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銅鐸金茶(きんちゃ)#f39800最初のページ戻る次へ

銅鐸(どうたく)とは

目 次

  1. 銅鐸とは
  2. 銅の特長
  3. 銅鐸の歴史
  4. 銅鐸のかたち
  5. 紋様の種類
  6. 銅鐸の用途
  7. 埋納状況
  8. 同笵(どうはん)銅鐸

銅鐸とはいったいなんだろうか。

銅鐸は神を招くカネといわれているが本来は楽器ではないかといわれ、上からぶら下げ、内部に吊した舌(ゼツ)と呼ばれる青銅製の棒で鳴らす。

 銅鐸の起源は3500年前の中国・殷(イン)の時代。世界に先駆けて使われたベル。次第に五穀豊穣を祈る農耕祭祀に用いられた祭器となって装飾が施されるようになった。大きさは10センチ前後のものから、日本最大のものでは約130センチを超える大形のものまで見つかっています。

−日高町史より抜粋

1.銅鐸とは

但馬国府国分寺館展示
但馬国府国分寺館銅鐸展示展

 先史時代に人類が利用した道具の材料で時代を、石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する三時代(時期)法を採用し、銅は最初に使った金属で鉄器時代はその中の最後の時代に相当するとされます。青銅器の獲得により、石器時代に比べ、農業生産効率の向上、軍事的優位性を確保する事が出来、それによって社会の大幅な発展と職業の分化、文化レベルの向上が起こったと考えられています。しかし、この分類法は先ヨーロッパ史を前提にして提唱されている為、他の地方に当てはめると矛盾する事が多いです。特に文明の周辺地帯では青銅器と鉄器が同時に伝わる事があり、石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に入る事もあり、必ずしも万能な区分法とは言えないそうです。

 しかしながら、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、「たたら製鉄」の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられており、製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在します。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及します。青銅器と比べると鉄器は、大量生産がしやすく、耐久性に優れている為、武器としての利用の他に農作業の効率化をもたらしました。

 弥生時代の青銅器には、銅剣(どうけん)、銅鐸(どうたく)、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)があります。


「荒神谷博物館」レプリカ
左から銅剣、銅鐸、銅矛
  • 銅剣 弥生時代の初期から
  • 銅矛 弥生時代中期頃から
  • 銅鐸 弥生時代中期から後期
  • 銅鏡 235年から299年 (平安以降は除く)

     銅鐸(どうたく)とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のこと。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器。これまでに出土した銅鐸は約470個で、主に近畿地方の遺跡から出土しています。

     大きさについては12センチから1メートルを越すものまであります。1世紀頃には高さが60センチに達し、さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達します。しかし、その直後鋳造が止まります。現存する最大は、144センチ、45キログラムに達します(滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸)。

     近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられています。文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させています。その前は流水文でした。最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っています。 また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっています(菱環鈕式[りょうかんちゅうしき])。しかし、大阪府東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕の断面形が円形である。その後、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕式と変遷する。その後鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わります。

     紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されています。この文様は紀元前1世紀頃に衰退します。 当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもあります。

     銅矛(どうほこ)は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。

     銅剣(どうけん)は、実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。

  •  銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが、しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。

     銅戈は、「ほこ」の和訓を与えられている字には同じ「矛」もあるが、「矛」では金属製の穂先を槍と同様に柄と水平に取り付けるのに対し、「戈」では穂先を柄の先端に垂直に横向きに取り付け、前後に刃を備える。日本語文献史料で「ほこ」とある場合、通常は「戈」ではなく「矛」。そのため、歴史学用語としては訓読みするより音読みの「カ」で読まれることが多い。

     しかし銅鐸は、まず、銅鏡、銅剣、銅矛に比べ出土の状態からしてまず謎です。銅鐸の時期は3世紀から4世紀にかけての弥生時代末期に集中しているといいます。

     専門家によれば、銅鐸はそのほとんどが人目につかない山の中腹などで発見されるといいます。まるで、誰かの手で意図的に隠されたかのように。なかには、兵庫県豊岡市日高町久田谷(地元)の全国でも稀な粉々にされた銅鐸破片など、故意の加熱や打撃により破壊されて出土する例さえあります。古墳時代になるとなぜか銅鐸は急速に廃れてしまします。

