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銅鐸は殺されたか

目 次

  1. 講演と「銅鐸は殺されたか?」
  2. 講演と破壊実験
  3. 銅鐸文化圏と銅矛文化圏
  4. 原産地はどこであったか
  5. 銅鐸はなぜ消えたのか?
  6. 銅鐸を拒否した新王権
  7. 銅鐸から考える

1.銅鐸は殺されたか?

 大きな古墳が造られるようになると、銅鐸は消えてしまいます。兵庫県立考古博物館石野館長の公開講座によりますと、

「銅鐸は殺されたか」

 銅鐸は弥生時代の数百年間のお祭りの道具です。神様を祀るためのいわばシンボルであるわけです。仏教を信じている人だったら仏像みたいなもの、キリスト教だったらキリスト像ですね。そういう、シンボルであるわけです。それが大きな古墳を作るようになったときに、なくなってしまうんですよね。消えてしまっている。 それは一体なんでだろうか?っていうのが今日のテーマになります。

 銅鐸が実際にどう使われたかっていうのはよく分からんのですが、言われているのは、絵が描いてある銅鐸が出土していて、その絵解きから、京都大学の小林行雄さんなんかは農耕儀礼という解釈をしてるんですよね。臼で米ついてるような、あれは脱穀の姿ということなんですけれども、そういうのとか、高床の倉が描いてあったりとか、トンボとかカマキリがおったりとか。春に種をまき、秋に取り入れ、そして神様に祈りを捧げてというような、農業に関わって、お米がたくさんとれますようにとか、そういう神様に祈る時の道具なんだろうというわけです。

 銅鐸は釣鐘のような形をしていますが、外から叩くものじゃなくて、本来は内側に棒をぶらさげていて、それで内側から鳴らして音をだすというものだったのでしょう。あちこちの博物館で、銅鐸を鳴らして聞かせているところがありますよね。

 ただ、橿原考古学研究所附属博物館、今度もし行かれる機会があったら、あそこの博物館で鳴ってる音は用心して聞いた方がいいと思います。作った銅鐸で音を鳴らしております。銅鐸の厚さが、3〜4ミリ、5ミリぐらいのもあります。本物の銅鐸は2ミリぐらいです。厚さ2ミリの音と、4〜5ミリの音は全然違うはずですから、あれは本物の音ではないですね。残念ですけれども。

 話はそれますけれども、実際に鋳物屋さんの所で何回もテストをやっても薄くは出来なかったんです。都合10個ほど時間と経費もかけてやりましたけれども。 薄くしようとすると成分を変えないかん。鋳物ですから外型と内型の隙間に流し込むんですが、同じ成分でやろうとすると、溶けた銅がうまく隙間へ流れ込んでいかないんです。結局、本物の銅鐸を分析した成分でやったら厚くなってしまう。

 今からもうずいぶん昔の話で50年ぐらい前ですが、白鶴美術館で淡路から出た銅鐸を展示室にぶら下げてですね、銅の舌(ぜつ)が一緒に出てますから、それをぶら下げて、叩いてホントの音聞かせてくれました。僕が本物の音を聞いた最初で、たぶん最後ですね。もう、今はもうそんなことはできませんから。

 そういうふうにして音をならして神様を祀る道具だったわけです。

 弥生人の銅鐸に対する意識が何で分かるかというと、出土した状況にヒントがあります。今、日本中で銅鐸は500個ほど出てます。一番多い県が実は兵庫県なんです。島根県で39個まとまって出た(加茂岩倉遺跡)ので、出雲に負けたかなあと思ったら、そうじゃなくてまだ勝っているようです。その次に多いのは島根県とか滋賀県とか徳島県ですね。

そいうところが30〜40数個の銅鐸が出ております。しかし、実際に埋まったままの状態で出てきてる銅鐸というのはとても数が少ないです。

 島根県の工事で40個近く出てきたものなどは、工事で35個ぐらいは出してしまった後ですから、それを除きますと日本中で14〜15個ぐらいでしょうかね、発掘調査できっちり出土状態のわかるのは。

