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天日槍と伊和大神の国争い

概 要

目 次

  1. 天日槍命と伊和大神(イワノオオカミ)の国争い
  2. 塗り替えられた気多の歴史
  3. 伊和大神(いわのおおかみ)
  4. 『播磨国風土記』の考察
 『播磨国風土記』[*1]には伊和大神(いわのおおかみ)とヒボコとの争いが語られています。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られています。 ヒボコは海水を攪きて宿ったとある宇頭の川底とは、「宇須伎津の西の方に紋水の淵あり。」とされ、姫路市網干の魚吹八幡神社(うすき)が遺称地です。

ヒボコと伊和大神の国争い


写真左から銅剣・銅鐸・銅矛複製 荒神谷博物館
 ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。

 ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。

 葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘(いいぼのおか)に上がった。

 葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)[*6]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

 その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

 ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。

 神前郡多駝里粳岡は伊和大神とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

 アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。

 日本に着いたアメノヒボコは、難波(なにわ=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。

 そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国(はりまのくに)にやって来たのです。

 播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神(いわのおおかみ)という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、

 「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」

 と断りました。

 ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

 「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」

 大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

 一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。

 二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。

 二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。

 「このままではまわりの者が困るだけだ。」

 そこで二人は、こんなふうに話し合いました。

 「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」

 二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*6]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。

 二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。

 「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、

 「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。

 「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」

 伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。  黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。

 アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。

 ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

 その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。


  • *6志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま)
     宍粟市と養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。   [*6]扶余…紀元前三世紀から現在の中国吉林市付近にあった最も早くからあった国家。五世紀末に高句麗に降伏して滅亡。

    [*7]『三国史記』…高麗の編纂した高句麗・百済・新羅の史書。1145年に成立。朝鮮における現存最古の体系的な史書。

  • 2.塗り替えられた気多の歴史

    PHOTO 02/05/10
    気多(氣多)神社[ケタ]
    兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227

    式内社 但馬國総社[*1] 気多大明神

    御祭神 「大己貴命」 境内社には、八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社等が祭られている。

     伝承や神話は、現実離れした話しが多いですが、しかしまったくでたらめなら意味もなく何代にも渡って語り継がれたものではないでしょう。

     小学校低学年の頃遠足に行った以来、初めてじっくりと訪れてきました。


    平成20年(2008)12月31日建立
    新しい鳥居が建てられていました。
     国道482号線を出石方面に鶴岡橋を渡るとすぐ、但馬国府が置かれた推定地の対岸にあります。かつては、円山川(蓼川)の畔に船着き場がありそこから参道がつながっていたのでしょうが、円山川堤防の上を通る国道482号線のすぐ下にある道に挟まれています。国道からは神社に通じる広い道がなく、鳥居が道路のすぐ下なのですが神社に行く経路は、に鶴岡橋を渡ると上郷の村に入る市道に降りてから左折し畑の農道で行けることを発見するまで、ずいぶんかかりました。かつては但馬総社の立派なお宮で川が交通路だった時との移り変わりが気の毒なようです。

     「日高町史−気多郡に隣接する養父神社や出石神社には、神戸が伏していた。一定数の封戸が割り当てられ、その戸が納める租税がその神社の収入となっている。気多郡の中心的な神社は、その名前からして気多神社が中心的な地位を持つ神社だったろうが、神戸は寄せられていない。

    −−−それらの神社は但馬の平野部の、どちらかといえば盆地性の比較的まとまった地域の中に存在していて、その土地の有力豪族から祭祀を受けていたものだった。この意味で、気多神社を奉じたと思われる気多氏の勢力は、養父神社や出石神社を奉ずる祭祀集団に及ばなかったものであろう。だから気多神社には、但馬国府の膝元に存在し、全但馬の中心的な場所を占めていた(惣社)にも関わらず、神戸の施入がなかったのである。」


    本殿 冬化粧中

     太古山陰地方は「大国主命」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許男命」と称させていた。

     新羅国の王子「天日槍」が宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、「葦原志許男命」と支配地争いになったが、和解の結果、志爾蒿(シニダケ)山頂から両者三本の矢を射て支配地を決めることになった。

     天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許男命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
     そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許男命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)

     「国司文書」によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建された。


    新しく造られたらしい気多神社の由来の碑
     御由来:創立年月不詳なるも大己貴命(葦原志許男命(あしはらのしこをのみこと))と天日槍命と国占の争ありし時、命の黒葛此地に落ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し、中世以降総社 気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有したりき 明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。

