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歴史の勝者 神功皇后

目 次

  1. 歴史の勝者 神功皇后
  2. 応神天皇(おうじんてんのう)
  3. 「三王朝交替説」
  4. 倭の五王
  5. 「治天下大王」の支配

1.歴史の勝者 神功(じんぐう)皇后

 神功皇后は、仲哀天皇の妃。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開化天皇玄孫・彦坐王の4世孫、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日槍(矛)裔・葛城高額比売命(かずらきのたかぬかひめ)。子が誉田別尊(ほむたわけのみこと)・応神天皇。日本書紀などによれば、仲哀天皇の急死(200年)により201年から269年まで政事を執りおこないました。また、『日本書紀』の「神功皇后紀」において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しているため、江戸時代までは、卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていました。

 ところで、「神功皇后伝説」は、すべては仲哀天皇と神功皇后の九州熊襲征伐から始まっています。

 仲哀天皇八年春正月、一行は、筑紫(北部九州)にわたった。秋九月、熊襲征伐のとき、神がいいました。

 「なぜ熊襲のような不毛の地を兵を挙げて打つ必要があるのか、海の向こうに宝の国がある。まばゆいばかりの金銀財宝がその国にある。これを新羅国という。もし私をしっかりと祀るなら、戦わずしてその国を服従させることが出来るであろう。また、そうすれば、熊襲もなびいてくるであろう」

 しかし、仲哀天皇は高い丘に登り、見てみるとどこにも国には見えません。そこで神に口答えしてしまいました。

 「海ばかりで国はありません。どなたか知りませんが、私を欺こうとしているのではありませんか。私が皇祖や諸処の天皇、神々を祀りましたが、まだ漏れた神がいるとでもいうのでしょうか」

 すると神は、神功皇后に向かって、

 「天津水陰のごとく見えるあの国を、何故ないといって私をなじるのか、信じないのなら、あの国を得ることは出来ないであろう。ただし、今皇后ははらんでいる。その子(応神)がかの国を得ることになるだろう」

 仲哀天皇はこの神の言葉を無視し、ついに熊襲を攻めてしまいます。結果、惨敗し、九月の春、天皇は突然病の床に就き、翌日亡くなられました。

 神功皇后と同行していた武内宿禰は、天皇の喪を秘密にしました。密かにご遺体を穴門の豊浦宮に移しました。

 祟る神の存在を知った神功皇后は、新羅征討を決心されました。自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせて神を呼び出させました。伊勢国の神を筆頭に、事代主神、住吉三神ということでした。そこでこれらの神々を篤く祀り、熊襲に兵を差し向けると、あっけなく投降してきたといいます。

 ここから、神功皇后の山門(やまと)攻めがはじまります。

 山門県(福岡県山門郡)の土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめ)を討ち取ると、行軍の矛先を北に向け、新羅征討を始めました。新羅は戦わずして降伏して朝貢を誓い、高句麗、百済も朝貢を約したといいます(三韓征伐)。

 四世紀後半から五世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の乱(527年)として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。

2.応神天皇(おうじんてんのう)

 応神天皇(おうじんてんのう)は、実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われる(崇神天皇を実在する最古の天皇とする説もある)。古事記の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。『記・紀』に記された系譜記事からすると、応神は当時の王統の有力者を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説がある。父は先帝仲哀天皇で、母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされるが、異説も多い。第二子は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命・仁徳天皇)。仁徳天皇の妃:日向髪長媛(ひむかのかみながひめ。諸県君牛諸井の女)の子に、大草香皇子(おおくさかのみこ、大日下王・波多毘能大郎子(ハタビノオホイラツコ))、草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ、橘姫皇女・若日下部命)雄略天皇の皇后。としているが養子説あり。

 では、『日本書紀』』には、応神天皇の生涯が、どのように記されているのでしょう。

 400年4月4日、景行天皇は、五百野皇女を伊勢に使わし、九州王朝の代々の王・天照大御神を祀らせました。

 6月3日、武内宿禰を遣わし、北陸および東方諸国の地形や百姓の消息を視察させました。ヤマト王権は垂仁天皇亡き後の統治において、北陸王権や東方(尾張)王権との連携を図る必要がありました。