    2.銅の特長

     青銅(せいどう、bronze)は、銅Cu を主成分とし錫(スズ)Sn を含む合金のことで、銅と錫の鉱石は混在することから、メソポタミアでは紀元前3500年頃から銅に錫が混ざった青銅で道具を作るようになりました。青銅器はエジプト、中国(殷王朝)などでも使われるようになり、世界各地で青銅器文明が花ひらきました。加工しやすく表面にできる保護被膜が腐食の進行を防ぎ耐食性の高さなどから 古来貨幣の材料としても利用されてきました。

     本来の青銅は黄金色や白銀色の金属光沢を持ち、その見た目から古代において金銀に準じる金属として利用された面があると考えられています。添加する錫の量が少なければ日本の十円硬貨にみられるように純銅に近い赤銅色に、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となります。しかし、青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じ緑青となります。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になるので、青銅色になるので青銅器といいます。青銅には、適度な展延性と、鋳造に適した融点の低さや流動性があり、鉄が、銅よりも安価かつ大量に供給されて普及する以前には、もっとも広く利用されていた金属でした(青銅器時代)。

     かつて緑青は、教科書や百科事典にも有毒や有害と記載され、間違って教育されてきた経緯があります。東京大学医学部衛生学教室の元教授・豊川行平氏は、「緑青のグリーンが毒々しく見えたから、いつのまにか毒だと信じ込んでしまったのではないでしょうか」と語っています。その長い歴史のなかで、緑青によって生命がおびやかされたことはありません。いたずらに恐れたり、心配する必要はないのです。人と銅との長い歴史がそれを証明しています。しかし、銅は生物の代謝が正常に行われるうえで必須の元素でヒト一人当たり100から150 mgの銅が含まれ主に骨や肝臓に存在しますが、同時に過剰供給されると、足尾銅山鉱毒事件に見られるように毒性を示します。

     銅は他の金属に比べ抜群の導電率を持ちます。この特性からコードや電子機器に欠かせない部品として活躍しています。また熱伝導性にすぐれています。この特性は鍋などの調理道具やマグカップなどに生かされています。

    銅管は、すぐれた抗菌力を発揮するので給水、給湯をはじめとして水道管にも利用されています。

     神於(こうの)銅鐸(大阪府岸和田市 弥生中期)を分析すると、銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%です。

    これは合金を人為的に行ったのではなく、前出の通り自然界に銅と錫の鉱石は混在することから、そのまま鋳造したのでしょう。

    3.銅鐸の歴史

     中国の銅鈴が起源とされていますが、日本で出土する形状に類似するものはまだ見つかっていません。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土します。それらの影響は考えられるが、その後日本の銅鐸は日本で独自に発達しました。

     日本へは、紀元前4世紀頃、鉄とともに九州に伝わった。青銅も鉄も最初は輸入されていた。

     紀元前1世紀頃、国内での生産が始まったといわれています。ちなみに鉄の国内での生産(製鉄)は紀元後5世紀頃だと思われています。  2世紀には大型銅鐸が作られ、技術は東アジアでもかなり高い水準に達していた。

     1世紀末ごろを境にして急に大型化します。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種があります。大きな違いは、近畿式は双頭渦紋と呼ばれる飾り耳を鈕の部分に持つことぐらいです。いずれも些細なことで、実際にはよく似た銅鐸です。近畿式は摂津・河内で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されています。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布します。

     それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られました。2世紀末葉になると近畿式のみとなります。銅鐸はさらに大型化しますが、3世紀になると突然造られなくなります。しかし、それらは混在しており、明確に位置を区別できるようでもありません。分布的には三遠式と近畿式が対峙しているというような事実はなく、近畿式のみの地域と近畿式+三遠式の地域があるというのが現状です。

     弥生時代初期とされる青銅器の鉛同位体を測定すると、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率などがほぼ一致しており、この鉛は他の地域時代にて青銅器として見られることがないため、中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器等を鋳直して作成されたとする説があります。なお、日本での銅の史料上の記述は和銅元年(708年)が初見とされます。銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうといいます。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていません。『続日本紀』には、和銅6年、大和宇波郷のひとが長岡野において発見した記事があり、『日本記略』には、弘仁12年、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとあります。

     銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたります。出土品の一部には近畿地方で製作されたと推定されるものもありますが、絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられており、一部は他地域との同はん関係(兄弟銅鐸)も認められています。なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様特定できていません。

    注:三遠式…濃尾平野(三河・遠江)で生産されたものであろうと推定。

    4.銅鐸のかたち

      野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) によりますと、銅鐸は、つり手「鈕」(ちゅう)とバケツをひっくり返したような「身」(み)、つり手から身にかけて張り出した「鰭」(ひれ)から成り立っています。

     銅鐸は本来、内面に振り子「舌」を下げたベルです。銅鐸内面の末端付近には、断面形が台形や蒲鉾形(かまぼこがた)の突帯(とったい)がめぐっています。内面に舌を取り付け、つり手を揺することで舌がこの突帯部分に触れあい共鳴します。古い銅鐸には、青銅製や石製の舌を伴って出土したものがあり、内面上部に舌を下げるため「環」(かん)を取り付けた銅鐸(有環銅鐸)もあります。また、内面突帯(ないめんとったい)が舌との摩擦によって磨り減った銅鐸も認められます。

     鈕(ちゅう)は、銅鐸をつり下げる部分で、本来は断面形が菱形をした半環状のものでしたが、後に装飾が加わり兜形(かぶとがた)から小判形(こぱんがた)に変化します。古い銅鐸には鈕と結んだ紐とが摩擦した痕跡をとどめるものがあり、木の枝などに銅鐸を紐(ひも)でつり下げて使用していたと考えられます。

     身(み)は、扁平(へんぺい)な筒形を呈しています。身の上面と上半・末端の左右には各々両面に孔があります。この孔は銅鐸を鋳造する際に、二枚の外型と内型を固定するために生じるもので「型持孔」(かたもちあな)と呼んでいます。銅鐸が大形化すると身も裾(すそ)開きの円筒形のものへと変化します。  鰭(ひれ)は、鈕から身の末端付近まで連なる板状の装飾部分で、銅鐸を鋳造する際、二枚の鋳型からはみ出した甲張(こうばり)が装飾化したものと考えられます。

    銅鐸
    高さ134cmもある日本最大の銅鐸 重要文化財 大岩山U−4号銅鐸<復元鋳造>
     (滋賀県野洲市大岩山遺跡)野洲市歴史民俗博物館 蔵
     佐原真氏の型式分類(佐原編年)によると、現在主として鈕の形態の変化により編年され、全部で4形式に分類されています。

    菱環鈕式(最古式、I式)


    最も古い形態が菱環鈕式と呼ばれるもので、銅鐸をぶら下げる際に紐を通す鈕の断面が菱形をしています。大きさも小さく装飾性もほとんどないものです。1式、2式の二形式に細別され、ローマ数字のIを使ってI-1、I-2のようにも表されます。2式では鐸身の両側に、わずかながら鰭とよばれる飾りが付きます。

    外縁付鈕式(古式、II式)


    次の段階が外縁付鈕とよばれる形式で、鐸身の両側の鰭が発達して鈕の部分にまで及び、鈕の外側に外縁が付きます。鐸身の両側のラインもも直線ではなく、やや反りをもってきます。これも1式、2式の二形式に細別され、ローマ数字でII-1、II-2のようにも書かれます。“外縁付鈕式”とはちょっと変わった名前ですが、もともとは、“外縁付菱環鈕式”だそうです。

    扁平鈕式(中式、III式)