 銅鐸の出土状態を見ますと、普通に考えれば釣鐘の様な形のものを埋めるのに普通は縦に穴掘って埋めますよね。ところが銅鐸を横にして埋めているんですよね。横にしてヒレを立てているんですよね。 「それはなんでか?」というと、よくわかりませんが、出土状況の分かる15個のうちの13個まではみんなこの状態で埋まっています。あとは、立てたのと逆さのが1個ずつありましたかね。そういう埋め方しているのがありますけれども、ほとんどは横にしてヒレを立てている。

 銅鐸にはA面B面呼んでいる2つ面があって、その2つの面の両方に描いてある紋様に、それぞれに意味があるはずで、意味を持った両方の顔を立てる(これは私の勝手な解釈ですけれども)。両方の意味を、どっちかを上にするとか下にするとかいうわけにはいかんから横にして立てているんだ、ということに一応、私はしているんです。  また、神戸市の桜ヶ丘銅鐸の内面の土の付き方を細かく見ると、開いてる釣鐘の底のようなところから土が入っているんですけど、土の線をみると斜めから流れ込んでいるのが分かります。外が広くてあと奥の方へいくほど少なくなってるんですよ。

 しかし、桜井市の大福遺跡から出土した銅鐸は、調査が終わって取り上げて30数分ほど写真撮影をした後、銅鐸をもって建物の中に入ろうとした時、中に詰まった土が銅鐸の形の状態でスポッと抜けてしまうということがありました。銅鐸の内側のてっぺんまで土が一杯詰まっておった。これは、自然に入った状態ではないですね。意識して中に土を詰めたということです。ということは銅鐸を埋める時にもう2度と出てくるなという埋め方をしてるんじゃないでしょうか。

 それから但馬の豊岡市日高町久田谷で、工事をやったときに偶然地元の人が気がついて拾って集めた銅鐸があります。1mぐらいあるような大きな銅鐸を10pぐらいの大きさにたたき割って、穴掘って埋めていました。これはもう弥生の神様はいらないということだと思います。

 気象学の先生によりますと、ちょうど卑弥呼が登場する邪馬台国の時代というのは、アジア全体に天候不順が続いておったそうです。「魏志倭人伝」という本が有名ですけれども、その中の韓国の地域のことを書いた「魏志韓伝」というところには、「人、相食む」と書いてあるんですね。人間がお互いに食い合ったという。それほど食糧危機が続いた、と書いてあります。

 それを参考に考えますと弥生時代の終り頃、いくら一所懸命神様に祈っても、銅鐸を祀って祈っても、食い物が手に入らない時代があった。「もう、こんな神様はいらん!」ということで、叩き割られたり、埋め殺されたりしたんじゃないかというのが、今日の話です。

 そういういう状況がどこにあるかというと、先ほどの桜井市の大福遺跡でも銅鐸が埋め殺しされていたり、徳島県の矢野遺跡でも埋め殺されてました。それから叩き割られたのは徳島県にもありますし、それから静岡の方にも(3つか4つほどですけれども)叩き割られた状態のものがあります。

 一度銅鐸の叩き割りの実験やりたいんですけどね(笑)、本当に叩いて割れるだろうか?という。橿原考古学研究所で作った銅鐸を「それ、1個くれ。ワシ、割りたいんや。」いうたら「いやや。」っていわれて出来なかったんですけれども。(笑)

 そのうち銅鐸作って割ってみたいなって思うんですが。そう簡単に割れないんじゃないかなと思います。火で熱して水をぶっかけて割っただろうと言う人もいます。いずれにしてもそこまでやって叩き割るようなことをやっています。今まで何百年も拝んで祭り続けてきた神様の道具を叩き割るということをね・・・ 次に、この新聞にありますのは、卑弥呼登場の頃の奈良県で、単に割るだけじゃなくてそれを他のものに鋳直していますという記事です。その証拠に、金属を溶かすために風を送るふいごの羽口なんかと一緒に出ています。鋳潰して他の物に作り変えようとしている。

