歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

伝説 先史 縄文 弥生 出雲 銅鐸 日槍 古墳 飛鳥 奈良 平安 鎌倉 室町 戦国 近世 近代 現代 地方分権鉄道写真サイトマップ

銅鐸金茶(きんちゃ)#f39800最初のページ戻る次へ

これまでの概念を覆す新発見

目次

  1. これまでの概念を覆す新発見
  2. 加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)
  3. 荒神谷遺跡(島根県斐川町)

1.これまでの概念を覆す新発見

   『古事記』『日本書紀』に記された「スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治」や「国譲り神話」などの出雲系神話の豊かさは、古代国家形成のうえでこの地域の占める位置の重要性を示しています。 鳥取連の祖、天湯河板挙(あまのゆかわたな)ら出雲族の人々は代々荒神谷を聖地として拝礼していた。鳥取連は、間違いなく聖地の伝承を受け継いでいたのです。

 弥生後期の出雲は、北九州勢力の東遷をめぐって近畿勢力と対立していたのではないかと考えられています。狭小な出雲の地に、北九州と近畿・吉備の代理戦争が起こったのではないかと考える学者もいます。

 出雲を盟主とする東出雲(伯耆・因幡)、丹波(のち但馬・丹後に分国)・若狭を含む越国などの日本海小国家連合ともいうべき結びつきは、鉄生産国の但馬・丹後(古丹波)が婚姻を介して大和王権と密着したことで、出雲の孤立化が深まります。というよりも独自に朝鮮半島と交易を持ち力のあった出雲は、ヤマト政権にとって最後まで支配が困難な国ではなかったかと思います。四隅突出墳丘墓を代表する方墳の分布状況から丹後や但馬が四隅突出墳丘墓がきわめて少なく、突如、ヤマト朝廷を中心とする日本海側最大級の前方後円墳が出現し、記紀に但馬・丹波との関わりが崇神・垂仁天皇の説話として多く取り上がれていることがひとつの証拠と考えます。

 1984年〜1985年の2ヵ年の発掘調査で島根県神庭荒神谷遺跡(かにわこうじんだにいせき)で銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器群が発見されました。それまで全国で知られていた銅剣の総数が300本余りであったことと比べてその多さは驚異的であり、この発見はわが国の青銅器文化の考え方を根底から覆す画期的な出来事でした。

 出雲の荒神谷遺跡のように銅鐸、銅剣、銅鉾と祭祀用器具が三つ揃って多量に出土するというのは、日本では他に例がありません。出雲には国際的(日本国内での)な性格があったのでしょう。

 それはともかく、卑弥呼の政権は圧倒的に銅鉾です。弥生時代の北部九州では、のちに三種の神器となった剣、鏡、玉は、三つセットになった形で多数出土しているのに、大和にはそれがありません。

 しかし、古墳時代に台頭してきたヤマト王権が祭祀に用いたのは、鉾、剣、鏡、玉です。鉾は三種の神器には入れられていませんが、「記紀」には実に重要な場面に使われています。しかし、銅鐸についての記述はありません。

 さらに、1996年加茂岩倉遺跡で、39個もの銅鐸が発見され、出雲の地は青銅器文化の一大中心地として、今後の古代史を研究するうえで大きな鍵を握る地域となりました。

 それまでに出土したものを加えると、出雲で計50個。これに対して、大和から出土した銅鐸は18個。比較にもなりません。しかも加茂岩倉遺跡からは他の地方の兄弟銅鐸が含まれていました。近畿で銅鐸を製作し、属国的立場の国に配布したというこれまでの説が成立しなくなりました。むしろ出雲と畿内、または北部九州で作られたとするのが妥当になります。

 古代出雲は、近年の相次ぐ大発見といえる神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などから、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近・斐伊川流域)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町・日野川流域)との二大勢力出現から、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられています。特に東部出雲は律令下でいう伯耆国(ほうき・鳥取県西部)まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆を出雲文化圏とする向きもあります。

 出雲とその周辺には、四隅が奇妙に突出した独特の墳墓(四隅突出墳墓)が存在し、続く古墳時代には方墳や前方後方墳が前期から後期まで造られるなど、全国的にも特色のある文化を見ることができます。

 また、古代出雲を理解するうえで重要な文献として、奈良時代に編纂された『出雲国風土記』があります。これはわが国唯一の「風土記」の完本として知られており、地域と密着した叙情豊かな神話や地域起源伝承などが盛り込まれています。