    さらに進んだ段階が扁平鈕式と呼ばれる形式で、鰭及び外縁がさらに発達して装飾性が高くなり、鈕の内側には内縁が付きます。もともとの鈕であった菱環部はお飾りに近いものになり、菱環の位置も内側に入ってきます。また、鐸身の反りもさらに顕著になってきます。これも1式、2式に細別され、III-1、III-2のようにも書かれます。(佐原編年では細別されていません。その後の研究により細別されたようです。基礎データとして利用させていただいた島根県埋蔵文化財センターの『銅鐸出土地名表』には細別されているものはわずかしかありません。)扁平鈕1式までは石製の鋳型を使っていたようですが、扁平鈕2式からは土製の鋳型にかわります[2]。また、扁平鈕2式の段階に至って、後の大型銅鐸のにつながる系統の6区袈裟襷紋銅鐸という銅鐸が出現してきます(一部の6区袈裟襷紋銅鐸はこれ以前にも存在する)。神戸・桜ヶ丘神岡出土の4号鐸・5号鐸がその原形(ただしこれらは4区)だそうですが、鰭が狭く鐸身の反りもない古風な銅鐸で、扁平鈕1式以前にその祖形を求めることができない、突然出現してくるものだそうです[2]。鋳型が土製にかわることや、6区袈裟襷紋銅鐸の出現など、銅鐸製作の上では扁平鈕1式と2式の間に大きな画期があると難波洋三氏は言っています[2]。佐原氏は“内外縁付菱環鈕式”とも書いていますが[1]、他で見たことはありません。

    突線鈕式(新式、IV式)


    最後に位置して、最終的には1mを越える超大型銅鐸となっていくのが、突線鈕式と呼ばれる形式の銅鐸です。鰭や鈕・鐸身に突線と呼ばれる太い盛り上がった線で装飾が施されるのが特徴で、佐原氏は“突線飾り付き扁平鈕式”とも書いています[1]。鈕にある断面菱形の菱環部がもともとは銅鐸をつるす役割をしていましたが、この段階ではその意味が完全に忘れ去られて単なる飾りなったようで、中には菱環部を二つ、三つと持つ銅鐸も存在しています。このタイプの銅鐸は1式から5式の5つの形式に細別され(IV-1〜IV-5)、2〜5式は2式の一部の流水紋銅鐸を除き近畿式と三遠式に大別されます。

     この他に福田型銅鐸と呼ばれる銅鐸があります。福田型銅鐸は、広島市福田で初めて出土したためにその名がつけられています。邪視紋を鐸身に持つのが最大の特徴で、その他、鰭を複合鋸歯紋で飾るなどの特徴があるようです。鈕の形態からは外縁付鈕式に分類できるようですが、その年代については、外縁付鈕式よりも後出するとする説もある一方、菱環鈕式に先行するという説もあります。後者について、佐原真氏は鈕の変遷からみた時、形式学上、菱環鈕式が先行するとして否定されています(※)。いずれにせよ、福田型は一風変わった銅鐸で、それゆえ年代についての見解も分かれています。

    5.紋様の種類

  • 横帯紋銅鐸
  • 袈裟襷紋銅鐸(6区以外)
  • 6区袈裟襷紋銅鐸
  • 流水紋銅鐸

    に分けられます。加茂岩倉銅鐸を紋様の種類によって分類すると、石の鋳型で造られた古い段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と二区及び三区流水紋のグループに分けられます。これに対して、土の鋳型で造られた新しい段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と六区袈裟襷紋のグループに分かれます。さらにこの四区袈裟襷紋銅鐸には、区画内に絵画を持つものと持たないものがあります。

     古い段階の銅鐸群のうち、流水紋銅鐸は全て横型流水紋と呼ばれるものに属します。この横型流水紋は、畿内南部(河内南部・大和・和泉)の弥生時代中期初頭の土器に施紋されていた横型流水紋様の影響を受けたものと見られ、この時期の銅鐸群のほとんどは畿内南部の工房で製作されたと考えられています。ただ、四区袈裟襷紋の加茂岩倉12号鐸には、畿内南部で造られた銅鐸には見られないいくつかの特徴があります。こうした特徴を持つ銅鐸の鋳型が大阪府東大阪市の鬼虎川遺跡から出土していることから、この段階の銅鐸群の中には、河内北部の工房で造られた銅鐸もあることがわかってきましました。