 これは、今の立場で考えましたら、家に祀ってる神さん、あるいはお寺にある仏像などを叩き割って潰してしまうというようなものです。明治維新のときに廃仏毀釈という運動が起こって、国中の仏さんを叩き潰せということを政府が命令した。実際に奈良のお寺なんかも壊されてるわけなんですけれども。その時に「なんぼお国が言っても、昨日まで拝んでおった仏さんは、よう壊さん。」って言って穴掘って埋めたりとか、池に隠したりしたとか、日本のあっちこっちにそういう話が伝わっております。まあ、それが人情ですよね。

 それなのに奈良の弥生人は鋳つぶしてほかの物に作り変えるとか、但馬の人もぶっつぶして破片にして埋めてしまうとか。また土を詰め込んで、よう壊さんけど、もう出てこんといてくれ、というて埋め込んでしまうとか。 いわば宗教改革ですね。弥生後期末、180年代後半に新しい「鬼道」という宗教をもって女王卑弥呼が登場するときにそういうことが起こったじゃないのかな。というのが、今日の「銅鐸は殺されたか」という「か」を取りまして「銅鐸は殺された」という話であります。

 以上で終わります。

2.破壊実験

 兵庫県の豊岡市の久田谷遺跡では粉々に破壊された銅鐸が出土しました。このような祭器の破壊行為は銅鐸を祀る“宗教的な行為”が否定されたと考えられます。しかし、どうやって破壊したのか実態がよくわかっていません。今回は復元した銅鐸をつかって破壊方法を検証してみます。

 現在470点あまり確認され、その分布は北部九州から東海地方に及ぶ。弥生時代前期から後期にかけて出現しています。 破壊銅鐸:兵庫の豊岡市久田谷遺跡(県内4例:宍粟市岩野辺・豊岡市九日市・姫路市大井川第6地点)をはじめ大阪・岡山・鳥取・香川・奈良・滋賀・愛知・静岡・長野など30例あまり確認されています。中でもの破片が117片も一カ所で見つかった久田谷遺跡は、全国でも稀です。 2009年2月8日(日)、銅鐸破壊実験が兵庫県立考古博物館(兵庫県飾磨郡播磨町大中)で初めて行われると知ったので行って来ました。 講演と破壊実験

館長 石野博信先生

1 朝日銅鐸(愛知県:弥生時代中期末から後期初期) レプリカ成分:神於(こうの)銅鐸(大阪岸和田 弥生時代中期)  (銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%)  4つのパターンでレプリカ銅鐸を破壊する。

  • T:カケヤで叩く
  • U:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
  • V::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く
  • 以下パターンVを繰り返す
  • T:カケヤで叩く 力強く叩くと少しへこみましたが割れませんでした。
    U:焚き火で加熱(10分)
    すすで黒くなった銅鐸に水をかける。まったく変化はありませんでした。
    V::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く
    壊れました〜!しかし、久田谷銅鐸片のように均等になりませんでした。
    2000年近くたった現代人なのに当時はどのように壊したかわかりません。

     しかし、今回初めての実験で、破片は大きかったり細かくなったりで大きさは一定にならず、今から2千年も前にどのようにどのようにきれいに正方形に破壊できたのかはナゾは深まるばかりです。

     今の技術をもってしても、2〜3mmの厚さに仕上げることは高度な技術だそうです。どうやってそんな技術を持ち得たのか、また、どうやって10cm角にきれいに砕くことができたのかがわかりませんでした。

     拙者の想像ですが、銅製の器具では同じ銅鐸は壊せないでしょうから、もっと鋭利な固い鉄製の斧を持つ集団が壊したのでしょうか?改めて先人の破壊方法がすごい技術だったことがわかりました。

    3.銅鐸文化圏と銅矛文化圏

     かつては遺跡が発掘される事自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがありました。そしてこの偏りが絶対であったうちは中京以西の列島を二分する「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」の存在によるものであると捉えられ、仮定としてではなく真剣に論じられていた時代がありました。さらに中国地方を銅鐸と銅剣の両方が見つかる「銅剣文化圏」としてこれを加え、三つの文化圏が対立しあっていたとする説もありました。

     しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったこと(特に有名な例が吉野ヶ里での出土)が多くなり、この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなりました。しかし、現在でもこれらの出土分布の大勢に変わりはないようです。

     それらと忘れてはいけないのが、縄文時代以来の勾玉(マガタマ)。これはどの地域でも大差なく分布しています。

     今のところ、日本での銅鐸の発生については、弥生前期説と弥生中期説に分かれています。弥生前期説をあげる人には近畿地方が古いという先入観があるように私には感じられます。それから

    弥生中期説をあげる人は佐賀県あたりで発生したのではないかと推測しています。佐賀県では工房(竪穴住居址)の中から銅鐸の鋳型が出ています[*4]

     その鋳型といっしょに、そこで作っている銅剣の年代とかいっしょに出てくる土器の年代でそれは弥生中期後半ということが分かりました。ただし一番古い銅鐸の少し後ぐらいです。だから、もう少し前から銅鐸があってもいいので中期説です。つまり中期説は北部九州起源論[*4]です。私は北部九州起源論をとっています。佐賀県の鳥栖で鋳型が出土しました。この鋳型が今のところ一番古いものです。一番古い銅鐸の中のちょうど中頃くらいです。小型銅鐸です。小型銅鐸を前後の時期に分けますと、それは後の時期の方で、最古に近い銅鐸といってもいいでしょう。近畿地方にはそのような銅鐸はかけらもない時代です。その後鳥栖では別の遺跡からも古い銅鐸の鋳型が出ました。その模様が今度の加茂岩倉遺跡で見つかった一番見事な海亀が泳いでいる絵が書いてある銅鐸(10号銅鐸)と共通する部分があります。すごい銅鐸です。2ミリで仕上がっているもので、佐賀県の鳥栖の本行(ほんぎょう)遺跡から出ました。したがって出雲の銅鐸にも九州の影響が入っているのです。

     このように今は九州を入れないと銅鐸の系譜は語れなくなってきています。高校の教科書では従来近畿を中心に丸をうって銅鐸文化圏、九州を中心に丸をうって銅剣・銅矛文化圏と紹介されてきましたが、あれは古くなってきてしまいました。銅剣はご承知のとおり島根県の荒神谷遺跡1箇所で350本ほど出ています。今まで日本で出土された銅剣の数より多くなりました。従来の教科書の分布図は何の役にもたたなくなりました。分布というのはこのように遺物が発見されることによって変わってきます。関東にも若干小型銅鐸は出ますし、東京都内にも出始めました。数年前に高田馬場から出ています。だから関東も今や銅鐸文化圏の中で語らなければいけなくなりました。(銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏は古い説)[*5]

     それでは弥生時代にいったい銅や錫をどのようにして手に入れたのでしょう。小林行雄さんは弥生時代の銅鐸、銅剣、銅矛の原料は全部大陸からスクラップとして持ってきたという説だったのです。ところが、神戸で14個の銅鐸が出た1964年頃(桜ヶ丘銅鐸)、その銅鐸の分析を当時関西大学におられた亀井清教授がしました。この方はその当時としては銅の抜群の学者だったのです。その亀井先生がずっと調べました。そうすると小林理論のようにはならなかったのです。つまり中国や朝鮮半島から銅剣とか銅矛のスクラップ、いらなくなった物、折れた物を輸入してきて溶かした場合、小林先生がおっしゃるような割合にならなかったのです。溶かした場合に溶かした中に残る元素と、カス、カラミと言うのですが、カスに混ざって出てしまうものがあります。ところがカスになって出てしまうはずのものが銅鐸に残っていたりするのです。だから亀井先生の分析の時から

    スクラップ説というのは無理がある[*6]

    と言われていました。

    4.原産地はどこであったか

     二つ目の重要な問題は、

    朝鮮半島や中国の小銅鐸という素型になるものと、日本の一番古い銅鐸との間にもものすごく違いがあります。[*3]

