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縄文土器色(かわらけいろ)#c37854 最初のページ戻る次へ

南と北の古代史

概 要

目 次

  1. 南の古代
  2. 北の古代
  3. 松前藩
 日本列島の古代史は、近年大きな進歩をみせています。新たな遺跡発掘調査の成果や木簡をはじめとする出土文字史料などさまざまな新発見が蓄積され、新しく豊かな歴史像を提供しました。

 世界がグローバル化するなかで、改めて東アジア的な視点から中国・朝鮮半島・日本列島・北方・南方の諸地域の古代史を、多面的に地域間の交流の歴史が注目されるようになったことなど、古代史を古代国家中心の一元的な歴史館のでみに限定してしまうのではなく、客観的な姿勢でとらえようという姿勢が広まっていることも大きな動きです。列島の各地域の人々の間で、国境やさまざまな境界を越えた交流が盛んであった様子が明らかになってきました。

 国境が存在しなかった古代には、活発に越境した国際関係がありました。また、掘り起こされた各地域の歴史が明らかにされるなかで、古代には近代とは違って、日本列島に一元的な日本国家が存在していたわけではありません。かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。近畿を中心に本州・四国・九州のかなりの範囲を支配下に取り込んだ古代国家においても、「倭」にかわる「日本」という国号は七世紀後半の国家機構確立の過程を通して確立されたものでした。したがって、近代国家の国家観をそのままさかのぼらせてしまうことには注意が必要です。それは小都市国家がしだいに併合し合い成立したイタリアをはじめ、ヨーロッパ諸国の建国の歴史もよく似ています。

 古代から前近代まで、琉球王国や北海道のアイヌの人々の独自の歴史・文化が「日本」という国家機構確立前には同時に併存していました。

 近年の遺伝子研究では日本人(本州、北海道アイヌ、沖縄県の3地域を比較)の遺伝子はほぼ同じで、北アジアを起源に持つことが明らかにされ、従来定説化されてきた縄文人(アイヌ含)を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の「二重構造説」は否定されています。(しかし日本語の地名がポリネシア系言語のマオリ語に似ているという説があります。)

1.南の古代

 まず、琉球の歴史の時代区分は、いわゆる「本土」の時代区分とはかなり異なっています。ここで琉球とは、現在の沖縄県と鹿児島県の奄美諸島を合わせた範囲です。さらに地理的に大きく分けると、奄美諸島・沖縄諸島と先島諸島(宮古・八重山諸島)とに分けられます。

 沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された「山下町洞穴人」は、約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨です。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するといいます。

その他、沖縄県で発掘され報告されている人骨化石

  • 沖縄県宜野湾市大山洞穴(ぎのわん)
  • 沖縄県国頭郡伊江村真謝カダ原洞穴(くにがみぐんいえそんまじゃかだばる)
  • 沖縄県中頭郡北谷町桃原洞穴(なかがみぐんちゃたんちょうとうばる)

     さて、旧石器時代以後の奄美・沖縄諸島は、漁労を中心とした貝塚文化の時代を迎え、本土の縄文・弥生文化の影響を受けたり、交易を行っていました。一方・先島諸島では、南方系の先史時代が展開しました。本土における古墳時代〜平安時代の時期になると、奄美・沖縄諸島では、狩猟・漁労・採集を中心とした社会が続くなかで、七〜八世紀の本土の古代国家との間に入貢(にゅうこう)[*1]や遣唐使通過の交流をもちました。

     10世紀に東アジアの諸国が盛んな交易の時代を迎えると、琉球でも10〜12世紀に海外交易を介して農耕が始まり、奄美・沖縄諸島と先島諸島の文化も一体となります。そして、共同体を率いる首長の按司(あじ)[*2]たちが各地に割拠するようになりました。12〜15世紀には、各地の按司たちは支配の拠点としてグスク(城)を築いて勢力争いをおこないました。(グスク時代

     グスクは丘や谷の地形を利用して石垣で囲まれた郭群によって構成される按司たちの城郭であるとともに、御嶽(うたき)・拝所のような祭祀の場を持っていました。首長たちの統合が進むにつれて、単純な郭(くるわ)の配置からやがて複雑な郭群の後世へと発達し、琉球石灰岩の石垣の積み方や、中心建物である正殿前の儀礼のための御庭(広場)なども、立派になりますが、最後期の整備されたグスク群が世界遺産に登録されています(首里城)。

     各地に割拠した按司たちの争いの中から、やがて沖縄本島では、北山国・中山国・南山国の三国による三国時代を迎えます。北山国は北部(国頭郡)の今帰仁(なきじん)城、中山国の浦添城(うらぞえじょう・のちに首里城)、南山国は南部(島尻郡)の南山城をそれぞれ拠点として、競って中国の明に朝貢使を派遣して、皇帝からそれぞれ国王として冊封(さくほう)[*3]を受けました。その後、中山国を抑えた佐敷の按司 尚巴志(しょう はし・1372〜1439)が、ようやく北山国・南山国の二国を破って、1429年に三山統一が実現します。これが第一尚氏による琉球王国の成立です。