     新しい段階の銅鐸群で特に注目されるのは、袈裟襷紋の上の区画内にトンボ・シカ・イノシシなどの絵画を配し、下区に四頭渦紋が鋳出された18号鐸・23号鐸・35号鐸です。描かれた図像に違いはありますが、鈕や鐸身の紋様構成は極めて似通っています。例えば、一般的な袈裟襷紋銅鐸は縦帯に対し横帯が優先して施紋されますが、これらの銅鐸は袈裟襷紋の縦・横帯が切り合っており、袈裟襷紋の中に施紋された斜格子紋様の充填方法を見ても横帯優先となっていません。また、縦帯の幅が身の上部では狭く、下部へ向かうほど広くなっており、これに対応するように、充填された斜格子紋が上部ほど密で下部ほど粗となっています。こうした特徴は、同じ時期の畿内系銅鐸にはあまり見られないもので、これらの銅鐸が出雲で造られたとされる理由のひとつに挙げられています。

     これらの銅鐸に描かれた絵画にも、これまで各地で出土した絵画銅鐸にはない特徴が見られます。そのひとつは、18号鐸・35号鐸に鋳出されたトンボが、複線で写実的に描かれていることです。これまで知られている絵画銅鐸のトンボは単線で描かれており、抽象的な表現に留まっていますが、これらの銅鐸の場合は、頭部・胸部・腹部の境がくびれ、各部位が明瞭に区別されています。翅は4本線で描かれ、前翅・後翅の縁が表現されています。さらに18号鐸B面上右区のトンボには、眼を表現したと見られる小さな点も2つ認められ、工人の細かな観察力と表現力が感じられます。

     このほかにも鈕にカメを描いた10号鐸、同じく鈕の頂部に人面を描いた29号鐸など、特色のある絵画を持つ銅鐸があります。これらはいずれも六区袈裟襷紋銅鐸で、袈裟襷紋の区画内・鈕や鰭の鋸歯紋帯の無紋部分に研磨の痕跡が認められます。8号鐸・20号鐸も六区袈裟襷紋銅鐸ですが、10号鐸・29号鐸と同様の研磨が施されており、こうした研磨は、いわゆる「見る銅鐸」としての効果を狙った技法と考えられます。また10号鐸には表面に水銀朱が塗布されていることも確認されています。これらの銅鐸からは「見る銅鐸」に込めた弥生びとの想いが伝わってくるようです。

  • 6.銅鐸の用途

     現在のところ用途は未だ定かではありませんが、第一に、銅鐸は日常の物ではないのです。つまり家庭用品ではありません。銅鐸は特殊なものであるということがまず大前提です。2番目は、銅鐸を鏡のように副葬品として故人の墓には入れません。銅鐸の中で現在確実に墓に入った例は小銅鐸以外ありません。

     初期の小型の物は鈕(チュウ=つまみ)の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられています。

     本来、中国の銅鈴が起源とされているので家畜牛の首に付けられていたカウベルではないかとも言われていますが、日本では祭祀に用いられる小国の威厳を誇示する特別な神楽器となったのではという説では、1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的な物への変化が見られることから、(後述のように異論はありますが、)音を出して「聞く銅鐸」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる銅鐸」目的へと変化したのではないかと言われています。

     しかし、森 浩一氏はこう書いています。

     「古い小型の銅鐸ほどいい音がします。ただし1メートルくらいの銅鐸が全くいい音がしないというのではありません。実は1メートルくらいの大きい銅鐸ほど実験をすると釣鐘で言うと余韻が残るのです。だから古い小型の銅鐸はいい音がするけれども、ボワンと消えてしまいます。1メートルくらいの銅鐸は叩くと釣鐘の余韻のようにウーウーと残っています。橿原考古学研究所の紀要にその実験データが載っています。だから大きい銅鐸は見るだけだと強弁している学者がいますが、それは違うと思います。銅鐸には最初から最後まで見る要素と聞く要素の両方あるのです。

     音の要素についていえば、単に鳴るだけではなくて、大きくなって余韻が響くようになったのです。考古学者榧本亀次郎さんの解釈では、銅鐸というのは毎日ぶら下げているのではなくて、お祭りの時だけとかあるいは10年に1回の重要な時とかに、しかも粗紐ではなくておそらく柔らかい幅のある布のような物でV字型にそっとぶら下げたのではないかと思われます。だから、そんなにひどい擦り目というのは出ないと言うわけです(森 浩一)。」