     活字の世界では銅鐸の素型は朝鮮半島にある小銅鐸だと書いてありますが、朝鮮半島の小銅鐸と、九州から広島あたりに分布している銅鐸の一番古いものと比べるとあまりにも違います。例えば、朝鮮の小銅鐸にはぐるりの鰭(ひれ)という出っ張りの飾りがないのです。銅鐸の一番古いのにはこれが付いています。また朝鮮の小銅鐸は模様がないのですが、銅鐸には一番古いものでも模様があります。だから銅鐸の遠い起源は朝鮮半島の小銅鐸にありますが、日本の一番古い銅鐸との間にかなりの違いがあります。日本の一番古い銅鐸には日本列島人のアイディアというか独創力がものすごく入っています。

     原産地となった銅、錫、鉛などの原産地はどこであったかが大きな問題です。    大阪に三宝伸銅という会社があります。これは日本の大きな銅メーカーです。元の社長の久野雄一郎さんは、現在、銅についてのナンバーワンの学者です。電子顕微鏡で銅鐸を観察してくれました。すると自然銅の塊がぼこぼこ見えるのです。自然銅というのはヨーロッパでも青銅器の材料に使われています。竹の子やわらびのように地上にニョキニョキと銅がはえているのです。自然銅はだいたい銅の含有量99パーセントの純銅です。長い年月の間に余分なものが全部空気や雨で溶けて出てしまって、純粋の銅分だけがニョキニョキとたっています。現在の精錬技術でさえも、純銅に近い99パーセントの自然銅は、なかなか作れないのです。」

     西野凡夫氏は「鋳造技術から自然銅が産出できる場所で製作したことに間違いない。わざわざ産地から別の場所に運んで製作したとは考えにくい。自然銅を原料として鋳造した場合、付着していた赤銅鉱が混入することがあり、荒神谷の青銅器にもそれが確認できた」といいます。そして、「荒神谷近くには銅埋蔵量の豊富な銅鉱山がいくつかあり、過去に銅産業で賑わった歴史があるため、これらの鉱山から採取されたと考えても不思議ではない。2000年近くも銅を供給できる鉱山の存在を無視することはできない」と指摘されています。

     弥生青銅器には通常数パーセントの鉛が含まれています。これは「銅と錫だけでは青銅の湯流れが悪く、鋳造しにくい合金であるが、これに鉛を加えると鋳造やその後の加工が容易になる」ことから、鉛を添加するのは古代人が生み出したノウハウといえます。

     鉛には一つの特性があるそうです。世界各地の鉛鉱山ごとに鉛同位体比が異なるということです。馬淵久夫、平尾良光両氏によって弥生青銅器および荒神谷青銅器の鉛同位体比が測定されています。この報告によると、これらの青銅器に含まれている鉛の原産地は日本ではなく、朝鮮半島や中国大陸であるということです。鉛だけは確実に輸入されていたのです。

     西野凡夫氏は「出雲地方で豊富に採取された自然銅が弥生時代の出雲葦原中国の国力の源泉であったと考えています。そして、この自然銅が古代経済社会において代用貨幣として使用されたのです。しかし、筑紫王権が鉄製武器を手にしたときから立場は逆転してゆくのです。荒神谷に埋納されていた銅剣358本と銅鉾16本は出雲葦原中国の滅亡を暗示している。また、銅剣の鋳型が出雲地方のどこからも出土しない理由を、鋳型の原型が木製だったからと考えている。今日でも銅滓(金くそ)が採集できることから、出雲に鋳鉱所があったことは確実である。」としています。

    5.銅鐸はなぜ消えたのか?