     しかし、第一尚氏の時代には、まだ各地に有力な按司たちが勢力を保っていました。尚 泰久王の時代に、中城城(なかぐすくじょう)の護佐丸や勝連城の阿麻和利(あま わり)などの有力按司あちをようやく倒すことができましたが、王権への求心力の柔さとともに王位継承のもつれなどから、1470年には新しい王統の第二尚氏が誕生することになります。沖縄本島北西の伊是名島(いぜなじま)出身で、尚泰久に仕えて頭角を表した役人の金丸(1415〜76)が王位に就き、尚 円王となりました。 その後、この第二尚氏王統の琉球王国は、中国皇帝からの冊封を受け続けて、1609年の「島津入り」ののちも明治時代まで独立国の体裁を保ち続けました。

     北山国の王城であった今帰仁城は、日本・中国・朝鮮半島だけでなく、遠くベトナム・タイなどの陶磁器も出土しており、海上交易による北山国の繁栄の様子を知ることができます。

     第二尚氏三代の尚 真王(1465〜1526)の時代になると、琉球王国は中央集権体制を確立して統一国家の体裁を整え、充実した国力を背景に先島諸島や奄美諸島へと支配権を拡大しました。尚真王は、いまだ各地に居を構えて独立性を保っていた按司たちを首里城下に集住させて王権のもとの中央官僚制に編成し、地方には地方官を派遣して地方官僚制を形成しました。また、各地のノロ(神女)たちをピラミッド型に階層編成して集権的な神女組織を整備しました。そして、王族の編成を確立して王陵を造るなど、首里城やその城下の首里の町並み、外港である那覇港を整備しました。

  • 2.北の古代

     北海道には数万年前の氷河期にシベリアから人類が渡り、温暖となってからは本州からも渡来したようで、旧石器時代を経て、土器を中心とした縄文文化が興りました(縄文時代)。

     古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指しました。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収されました。蝦夷(えみし)と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられています。ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものです。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいのですが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならないとされています。

     古くは『日本書紀』に渡島(わたりしま)として登場し、阿倍比羅夫と接触を持ち、奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行ないました。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていました。おそらく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられています。

     アイヌは、アイヌ語で「人間」を意味しますが、和人がアイヌを蝦夷(えぞ)と読んだのに対し、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことです。アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していました。シサムは隣人という意味のアイヌ語アイヌモシリ( 「人間の住む土地」:日本列島の北海道・千島列島および樺太島)の先住民族の一つであるアイヌのことです。形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後も、縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられています。アイヌの歴史は、考古学上の概念としてのアイヌ文化が成立した時に始まりますが、後にアイヌと呼ばれるようになるエスニック・グループ[*4]は、アイヌ文化が成立する遙か以前から存在していた点に注意が必要です。

     アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で13世紀に成立したと考えられていますが、史料が十分ではないため、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難です。

     本州以南は多数の渡来人(帰化人)が移住することで弥生時代を迎えましたが、本州をはじめとした「本土」の多くの地域が水田耕作を受け入れ弥生文化を迎えた時代に、北海道にまでは弥生文化が伝播せず、サケ・マスをはじめとした自然の恵み豊かな北海道では、狩猟・漁労・採集・栽培を中心とする生活が続いており、縄文文化が続きました(弥生・古墳時代に相当する続縄文時代は、紀元前2世紀から7世紀まで続いた)。この文化は、北はサハリン南端部、東は国後島・択捉島、南は東北地方から新潟県西部にまで及んでいます。これを続縄文文化と呼んでいます。この時代の土器が北東北にも影響を与える一方、七世紀には本格的に本土の文化も北海道に及ぶようになって、石狩地方では「北海道式古墳」が営まれたり和同開珎が出土するなど、交易・交流が盛んになります。

     八世紀〜九世紀には、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文土器[*5]が成立し、13世紀にかけて北海道で擦文土器が展開します。竪穴住居群によって構成される集落が各地に営まれ、つづいて、土師器の影響を受けて縄文がなくなり、北東北からも擦文土器が出土して、交流の実態を物語ります。

     一方、道北からオホーツク海沿岸地方では、北東アジア的性格をもつオホーツク文化が展開しました。オホーツク海に面した海岸沿いに、五角形・六角形の大型竪穴住居を営み、熊などの骨を積み上げて祭る生活をしていました。10〜11世紀には擦文土器になりますが、12〜13世紀には本州その他との交易が展開するなかで、擦文土器は衰えていきます。