 402年、景行天皇は日本武尊を派遣して熊襲を討たせることにしました。おそらく九州王朝からの招請があって派遣したのでしょう。

 405年、尾張王権の東部境が不穏で、その乱を平定するために東夷を征伐に向かいます。日本武尊は伊勢神宮で草薙の剣を授けられてのち、駿河の焼津で戦いのあと、尾張に帰還して、尾張氏の娘・ミヤヅヒメを娶りました。

 間もなく、近江の息吹山での係争に巻き込まれ、無理を重ね病気のなってしまいます。一旦尾張に帰還したものの、伊勢の能褒野にて亡くなりました。

 409年、日本武尊の子である仲哀天皇(景行天皇の孫)が即位。日本武尊の御陵に白鳥を飼いたいと詔し、越国が白鳥4羽を贈り、友好な関係が保たれています。

 410年1月気長足姫命(神宮皇后)を皇后に立てられましたが、これより先にいとこの大中姫を娶り二人の皇子が生まれていました。

 大和での政治はすべて景行天皇が行い、仲哀天皇は九州王朝から命ぜられ、朝鮮半島安定に一翼を担わされます。

2.八幡神

 応神天皇を祭神としている八幡神は日本独自で信仰される神である。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言う。八幡神を祀る八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)の数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。

 八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察しています。宇佐八幡宮の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』などでは、欽明天皇32年(571年)1月1日に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇の国風諡号)と称して八幡神が表れたとしており、ここから八幡神は応神天皇であるということになっている。

 現在では、応神天皇を主神として、神功皇后、比売神を合わせて八幡神(八幡三神)ともしている。神功皇后は応神天皇の母親であり、親子神(母子神)信仰に基づくものだといわれる。 比売神は八幡神の妃神と説明されることも多いが、その出自はよく分かっていない。

 また、応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神とした。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮としました。また、石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)、筥崎(はこざき)宮(福岡県福岡市東区) などが有名です。

3.「三王朝交替説」

 応神天皇の父の仲哀天皇から清寧天皇まで、天皇の陵墓も大和から大阪平野(河内)に造られるようになりました。

 昭和29年(1954年)、「三王朝交替説」を唱える水野祐氏は、第十代崇神天皇と第十一代垂仁天皇には「イリ」の名があります。景行天皇から仲哀天皇まで続く王の名には、「オオタラシ」のように「タラシ」の名が、さらに第十五代応神天皇からつづく王の名には、「ホムダワケ」のように、「ワケ」の名が付いています。

 このことから、「イリ王朝」「ワケ王朝」の入れ替わりがあったのだろうと推理したのです。

 崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる「古・中・新」の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てました。これは皇統の万世一系という概念を覆す可能性のある繊細かつ大胆な仮説であり、古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、半数に満たない15代であることに注目し、その他の18代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘しました。そして、15代応神天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成して考察を展開しました。

 いずれにせよ、応神天皇の時代、畿内の王権に何がしらの変化があったであろうことは想像に難くありません。「イリ王朝」を崇神王朝(三輪王朝)、「ワケ王朝」を応神王朝(河内王朝)、継体王朝(近江王朝)としています。

 なお、このころには、前方後円墳が巨大化しました。河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、15代応神は難波の大隅宮に、16代仁徳は難波の高津宮に、18代反正は丹比(大阪府松原市)柴垣に、それぞれ大阪平野の河内や和泉に都が設置されていることなどから、王朝が交替したかどうかは別として、応神天皇からの時代に、王朝が河内に移動したのは、王朝自らの直轄統治権が大和から河内湾に広がると、河内湾に港を築き、水軍を養い、瀬戸内海の制海権を握っていたことは確かです。また、たびたび宋へ遣使を行い、朝鮮半島への外征も行うなど航海術に関しても優れたものを持ち、アジアへとつながる海洋国家であったことがわかります。

