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日本語の起源

日本語の起源

 我々は、意識することなくコミュニケーションとして日本語を母語として話しています。当たり前のことですが、よく考えてみると、先人たちは、いったいいつ頃から言葉を話していたんだろうか?

 日本語の起源に関する議論は、江戸時代から、新井白石『東雅』や本居宣長らの研究がはじまりとされます。アルタイ起源説、高句麗語同系説、朝鮮語同系説、オーストロネシア(南島)語起源説、混合言語説、クレオールタミル語説がありますが、決着はいまだついていません。

 地元の地名でも意味が分からないものがたくさんあります。
 日本に古来からある地名の多くは、日本の地名なのに現代人には判らない意味不明なものというのも変な話です。このことは長い間、私は素人考えで、記・紀で天皇と由来のあるとされる百済、新羅の関係から、古代朝鮮語ではないかと考えていました。もちろん、朝鮮半島から入ってきた言葉もたくさんあります。

 漢字による地名が使われるようになったのは、書がもたらされ、日本が統一されていき、大和朝廷が律令制度によって、東北・北海道以北と沖縄を除いて統一され、日本中の地名を二文字の漢字で宛てたものが最も多いようです。

 前出のように、それを裏付ける研究があります。1990年代後半からY染色体の DNA 型の研究が急速に進展し、日本列島では多くの系統が入り交じっていることが分子生物学的に実証されました。崎谷満氏によれば、Y染色体の分布からすると、日本語の母体は D2 系統の縄文人が話していた言語です。D2 はユーラシア大陸では絶滅しており、同族の言語はないと考えられますが、D2 と近縁の D1, D3 系統はチベットに存在しています。弥生人は長江文明の担い手だった O2b 系統であり、オーストロアジア語族の言語を話していましたが、それを捨てて日本語を受容したと推定されています。Y染色体の分布からは、従来の想定とは異なり、オーストロネシア語族を使用する民族集団とはほとんど遺伝的つながりが見られません。

 ところが、母系にしか遺伝しないミトコンドリアのハプログループに注目すると、日本には世界で日本人にしか見られない M7a というグループがあるそうです。これは台湾付近で発生し沖縄・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしており、M7a を原日本人と仮定するならば、オーストロネシア語との関係が示唆されます。

 ところが、その謎を紐解くべく、

井上夢間さんの「夢間草廬(むけんのこや)-ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」(引用許可済)

によって一気に解決した?!と思うのです。

 ハワイやアメリカインデアン、インディオ、ニュージーランド先住民であるマオリ人も、よく似ています。

 したがって、漢字が伝わる以前にすでに日本独自のことばが誕生していたのではないでしょうか。

気多(けた)とは地形を意味する。気多は珍しい山や景色

 兵庫県豊岡市日高町は、かつては気多郡日高町と呼ばれていました。気多郡は、律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると八つの郷で構成されていました。約70万年前〜6000年前、兵庫県内では最も新しい火山「神鍋(かんなべ)山火山群」が活動していました。気多人(けたじん)のルーツと思われる先人は、その神鍋山に住んでいました。兵庫県内で最も古い人類のものとされるのは、畑ヶ平遺跡(美方郡新温泉町)と、別宮家野(ベックイエノ)遺跡(養父市関宮町別宮)です。いずれも兵庫県最高峰で、中国地方においても大山に次ぐ高峰、氷ノ山(ヒョウノセン・標高1510m)山系の中国山地です。

 縄文人は狩猟民族といわれ、九州北部や出雲から東方してきたのか、また、海水面が今よりも低かった頃、千島列島や朝鮮半島から獲物を追ってやってきたとも考えられます。上記のように、神鍋遺跡や尾根づたいの鉢伏山で兵庫県で最も古い遺跡が発掘されていることから、中国山脈の山岳地帯に住み、さらに尾根づたいに獲物を求めて移動し、神鍋辺りに住み着いたとも思われます。

 こうした国境(邑境)は、地理的条件である程度自然に分けられたのでしょうが、これらが後に郡・郷として気多氏の支配下にある郷名であり首長名になったのでしょう。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地です。稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川(いなんばがわ)水系であり、狭沼郷も円山川の支流八代川(やしろがわ)水系と現在の豊岡市竹野町椒、三原から八代川下流の円山川に注ぐ地点で、現在は豊岡市上佐野までのエリアでした。