     オホーツク文化の基盤の元に、本州の和人の文化を受容しながら、やがてコタン(集落)・チャシ(砦)・ユーカラ(口承文芸)・イオマンテ(熊祭り)などのアイヌ文化の時代を迎えます。倭人は本州から米・酒・鉄などの物品をもたらし、アイヌ側は北方産の獣皮・海産物などを交易しました。14世紀には、本州北端の十三港(とさみなと)に拠点を置く安東氏[*6]が蝦夷代官職になって北海道との交易を統轄するようになります。道南の渡島半島(おしまはんとう)南部海岸沿いには、展開した和人たちによって「道南十二館」と呼ばれる巨館群などが営まれました。

     しかし、こうした和人とアイヌ人との交易の際に、また新しく進出してきた和人によるアイヌ人圧迫により、しばしば両者の間に衝突が起きるようになりました(1457年コシャマインの戦いなど)。コシャマインの勢力は道南にあった和人の館を次々と落ちしましたが、上ノ国[*7]の蠣崎氏(かきざきし)らによって制圧されました。

    3.松前藩

     蠣崎氏が勢力を広げ、松前氏と改姓して徳川幕府からアイヌとの交易権の独占を認められ、大名化していきます。1669年には、和人の横暴に対抗し、首長シャクシャインが各地のアイヌ勢力とともに蜂起して松前氏と戦いましたが、結局制圧されました。こうして、各地のアイヌが統合して国家のような政治勢力を確立していく道は閉ざされ、松前藩に従属する交易を強いられていきました。

    松前藩

     松前氏は、もと蠣崎氏(かきざきし)、さらにその前は若狭武田氏(一説には陸奥国の南部氏の一族)の出で、戦国時代に武田信廣が現在の渡島半島の南部に支配を確立しました。豊臣秀吉に臣従し、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地[*8]に対する支配権を認められ、江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いでしが、五代征夷大将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になります。さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名となりました。

     当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎません。慶長9年(1604年)に家康から松前慶廣に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていました。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされました。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとりました。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、しだいに取り締まりが厳しくなりました。

     松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業でしたが、ニシン(鰊)が不漁になったため、蝦夷地への出稼ぎが広まりました。城下の松前は天保4年(1833年)までに人口一万人を超える都市となり、繁栄しました。

     藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを制圧し挫折させました。

    [編集] [以後の主な出来事]

    • 1679年、松前藩の穴陣屋が久春古丹(後の樺太大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
    • 1711年 - ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキー、千島最北端の占守島に上陸。1713年には住民にサヤーク(毛皮税)を献納させ、ロシアの支配を認めさせた。
    • 1739年 - ロシア人シパンベルク、色丹島に上陸。
    • 1758年 - 弘前藩により津軽半島(外が浜など)に居住していたアイヌの同化政策が進む。
    • 1786年 - 最上徳内択捉島探検。日本人として最初に択捉島を探検した徳内は、このときロシア人が居住していること、択捉島現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。
    • 1789年 - クナシリ・メナシの戦い。
    • 1798年 - 近藤重蔵が東蝦夷を探検、択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立てる。
    • 1799年 - 東蝦夷地を幕府が直轄化。
    • 1800年 - 伊能忠敬が蝦夷を測量。
    • 1801年 - 最上徳内や富山元十郎などが千島列島の得撫島を探検し、「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。
    • 1802年 - 江戸幕府、蝦夷奉行を置く。後に箱館奉行となる。
    • 1804年 - ニコライ・レザノフが日露の通商を求めて長崎に来日、通商を拒絶される。
    • 1807年 - ニコライの部下、フォボストフらが択捉島や樺太に上陸、略奪や放火などを行う(フォボストフ事件)。幕府は東北諸藩の兵で警備を強化。西蝦夷地を幕府直轄化。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く。アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。
    • 1808年
    • 幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで樺太に派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
    • 長崎でフェートン号事件。
    • 1809年、間宮林蔵が樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷と正式に定める。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
    • 1811年 - ゴローニン事件。日露の緊張が高まる。
    • 1813年 - ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る。
    • 1821年 - 日露関係の緩和を受け、幕府は蝦夷地を松前藩に返還する。このころ以後、蝦夷地への和人移住が増加し、アイヌの生活・文化の破壊が顕著となる。

    [註]


    [*1]…外国から使節が貢ぎ物を持って来ること。

    [*2]…按司(あじ、または、あんじ)は、琉球諸島に存在した琉球王国の称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家にあたり、日本の宮家に相当する。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた。

    [*3]…中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。

    [*4]…一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体

    [*5]…土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来。本州の土師器の影響を受けたことがうかがえる。

    [*6]…日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家。津軽安藤氏とも。本姓は安倍。鎌倉時代には御内人として蝦夷沙汰代官職となり、室町時代には京都御扶持衆に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。近世以降は秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となった。

    [*7]…北海道南西部、檜山支庁管内最南端松前町に隣接する町
    [*8]…蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。

    参考文献:「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信
    出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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