     大化改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。


    摂内社
     現在の社殿は延宝五年(1677)の再建であり、大正十二年に大修理を行い現在に至っている。現存する鰐口(わにぐち)は応永三二年(1425)の作で町文化財に指定されている。明治三年気多神社と社名を改め、明治五年郷社に列せられた。

     惣社気多神社がある現在の豊岡市日高町上郷地区に関係があるのは間違いないが、口伝によると、気多神社は古くからここに鎮座していたのではなく、移転してきたものだというが、元の場所はといえば分明していない。

    総社(惣社)とは

    各所の神社に奉斎する祭神を、一箇所に勧請し合祭した神社の称。惣社とも書く。一般には一国の総社を指していうが、一郡・一郷の総社、寺院の総社、私人宅の総社などの例もある。各国総社の起源については諸説があるが、平安中期から末期にあると推定され、国司が関与した管内諸社の神霊を、国府に近い便宜の場所に勧請し、奉幣・参詣の簡便をはかったものといわれている。『白山之記』によれば、加賀国司の使が毎月朔日に一ノ宮白山社・二ノ宮菅生石部社など国内八社を巡拝していたが、その煩らいを廃するため、国衙に接する一所に合祀し、府南総社と名づけたとある。なお武蔵国総社大国魂神社祠官・猿渡容盛(明治十七年七十四歳歿)の『諸国総社誌料』は、未定稿ではあるが国別に資料を揚げ考証を加えている。 −『神道辞典』−

    3.伊和大神(いわのおおかみ)

    伊和神社 兵庫県宍粟市(旧一宮町)にある神社。宍粟市一宮町須行名407
    播磨国一宮で、延喜式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社。

     播磨国の国土開発の神として大己貴神(おおなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)とも記されています。本文も伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成です。
     播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、渡来人(神)のヒボコとの土地争いが伝えられています。
     風土記には、宍粟郡(しそう)から飾磨郡の伊和里(いわのさと)へ移り住んだ、伊和君(いわのきみ)という古代豪族の名が見えることから、この伊和氏[*7]が祖先を神格化した神と考えられています。
     なお、伊和神社の社叢(しゃそう)は、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されています。

     祭神は伊和大神(大己貴神)を祀ります。『播磨国風土記』にその名が見え、神社周辺は豪族・伊和族の根拠地であったと考えられ、末裔の伊和一族が祭祀したとみられています。

     『播磨国風土記』によると大己貴命は出雲から来た神と記されている事から、大己貴命は出雲から宍粟市一宮町伊和あたりに住みつき、勢力を拡大し、伊和族とともに播磨統一を目指したと思われてきました。しかし最近では、大己貴命は奈良県桜井市にある三輪山付近で勢力を伸ばしていた一族の長で、この三輪族がなんらかの理由でこの地を離れ、海路、播磨に辿り着いたのではないかと言われ始めています。また、播磨土着の神が、後に大国主神に習合されたという見方もあります。

     『播磨国風土記』によれば、大己貴命が姫路平野に辿り着き、居を構えた手柄山南方の山を、三和山と名付けたと言います。

     三輪山西南麓には金屋遺跡があり、ここからは縄文時代初期の土器が発見されており、日本で最も早く拓けたところと思われますが、この遺跡からは弥生時代の遺物とともに、製鉄が行われていた事を示す遺物が発見され、近くの穴師兵主神社にも鉄工の跡が見られると言います。つまり、この三輪山は古代の鉄生産に関わる山であり、この山を御神体とする大神神社の御祭神は大物主大神で、この神も大己貴命と同一神とされています。

     砂鉄を含む山は「鉄穴山」と呼ばれ、砂鉄を採る作業を「鉄穴流し」と言い、そこで働く人々を「鉄穴師」と呼びます。つまり古代において「穴」は「鉄穴」の意から「鉄」を表し、大己貴命は「大穴持命」・「大穴牟遅命」を記す事から「偉大な鉄穴の貴人」という意味で、すなわち「鉄穴」の神であり、産鉄の神であったということがわかります。大己貴命という名は、新しい産鉄・製鉄の技術を持った鉄鍛冶の長が代々、継承した名前かと思われ、播磨に辿り着いた大己貴命とその一族は、市川や夢前川、揖保川流域の砂鉄を使って、鉄を作り、武器や農具に変えて、播磨を支配下に入れ、豊かな田園地帯を作り上げて行きました。

