年))、35縣(明治9年(1876年))と合併が進み(府の数は3のままである)、明治14年(1881年)の堺縣の大阪府への合併をもって完了しました。しかし、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり、事務量が増加するなどの問題点が出て来ました。そのため次は分割が進められて、明治22年(1889年)には3府43縣(北海道を除く)となって最終的に落ち着きました。

     統合によってできた府縣境は、令制国のものと重なる部分も多いものでした。また、石高で30〜60万石程度(後には90万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言います。

     また、新しい縣令などの上層部には、旧藩とは縁のない人物を任命するために、その縣の出身者を起用しない方針を採りました。しかし、幾つかの有力諸藩では、この方針を貫徹できず(とはいえ、明治6年(1873年)までには大半の同縣人縣令は廃止されている)、鹿児島縣令の大山綱良のように、数年に渡って縣令を務めて一種の治外法権的な行動をする者もいました。

     一方、その中で山口縣(旧長州藩)だけは、逆に、かつての「宿敵」である旧幕臣出身の縣令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における長州閥の発言力を確固たるものとしました。尚、この制限は文官任用制度が確立した明治18年(1885年)頃まで続いました。

    同縣人の知事起用

  • 明治5年(1872年)まで:静岡縣、鳥取縣、岡山縣、徳島縣、佐賀縣
  • 明治6年(1873年)まで:熊本縣
  • 明治8年(1875年)まで:京都府
  • 明治9年(1876年)まで:高知縣
  • 明治10年(1877年)まで:鹿児島縣

     なお、琉球王国は、慶長14年(1609年、万暦37年)の薩摩藩による侵攻以来、日本と中国に両属してきました。旧幕府時代、名目上は独立国であり明国と冊封関係にありながら、実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、明治政府は、1872年(明治5)、廃藩置県の際に琉球王国を琉球藩として日本に組み入れ(琉球処分)、更に1879年(明治12年)に沖縄縣として実質的国内化を図りました。

  • 11.廃藩置縣の影響

     廃藩置縣は、平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」であったと言えるものでした。

    旧藩債務の問題


     既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり、領民から御用金を徴収するなどして、辛うじて凌いでいました。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図りましたが、黒船来航以来の政治的緊張によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置縣を前に自ら領土の返上を申し出る藩主(藩知事)さえ出てくる状況でした。

     これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もありました(藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の債務扱いとなる)。

     廃藩置縣によって、旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達して(しかもこの金額には後述の理由で天保年間(1830年〜1843年)以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている)おり、債務を引き受けた新政府にも財政的な余裕はありませんでした。

     そこで、新政府は旧藩の債務を3種類に分割しました。

    新公債

     明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付し、その元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する。

    旧公債

     弘化年間(1844年〜1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する。そして天保年間以前の債務については、一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものでした。(なお新政府は、朝敵となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに一切の債務引受を拒絶したため、別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた)

    藩債処分

     その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来する、または幕府債務として無効を宣言されて、総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになりました。

     しかし、債務の大半、特に大名貸の大半は、天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり、有名な薩摩藩の調所広郷による「250年分割」などが尽く無効とされたのです。貸し手の商人達から見れば、大名貸は一種の不良債権であり、返って来る見込みは薄くても名目上は資産として認められ、また社会的な地位ともなりえましたが、この処分によってその全てが貸し倒れ状態になり、商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出しました。特にこうした商人が続出した大阪(大坂から改称)は、経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となったのです。

     旧藩主やその家臣は、これらの債務に関してその全てを免責された上、その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て、私腹を肥やした者もいたと言われています。


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