 崇神天皇の和風諡号(しごう)は「御間城入彦五十瓊殖天皇」(ミマキイリヒコ)、次の垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅尊」(イクメイリヒコ)で、共にいずれもイリの付くところから、入彦の文字が「入ってきた男」の意味で、崇神、垂仁は邪馬台国が拡張ないしは分散し、ヤマトへ進出してきたのではないかという説があります。となると、「三王朝交替説」は、推測の域ではあるものの、日本語として素直にとらえれば、ミマキ(御間城)とは最初のヤマト王権だったことが有力な纒向遺跡(まきむくいせき)へ、他所から入城した初めての帝であるという意味だと考えられます。また、「別(ワケ)」はそのヤマト所在地から河内に分かれたという意味ではないかと想像します。「タラシ」は不明ですが「垂らす」あるいは「」、ヤマトに留まった時期を意味するのではないでしょうか。垂仁はヤマトに定住した初めての天皇という意味ではないか。

景行天皇が稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)仲哀天皇が帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)(古事記)、成務天皇が稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)

  • 「イリ」第10代崇神天皇・第11代垂仁天皇
  • 「タラシ」第12代景行天皇・第13代成務天皇・第14代仲哀天皇
  • 「ワケ」第15代応神天皇・第17代履中天皇

     第16代仁徳天皇については、実在の人物かどうかについては諸説ある。『日本書紀』では次の第17代履中天皇は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、第18代反正天皇は多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)となっているが、なぜか仁徳天皇については大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・聖帝とあって、「ワケ」とは記していない。

  • 4.倭の五王

     五世紀の五人の王、いわゆる「倭の五王」の時代、その陵墓は河内(大阪府)に築造され、その規模は古墳時代を通じて最大となりました。

     当時五世紀中ごろ、中国では江南に宋と華北に北魏が対立していて、国土を二分する南北朝時代が到来します。この宋に対して、倭の五王が、計十回ほど使者を送ったということは、ほとんどの歴史書に記されています。

     『宋書』『梁書』の中に、「讃・珍・済・興・武」としてその名を残す倭の五王とは、当時の大和朝廷の歴代天皇に他ならないのですが、それがどの天皇に相当するかは諸説あるようです。

     依然として朝鮮半島の鉄製産に依存していた倭国の王は、東晋の413年から宋の全期間にかけて、南朝への朝貢を行いました。当時の大陸の情勢はどうであったのでしょうか。

     まず、高句麗が北魏と結びます。そこで、その脅威に対抗するために、同盟関係にあった日本と百済が宋に接近しました。高句麗と北魏は陸続きで、いずれの同盟関係が実効性に勝り、強力かは自明です。日本と百済は海に隔てられていて、物理的に連携しづらいことはいうまでもないにも関わらず、対抗するためには、それを承知の上で、北魏と相対する宋に働きかけて、自分たちの同盟に取り込む以外、おそらく他にすべがなかったのでしょう。宋もまた、倭や百済との交流を、対北魏政策の一環として捉えていたに違いありません。

     倭の五王の上奏文は、懸命にへりくだって書いているのも、宋の後ろ盾を得たいがためのひとつの政治手段であり、そこに大和朝廷の明確な意図が見られます。

     一人目の讃が「倭讃」と「倭」姓を称したことは、倭国の王が姓を持った時期があったことを示すものです。また、二人目の珍が倭隋等13人に将軍号の叙正を、続く三人目の済が臣下23人に「軍郡」号の叙正を、それぞれ求めていることは、当時の倭国の王が宗から与えられた称号によって、地方豪族も含む国内の支配者層を秩序付けていたことをうかがわせています。

     五人目の「武」は、鉄剣・鉄刀銘文(稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天王に比定され、和風諡号(『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説から、他の王もそうであるとして、「讃」を応神天皇の実名ホムタワケの「ホム」から、「珍」を反正天皇の実名ミヅハワケの「ミヅ」から、「済」を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネの「ツ」から、「興」を安康天皇の実名アナホの「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。

     しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体については今のところ不確定である。記紀の伝える雄略(天皇)であったと推定されますが、讃・珍・済・興が最初に叙正されたのが安東大将軍であったのに対し、使持節都督・七国の諸軍事・安東大将軍・倭王に一度に叙正され、より高い地位に引き上げられたことになります。これは、百済(くだら)及び宗王朝の衰微によるものと思われます。新羅(しらぎ)や伽耶(かや)諸国に対する軍事支配権を中国の皇帝から認められたことは、倭国の支配者の記憶に深く刻印され、後世にまで大きな影響を及ぼしたはずです。以後一世紀余り、中国への遣使を行わず、柵封体制から離脱しました。隋が中国を統一するまで、倭国は朝鮮諸国の制度を継受しながら、独自の国政を形成していったのです。