     銅鐸は、銅鐸そのものがもつ意味もさることながら、銅鐸にかかわる祈りが存在していたと考えられます。弥生時代の最大関心事は、米づくりに代表される生産基盤の安定とムラの存続と維持発展にあったと考えられます。耕地の確保といった土木事業を展開するためには人々が心をひとつにする必要があり、ここに共同体の祭器として銅鐸のまつりが最もふさわしいと考えられるのです。ベルは古くから神々を招き、願いを聞き届けるために重要な役割を果たす儀器であり、シャーマン(司祭者)が銅鐸を用いて豊穣と祖霊を崇め、ムラムラの発展を祈願する祭祀がとり行われたのでしょう。

     弥生の社会が必要としたのは、王のリーダーシップだけではなく、むしろ重要視されたのが、人間の及ばない自然をコントロールすることです。

     どれだけ優れたリーダーのもと、完璧な計画を立てて灌漑や作付けを行っても、収穫前に来る台風ひとつですべてが台無しになりかねない。彼らが自然を神に見立てて祈りに力を入れたのは、その自然だったのです。

     展示されている青銅器は青っぽく錆びていますが、当時は黄金に輝いていました。金や銀はまだ使われていなかったため、初めて見る金属の輝きは現代人にとってのダイヤモンド以上にまぶしかったはずです。

     三品彰英氏は佐原氏の地中保管説を受けて、銅鐸は地霊や穀霊の依代(よりしろ)であり、大地に納めておくことが大切なことであり、銅鐸を掘り出すことは地霊・穀霊を地上に迎えまつること(地的宗儀)で、まつりが終わると再び大地へ埋め戻すもので、やがて古墳時代を迎えると鏡に代表される天の神、日の神のまつり(天的宗儀)にかわり、銅鐸は土中に放置されたと説明されています。

     扁平鈕式古段階までの銅鐸は、近畿地方の中でも摂津北部、大和、河内、山城といった畿内を中心に製作され、その分布地から主に近畿以西の西日本に広がっています。弥生時代中期の段階は、畿内の勢力がより西の地域との連合を意図して銅鐸祭祀を普及させたと考えられます。これが扁平鈕式

     そして突線鈕式銅鐸の段階になると銅鐸は「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」という二つの大形銅鐸にまとまり、分布は畿内周辺部と東海地方へ移っていきます。弥生時代後期、畿内勢力は新しく大きな近畿式銅鐸によって、周辺地域と東海地方への連携施策を講じたものと推定されます。

    7.埋納状況

     埋納状況については村を外れた丘陵の麓、或いは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多いのです(逆さまに埋められた物も二例ある)。一、二個出土する場合が多く、十数個同時に出土した例も五、六あります。あまり注目される事がありませんが、頂上からの出土が無いことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられています。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんど無く、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされています。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中しています。 銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説あります。

     調査を経て記録された銅鐸の多くは、銅鐸よりもわずかに大きな穴を掘り、そこに鰭を上下として銅鐸を横たえて埋納しています。この方法は最古段階の菱環鈕式銅鐸から新段階の突線鈕式銅鐸まで一貫しており、銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。しかし、少数ながら天地を逆転して埋めたものなどもあります。

     銅鐸は単独で埋められるほかに、多数の銅鐸を一度に埋める場合、一定の範囲に分散して埋める場合があります。島根県の加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が、神戸市桜ヶ丘では銅鐸14個と銅戈7本がともに埋納され、野洲市大岩山からは、14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点からみつかっています。また、静岡県浜松市(旧引佐郡細江町)の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸がみつかっています。

     多数が一度に埋納される際には、大小を「入れ子」としたり、鈕を向かいあわせとするなど小さく埋納しようとする意図がみられます。なぜ銅鐸を埋納したかについては、土中保管説、隠匿(いんとく)説、廃棄説などの諸説がありますが、複数出土した銅鐸をみると型式的に相前後する銅鐸で構成されており、それらは突線鈕1式までのものと、突線鈕2式以降のものに分離できることができます。このことから銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。

    • 米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかと言う説

      しかし、これには反論があり「祭るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということであります。だが、この場合の「施し」というものが具体的にどのような痕跡を指すのかが問題であります。