     森浩一先生の資料を参考(新しい発見数などは修正しています)と石野博信館長のお話しをまとめますと、

     「銅鐸は現在470あまり確認されています。その分布は北部九州から東海地方に及びます。弥生時代前期から後期にかけてつくられています。銅鐸が出土している国単位では、加茂岩倉遺跡の発見により今のところ一番多いのは出雲です。二番目に多いところは阿波の国(徳島県)です。兵庫県のように播磨や但馬や淡路などたくさん国があるところは別です。だから一国一県単位で言うと、出雲の次は阿波の国です。その次が紀伊・近江です。それに対して

    大和の国は19個でわずかとしか言いようがない[*1]です。

     前方後円墳の時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っており、銅鐸がなくなってすぐ前方後円墳ではないのです。奈良県がものすごい富と権力の中心になるのは、箸墓古墳とか、西殿塚古墳とか、そういう2百メートル級の大きな前方後円墳が造られた後なのです。それは、3世紀の終わりと言ってもいいです。それ以後に大和が強大になるのです。それ以前は並の土地です。大和にあるぐらいの弥生遺跡ならばどこにでもあります。そういう古墳から銅の鏡が20枚も30枚も出ていますが、しかし、弥生時代の奈良県には銅の鏡があったという証拠はほとんどありません。また銅鐸が古墳から発見された例はありません。それを謎だという人がいますが、いずれにしても、銅鐸は他の遺物と違って、弥生時代の中で生まれて完全に消えていきました。そして宗教改革ともいえる飛鳥時代の仏教伝来です。飛鳥時代になって、崇仏派の推古天皇・聖徳太子や蘇我氏が「もう、こんな神様はいらん!」ということで、仏教が注目されました。仏教を嫌ったとされる物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であると思えるのです。物部氏の信頼とシンボルの銅鐸が久田谷では叩き割られたり、埋め殺されたりしたんじゃないかという可能性が高いと思います。

    6.銅鐸を拒否した新王権

     しかし、銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。ヤマト王権が統一する過程で銅鐸はすでに用をなさず自然に忘れられてしまったのかも知れません。いえ、そんなはずはありません。高価なものを再利用もせずに生めてしまうには大きな政治的力が起きたのです。

    銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります

     つまり、古墳を造る際には銅鐸は忘れ去られていたことになります。ヤマト王権が中央集権化をすすめる過程で銅鐸文化を担った地方豪族を組み入れるために、銅鐸を埋設あるいは破壊していったわけではない[*2]のです。

     ヤマトを地盤にした新王権は、明らかに銅鐸を拒否したのです。弥生末期、ヤマト及びその周辺で巨大銅鐸が作られていますが、出雲と吉備は青銅器祭祀を止めています。一方、分布から北部九州は銅鉾が主流で、銅鉾圏と銅鐸圏が対立していたとされます。これは祭祀のうえでヤマト王権が起こる直前の時期です。

     銅剣と銅鐸が消えた三世紀初め頃の出雲には、四隅突出型方墳という、倭人のものとは思えない奇怪なヒトデみたいな墳墓が安来地方や荒神谷近辺に出現しました。鳥取大山の妻木晩田遺跡から、最も古い形式らしい四隅突出型方墳が発掘されました。この日本最大の妻木晩田遺跡の人々が安来地方などに移動したとも考えられます。

     一方、瀬戸内海の吉備では、銅剣時代を経て古墳時代前夜へと入り、墳墓群が出きつつありました。ほぼ同時期、出雲と吉備にそれぞれ王と呼んでもいい首長が現れ、銅剣や銅鐸の祭祀を村落共同体から排除してしまうのです。ということは、その頃さかんに巨大銅鐸を作っていた近畿の文化圏からの離脱を意味します。銅鐸を作らなくなった時点で、出雲は近畿の敵になりました。スサノヲが「荒ぶる神」として憎しみを込めて追放されているのは、この間の事情を繁栄しているのかも知れません。

     また弥生時代の鏡は佐賀県とか福岡県からたくさん出ています。特に福岡県では2百枚は十分出ています。だから、大和(奈良県)は弥生時代は並の土地で、前方後円墳が出来る頃から急にすごさがわいてきます。ただし、それが永久に続くかというとそうではないです。奈良の都の途中からガタガタになって、もう奈良には都を置ける土地ではありませんと言って京都に行ってしまうのです。大和が、交通とか経済とかで本当にすごい所であれば何も平安遷都する必要はありません。だから長い目で見たら、