     一方、「倭の五王」の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権のヤマト大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないとする説もある。5世紀中葉以降のヤマト政権は、各地域社会から出身の大・中・小首長達を宮廷に出仕させ、王権が直接掌握し、倭社会を統治していたことが考えられる。

     使いを遣わして貢物を献じた目的として、中国大陸の文明・文化を摂取すると共に、南朝の威光を借りることによって、当時の日本列島中西部の他の諸勢力、朝鮮半島諸国との政治外交を進めるものがあったと考えられる。

    5.「治天下大王」の支配

     5世紀後半までに大王・治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号は飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで用いられたと考えられています。

     大和言葉では「きみ」がこの概念に相当するものとされ、「王」の字訓となった。5世紀半ばに在位した雄略天皇(おおはつせわかたけるのみこと)は、大王(おおきみ)、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号を用いていたと推測されています。

     五世紀末の倭王武の時代のヤマト政権の支配観念を表す史料として、熊本県江田船山古墳出土太刀銘、および埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘の記載があります。

     五世紀中葉の築造とされる千葉県稲荷台1号古墳から出土した鉄剣の銘を見てみると、ここには「王賜(おうし)」というように、単に「王」という称号が見え、いまだ五世紀中葉までの時点では「大王」号(のちの天皇号)が成立していなかった事を示しています。

     江田船山古墳出土太刀の刀背に刻まれた銘文に「治天下」と記されています。当時、中国帝国に倣って周辺の民族をも支配する小帝国の形成を目指した倭国の支配者は、自らの支配が及ぶ地域の極界と主張する東と西、つまり毛人・衆夷と、海北、つまり朝鮮半島諸国の内側を「天下」と称したと考えられます。天下というものをこのように考える概念は、倭国独自のものであり、後世に日本独自の「天皇」号が成立する素地が、既にここに表れているとも考えられるのです。

     そして、この時期にはワカタケル大王(=武・雄略)の下、姓(かばね)の制や人制など、大化前の倭国の国制の基幹となった諸制度が創始されました。『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武が雄略天皇に比定されます。周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、朝廷としての組織は未熟でしたが、『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、古代の人々が雄略朝を歴史的な画期として捉えていたとみることもできます。また、稲荷山古墳出土鉄剣の銘にも「大王」号が記されており、朝鮮半島においては、新羅を支配下に置き、百済と抗争を続ける高句麗の王が、四世紀末に「大王」号を称しており、同じように百済への軍事支配権を主張していた倭国の王も、この頃「大王」を称し始め、高句麗と対峙する「天下」の支配者としての地位を主張したものと思われます。

     五世紀に大王家の外戚となっていた葛城氏から稲目の代に分立した襲我氏は、東漢氏(ヤマトノアヤシ)などの渡来系氏族を配下に置くことによって、王権の実務や財政を管掌しました。稲目は大臣(オホマツキミ)として王権の政治を統轄する一方、娘の堅塩姫(キタシヒメ)と小姉君(オアネノキミ)を欽明の妃(キサキ)とし、用明、崇峻・推古をはじめとする多くの王子女の外戚となることによって、その権力を強めました。

     そうしたワカタケル王(雄略天皇)の努力に関わらず五世紀後半から6世紀前半にかけて王統が数回断絶し、中国王朝との通交も途絶しました。五世紀後半の475年、高句麗の南下によって百済は南方へ移動しましたが、この事件は百済と友好関係にあったヤマト王権(倭国)にも経済的・政治的な影響を与えました。ヤマト王権は百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済基盤・政治基盤を築いていましたが、半島における百済勢力の後退によりヤマト王権が保持していた半島南部の基盤が弱体化し、このことが鉄資源の輸入減少をもたらしました。そのためヤマト(倭国)内の農業開発が停滞し、ヤマト王権とその傘下の豪族達の経済力・政治力が後退したと考えられており、6世紀前半までのヤマト王統の混乱はこの経済力・政治力の後退に起因するとされます。

    −出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信
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