     播磨風国土記には、大己貴命とともに大活躍を見せる少彦名命という神さまが登場し、2人の神さまが競う様に市川を北上し、播磨を開拓して行く様子が描かれています。日本書紀によると、大己貴命が出雲の海岸で少彦名命と出会った時、少彦名命は手のひらに乗るほど小さく、まだ言葉もしゃべれなかったといいます。その後、大己貴命は、少彦名命の父神さまに会い、弟として一緒に国づくりをさせてやってくれと頼まれたと言います。産鉄・製鉄の神さまである大己貴命に対して、少彦名命は、薬学や養蚕、酒造りなどの神様と言われ、日女道丘に落ちた蚕子は少彦名命の荷物かもしれず、播磨で酒造りが盛んなのも少彦名命のお陰なのかもしれません。

    4.播磨国総社(惣社)射楯兵主神社

    姫路市総社本町
    播磨国総社(惣社)
    御祭神 大己貴命

     射楯兵主神社は、にあります。射楯兵主神社は、大己貴命を御祭神としており、十二所神社は、少彦名命を御祭神としています。この2人の神さまは、今でも白鷺地域に暮らす人々を見守りつづけ、二人が仲良く播磨の国つくりを進めたように、城巽と城南の人々が力を合わせて、良い街をつくる様にと語りかけているように思えます。

    3.『播磨国風土記』の考察

     『播磨国風土記』では神代の渡来神・ヒボコ命として登場し、葦原志挙乎命(葦原志許乎命・伊和大神・どちらも大国主と同一視される)と土地を奪い合った神として描かれている。記紀とは年代や争いがあったかどうかなどが異なる。

     揖保郡(イボグン)、宍禾郡(シソウグン)、神前郡(カンザキグン)の地名説話として争いが描かれ、争いの結末は双方が三本の黒葛を投げる占いの結果、葦原志挙乎命の葛は播磨に一本・但馬に二本、ヒボコ命の葛は全て但馬に落ち、ヒボコ命が但馬伊都志(出石)に退くことになったとしている。

     名前に「ホコ」があるようにヒボコ命には製鉄(青銅)との関連があり、これは土着勢力と渡来系の製鉄集団の鉄を巡る争いであったと考えられている。

     この二人の足跡は、摂・播国境に近い神戸市西区から、宍粟郡(しそうぐん)・神崎郡(かんざきぐん)を中心とした播磨、但馬(たじま)の出石郡(いずしぐん)、という広い範囲(現在の兵庫県)に散らばっていています。

     しかし、『播磨国風土記』の讃用(佐用)郡(サヨグン)の項では、伊和大神は「賛用比賣命(サヨヒメノミコト)」との国占めに負けて立ち去っているから、大神自身、もともと播磨(ハリマ)にいた神ではなかったのかもしれない。普通は、『播磨国風土記』にも登場する、伊和君(イワノキミ)[*7]の一族が奉じた神であったとされています。

     播磨の土着勢力は、ヒボコ命よりも早くから鉄を求めて出雲からやってきたやはり渡来氏族であろうと思います。

     「続日本紀養老六年(七二二)三月の条によると、播磨には鍛冶の技術者として、忍海漢人麻呂と韓鍛冶百依とがいたことが知られる。居住の郡名は不明であるが、延暦八年(七八九)における美嚢郡大領に韓鍛首広富がいたことからして、忍海漢人・忍海部・韓鍛冶などの製鉄技術をもつ朝鮮系渡来者は、播磨から丹波・但馬へかけて在住していたと思われる。東漢氏の系統は、上述の忍海漢人のように新羅より渡来したという伝承をもつものもあるが、おおむね百済からの渡来者と考えられる」

     市川や夢前川流域には鉄の意を持つ「穴」に因んだ地名が多く、最もはっきりしているのは飾磨区阿成です。この地名は「穴師」から来ている事は明白で、ここに製鉄に携わる集落があったことがわかります。また、阿保も古代には「穴保」と記されたと思われ、網干も穴保師が、大己貴命の子、英賀比古・英賀比売の暮らした英賀も、もともとは「穴処」であったと推測されます。また、「室」という字は鉄を溶かすタタラを意味し、安室は昔、「韓室里」と呼ばれた事からも、この里は製鉄に携わる帰化人の集落であったことがわかり、その南の山吹も、自然の風を利用した吹子があったと考えられます。また、金屋町ができる以前から、野里には金屋と呼ばれた地域があり、この辺りでも鉄が作られていた事がわかります。他にも鉄を表す言葉として、「サヒ・サビ・ソブ」「サナ・シナ・シノ」「ニフ・ニブ・ニビ」「ヒシ・ヘシ・ベシ」等の言葉があり、広畑区才は「サヒ」、仁豊野は「ニブ」、別所は「ベシ」から来た地名かと思われます。  一方のヒボコも、新羅から渡来した人であります。ヒボコ自身の出自についても、『古事記』には不思議な話が伝わっています。つまり播磨にとっては、どちらも外来の人(神)であったということだろう。とあります。