     大和が、勢力の中心であったのは、西暦4世紀から8世紀の終わりまでの、(長い歴史のわずか)4百年間の出来事です。

     ヒトデみたいな奇怪な墳墓を造っている祭祀王国−そんな出雲への認識や記憶が近畿人に定着し、祟る神として恐れられ、『古事記』で多くを「出雲神話」にあてているものの、天皇家をなんとか正統化したいという苦心の原型になったとも考えられます。

    7.銅鐸から考える

     キリスタンの踏み絵ではありませんが、荒神谷や加茂岩倉遺跡のように、銅剣や銅鉾、銅鐸をなぜ自ら隠すように埋めたのでしょうか。

     蘇我氏=ヤマト朝廷に埋めさせられたのか。のちの6世紀半ばの欽明天皇期には仏教が伝わり、物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼしました。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として仏教を権力に政治を握り、記紀の編纂では、藤原不比等によって歴史の解釈がややこしくなってしまいました。

     しかし、そのあと飛鳥時代までのおおよそ600年間も、物部氏は武力と祭祀を司る重要な氏族として存続していました。なぜ、神の祭器である銅鐸や銅剣を破棄することを条件にその後も政治や神事に関与することが許されたのでしょうか。物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であるとするならば、物部氏自らが二度と使えないようになるまで、粉々に砕くことができたでしょうか?それは祖神=ニギハヤヒやウマジマシへの神への冒涜であり、氏族の尊厳を捨てることを意味することだと思えるのです。

     ヤマト政権が天皇をいだいて日本を統一していく時代。『播磨風土記』で天日槍が但馬の養父と気多に葛を落としたという記載と、気多郡で見つかった全国でも珍しい粉々の銅鐸片は、単なる偶然なのか?私なりに想像しますとそれは、養父郡と気多郡の王が最後までヤマト政権に抵抗したのだという史実を語っているのではないかと思います。

     また、日本が誕生する以前には、すでにこうして越人の移り住んでいった対馬国、壱岐国、北九州地方の諸国が形成され、出雲国や越の国もその同じ越人の国家である可能性が分かってきました。出雲は立地条件から海運によって、日本海で朝鮮半島や日本海沿岸と繋がっていた重要な基地であり、但馬弥生人のルーツは当時越と呼ばれた中国江南地方からである可能性も否定は出来ません。

  • 天日槍は新羅の鉄集団だといわれているが、新羅が成立する以前の百済・加耶の人たち=青銅器集団ではないと思う。

  • 円山川流域には伽耶、安羅に似た地名である豊岡市加陽や出石町安良、竪穴系横口式古墳。船団の先刻画。

  • 秦からの徐福…韓国・物部系神社(豊岡市畑上・飯谷)等の畑の地名が多い、全国でも但馬に圧倒的に多い出雲系八千矛神(=大国主)を祀る兵主神社の数、明らかに他地域とは際立った特徴。


  • [*1]…大和の国は銅鐸出土が19個でわずかとしか言いようがない。

  • [*2]…前方後円墳の時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っておりヤマト朝廷の関与は考えにくいこと。大和朝廷が勢力の中心であったのは、400年間。

  • [*3]…中国・朝鮮半島の小銅鐸小銅鐸と日本の一番古い銅鐸には日本列島人のアイディアというか独創力がものすごく入っている。

  • [*4]…北部九州起源論

  • [*5]…銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏は古い説

  • [*6]…原料は全部大陸からのスクラップ説というのは無理がある。銅製品の原料国産説。

  • [*7]…加茂岩倉の兄弟銅鐸の分布から、銅鐸が山陰地方や近畿地方に配布されたのならば、出雲特有の四隅方形墓が因幡・但馬に出現しない事は、銅鐸を使用した祭祀集団と、四隅方形墓の集団は別の時代の別のルーツを持った集団である。

  • [*8]…弥生時代の住居から土器とは一緒に見つからないこと。弥生時代末期に集中して山裾などに埋められているか、意図的に破壊されている。

    出典: 兵庫県立考古博物館石野館長の公開講座
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