 さて、但馬(たじま)、丹波(たんば)、神鍋(かんなべ)、稲葉(いなんば)など、意味不明な地名がこの地には多いのでしょうか?それについても事項で触れたいと思います。

但馬(タジマ)
『古事記』は「多遅麻」、「多遅摩」と、『日本書紀』はすべて「但馬」と記し、『和名抄』は「太知万」と訓じています。
「たちま」は、マオリ語の
「タ・チマ」、TA-TIMA(ta=the,dash,lay;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような(巨大な)地形のある(地域)」 の転訛と解します。
つまり実際に低い山々と谷が入り組んだ地形だ。
谷間が訛ってタジマと呼ばれるようになったような気がしないでもない。

円山川(マルヤマガワ)
 円山川は、但馬地方最大の川で、県中部の生野峠付近の円山に発して北流し、豊岡市津居山港付近で日本海に注ぐ。流域には広い谷底平野が発達している。傾斜が緩やかで、特に豊岡市納屋付近から津居山までは高低差が少なく、水量が豊富なため、陸路よりも舟運が盛んだった。下流は蛇行が多く湿地帯で氾濫常習地帯だった。

 この「まるやま」は、マオリ語の
  「マル・イア・マ」、MARU-IA-MA(maru=gentle,calm,bruised,power;ia=indeed,very;ma=white,clear)、「実に穏やかで清らかな(川)」 の転訛と解する。

 この「けた」は、マオリ語の 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」 の転訛と解する。
 つまりそれは噴火口のぽっかり開いた神鍋山などの火山群のことだろう。

神鍋(カンナベ)は、
 マオリ語の「カネ・ナペ」、KANE-NAPE(kane=head;nape=ligament of a bivulve)、「(V字形に開いた山脈=口を開いた貝の間を連結している)貝柱の(中にある)頭(のような山)」 の転訛。

または、「人里近く、姿優美な山、神々が降臨され、鎮まる山を「神奈備(かむなび)」というそうだが、神体山信仰のかんなび(神奈備)が訛っって「カンナベ」になったものではないかと思っていたが、「カンナビ」が、このマオリ語のカネ・ナペとしても意味が通じるのです。

 また太田は、関宮町別宮(ベック)と並び、兵庫県下でも縄文草創期から人が暮らしていた遺跡が出土している。今のところ県下でもこの2ヶ所のみだ。古来、縄文人は高い場所で狩猟や木の実を行って暮らしていたが、獲物を求めて尾根づたいに、中国山地を長い間に東へ東へと移動してきたと思われる。そして噴火口のある神鍋山を初めて見つけた縄文人が思わず叫んだ。「Oh! ケ・タ!」・・・そう「気多」だ。  

  この気多「けた」は、マオリ語の 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」 の転訛と解しておられます。

 つまりそれは噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を見つけたことではないだろうか、と想像します。

変わった地形をケタと名付けた。関西弁で変わった物事を「けったいな」と言います。希なことを希有(ケフ)といいます。
希な珍しく美しい浜を気比の浜。希有(ケフ)と気比は同義語が訛ったものではないだろうか。
気比「ケヒ」は、「カイ・ヒ」、KAI-HI(kai=food;hi=raise,catch with hook and line,rise)、「食物(イルカ)を・釣り上げた(場所。そこにある神社)」(「カイ」のAI音がE音に変化して「ケ」となった)、または「ケ・ヒ」、KE-HI(ke=strange,different;hi=raise,rise)、「不思議な(変わった)・崇高な(高い地位を与えられた神。その神を祀る神社)」

 「5世紀の頃までにヤマト朝廷の統一下に組み入れられた但馬の小国家の中に、円山川とその支流稲葉川(イナンバガワ)水系との合流部に、気多君(ケタノキミ)などの名前が知られています。

 気多という地名があるのは、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷、丹後国(京都府北部)加佐郡に気多保、因幡国(鳥取県東部)にもかつて気多郡がありました。明治29年(1896)、高草郡と合併して、気高郡となりました(現在は鳥取市)。伝説で有名な因幡の白兎は、この高草郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。奇しくもわが気多郡も城崎郡と合併し明治23年(1890)に消滅しています。


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