     これは土着の出雲民族と渡来系の出石民族の勢力争いの記憶をとどめる物語というのが定説になっているようです。このとき争った土地は、中国山地の揖保川(いぼがわ)や千種川(ちぐさがわ)の流域で、かつては砂鉄の産地であったところです。ここから、ヒボコ神が古代の製鉄技術と密接に関係していることもうかがえます。

     神宝の鉾は、太陽神を祀る呪具であり、朝鮮からの渡来民が使っていた太陽神を祀る祭具と考えられます。「ヒボコ」という名前自体が太陽神を祀る祭儀で使われる鉾を表しており、それは太陽神の依り代です。またここで登場する国は渡来系の人々の影響の強い土地です。定住した但馬国では国土開発の祖神とされ、現在でも厚く信仰されています。これらのことから、ヒボコは出石に住んでいた朝鮮南部系の渡来人が信仰していた神と考えられます。

     いずれにせよ、「記・紀」で「天」が名前につき、皇室の祖先に深く関係する天津神並みの表記であり、他国の王子の名としては「天」の漢字がついた名は、他にあまり類例がありません。天津神とは外国の神であり、国津神・地祇神とは日本にあった土着神です。

     しかし、おそらくこうした性格は、天(あま)は海(あま)で、もともと海人族(漁民)の信仰していた海、もしくは風の神と、ヒボコ神(武神)の信仰が結びついたものではないかと思われます。また、福井県敦賀市の気比神宮のホムタワケ(応神天皇)とイササワケ(伊奢沙別大神)が名前を易(か)えたとされる伝えと似ており、『日本書紀』においてはヒボコ神が気比神宮に立ち寄ったとされる記述もあることから、この二神は同一神ではないかといわれています。

     日本書紀に「淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」「アメノヒボコは剣でこれをかき回して宿った。」とあり、淡路島にもヒボコの残影が色濃い。ヒボコが、海水をかき回して渦の上に宿ったというのは淡路島のことではなかったかと思えます。鳴門海峡という渦の名所があり、播磨に上陸する至近距離にあるからです。

     出石の街を見下ろす丘陵地 入佐山の尾根の上に古墳時代にこの地を治めた豪族の墳墓と見られる古墳群があり、その一つの4世紀頃の方墳 入佐山三号墳には刀・武器・鏡など数々の品と共に「砂鉄」が副葬されていた。また、出石神社の北の丘陵地の山裾の袴狭遺跡出土の平安前期の木簡から「船団」を描かれており、また、この地に金属の渡来系技術集団「秦氏」の存在が裏付けられる一方、入佐山の直ぐ傍で出石川から分流する奥山川の分流地に「鍛冶屋」の地名が残っており、さらに1kmほど奥に古い由緒を持つ「伊福部神社」があります。


    国宝『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)

     奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされています。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

    【伊和中山古墳群】いわなかやまこふんぐん

     宍粟市一宮町伊和に所在する、古墳時代前期〜後期の古墳群。伊和神社の南東にある丘陵上に、前方後円墳1基を含む16基の古墳が確認されており、うち1号墳と2号墳の発掘調査がおこなわれています。

     古墳群中最大の1号墳は、全長62mをはかる前方後円墳で、竪穴式(たてあなしき)石室内に全長5mの木棺を埋葬してありました。副葬品には国産の方格(ほうかく)T字鏡、環頭大刀(かんとうたち)、剣、鉄鏃(てつぞく)、鉄槍(てっそう)、鉄斧(てっぷ)、玉類があります。揖保川上流域における古墳時代史を研究する上で重要な古墳群です。


    [註]  [*1] 『播磨国風土記』に、「伊和君」として記される古代豪族。『播磨国風土記』によれば、もと宍粟郡の石作里(いしづくりのさと)を本拠とし、飾磨郡の伊和里(いわのさと)に移り住んだとされます。伊和大神を奉じ、これを祭る伊和神社は、宍粟市一宮町に所在します。
  • *7 伊和氏(いわし)

    参考資料:兵庫県立歴史博物館
    但馬國出石観光協会
    「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
    ウィキペディア

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