    • 平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)

      特に「聞く銅鐸」の紋様の不鮮明さは埋納時から発掘までの土中での経年劣化ではなく、磨く等の行為によるものとされており(佐原真)、祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためといいます。かつての東南アジア方面(ベトナム等、しかし現在は不明)の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたといいます。

    • 大変事にあたり神に奉納したのではないかという説

      しかし十数個同時に出土する例は「大変事」の規模にあわせたために大量に埋納したのか、全国各地で出土するのは全国規模で弥生時代を通して「大変事」が頻発したのか、等を埋納状況などを踏まえた上で考える必要があります。

    • 地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説

      古代華南にそのような風習が見られた。

    • 文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説

      だが、そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である(古墳時代には銅剣、銅鏡のように、同盟集団に配布したと思しき例が少なからずあるようである)。

    • 銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)

      この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もあります。

      しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論があります。また、その外敵が銅鐸祭祀を否定する集団で、支配下に置いた地域の住民に銅鐸祭祀を放棄させたと考えれば、銅鐸が壊れた状態で出土することや、三世紀に急速に銅鐸祭祀が廃れたこと、銅鐸の用途が全く伝わっていないことなどに説明が付くという説[要出典]もある

    • 政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)

       つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れる等して人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものであります。その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破壊銅鐸の出土はこのような理由によるとします。また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられる事が多い。

      しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険であります。

    8.同笵銅鐸(兄弟銅鐸)

     加茂岩倉遺跡の同笵銅鐸(兄弟銅鐸)は、越前(伝)(大石)銅鐸が気比4・伝陶器山、但馬気比銅鐸2個、岩美郡岩美町新井上屋敷と1個が加茂岩倉銅鐸と兄弟銅鐸であることが分かった。銅鐸の同一性からのみで判断することはできないものの、少なくとも丹後・若狭地方からは出土していないのは、弥生時代中期頃に丹後・若狭を避けたのは、すでに違う勢力が存在していたのかも知れない。弥生時代後期(200年ごろ)にはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。
    【国宝】考古資料の部

    弥生時代の指定は次の6件(2008年(平成20年)まで)。

  • 金印(漢倭奴国王印) (福岡市博物館)
  • 桜ヶ丘町出土銅鐸・銅戈 (神戸市立博物館)
  • 福岡県平原方形周溝墓出土品 (文化庁、伊都国歴史博物館保管 弥生時代〜古墳時代)
  • 袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土〉(東京国立博物館)
  • 島根県荒神谷遺跡出土品 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管)
  • 島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管)

    全国の銅鐸出土数

                           
    国別出土数T 菱環鈕式U外縁付鈕式V偏平鈕式[聞く銅鐸]
    T+U+V
    [見る銅鐸]
    W突線鈕式
    出雲501371048 
    近江36 32522
    摂津(東)12 57  
    摂津(西)21 714  
    摂津(計)33 1221267
    阿波42 322258
    紀伊38 3131614
    遠江29 1 127
    三河28 11211
    河内18 111124
    大和19 76135
    讃岐20 47111
    淡路15 15281
    尾張15 246 
    伊勢1512257
    和泉12 3473
    備前15 1674
    播磨11 1564
    土佐11  337
    伯耆9 246 
    備中8  332
    因幡8 4153
    丹後7  113
    丹波3 123 
    山城6 4151
    但馬6 4 42
    越前513 41
    若狭5 1231
    美濃4 2131
    石見4 1231
    信濃3    2
    伊賀3    2
    美作3 1122
    備後2 112 
    その他135232387243

    ・国別で出土数の多い地域(≧3)のみを示した。うち型式の判明分をT〜W式に分類。 ・T〜V式およびW−1式:「聞く銅鐸」、W−2〜W−5:「見る銅鐸」 [佐古和枝氏作成の分布図よりまとめた]

    銅鐸出土数箇所
    1位兵庫県56点40
    2位島根県54点9
    3位静岡県46点26
    4位徳島県42点29
    5位滋賀県41点14
    6位和歌山県38点38
    7位愛知県33点36
    全国約500点

  • 銅鐸金茶(きんちゃ)#f39800 最初のページ戻る次へ
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