 考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式の四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども出雲とすべきとの説もあるそうです。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力です。それは、大国主(おおくにぬし)を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)ですが、他に大神神社(奈良県桜井市)、気多大社(石川県羽咋市)のほか、全国の出雲神社で祀られていることです。  

銅鐸文化圏を覆した加茂岩倉遺跡

島根県雲南市(旧大原郡加茂町)出土
加茂岩倉遺跡出土銅鐸39口
国宝:平成20年7月10日指定
文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

 平成8(1996)年10月14日、加茂町(現雲南市)岩倉で農道の法面工事のためパワーショベルで山の斜面を削っていたところ、大量の銅鐸の出土により加茂岩倉遺跡は発見されました。突然、異様な音がしたため、運転者は直ちに重機を止め、「どこの誰がポリバケツをこんなところに埋めたのか」と考えつつそばに行くと、ポリバケツならぬ「銅鐸」だったのです。

 当時、加茂町長であった速水雄一(後に雲南市長となる)が学問と教育の里というテーマで町おこしを行っていたことから、町役場にはただちに遺跡発見の連絡が入り、1996年より1997年の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われました。

 遺跡は狭くて細長い谷の最奥部手前の丘陵に位置し、南向きの丘陵斜面中腹にあたる標高138m、谷底から18mと見上げるような高い場所に39個の銅鐸が埋納されていました。一カ所から出土した銅鐸の数は日本最多で、大変注目を集めました。銅鐸の複数埋納例としては、滋賀県野洲市小篠原大岩山(こしのはらおおいわやま)で2土坑24口、兵庫県神戸市桜ヶ丘で14口が一括埋納された例として知られていましたが、それらをはるかに凌駕しました。

 出土品は国(文化庁)が所有し、島根県立古代出雲歴史博物館に保管されています。1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定された。2008年7月には、出土した39口の銅鐸は国宝に指定されました。

 発見当初に建設重機を停止したことが幸いし、埋納の痕跡も良く残っており、どのように配置されたのかといった詳細な学術情報が研究者にもたらされた。また、1997年度の調査では、銅鐸が埋められていた坑から3メートル離れた場所に別の坑も発見されたが、こちらからは遺物が全く出土していません。
 そのうち13組26口は中型鐸の中に小型鐸が納められた「入れ子」状態で出土したことが確認されています。銅鐸がこのような入れ子状態で出土した例は極めて少なく、内部は中空であった可能性も考えられていますが、CTスキャンによる内部調査に拠れば、埋納坑埋内と内部を塞いでいる土砂が異なることが指摘されています。表面からは朱が検出され、線刻で文様が表現され、袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸が30口、流水文銅鐸が9口ある。絵画の描かれた銅鐸は7口あり、シカやカメ(ウミガメ)、トンボや四足獣などの動物が描かれている。そのうちの数点が豊岡市気比銅鐸(流水文)と兄弟銅鐸とされています。

 遺跡は先に発見され大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから両遺跡は関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっています。これらの二つの発見から、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきています。


岩倉遺跡から荒神谷遺跡までのルート
 銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。出土品の一部(外縁付1式銅鐸)には近畿地方で製作されたと推定されるものもあり、十二号銅鐸は大阪府東大阪市鬼虎川遺跡出土鋳型と共通する特徴をもつ。外縁付紐2式から扁平紐1式にかけての銅鐸は、流水文銅鐸9口、袈裟懸文銅鐸2口。時期はいずれも弥生中期で、この時期の流水文文様は、畿内南部の工人集団製作の横型流水文と畿内北部の工人集団製作の縦型流水文様の2系列があるが、本遺跡出土の流水文銅鐸9口は、全て横型流水文銅鐸であるので、畿内の工人集団が製作したものと考えられる。

 扁平紐式2式から突線紐1式にかけての9個の銅鐸は、3群から成る。そのうちの四区袈裟懸襷文銅鐸3口は同一工房の作品。もう一群の2口は、互いに同笵。これら二群に比して、六区袈裟懸襷文銅鐸6口も同一工房で造られていると推定。つまり、少数の工房で製作された銅鐸と推測できる。

 絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられており、一部は他地域との同笵関係も認められている。 なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様特定できていない。 本遺跡で出土した銅鐸には、同じ鋳型で製作された銅鐸も各地で確認されていることから、各出土地との関連を含めた今後の研究が待たれます。

 島根県教育庁文化財課によると、

●入れ子銅鐸

 中型銅鐸の内側に小型銅鐸を入れた状態が確認された。13組26個の入れ子状態を確認し、2組4個の入れ子関係を推定。このほかの5個についても入れ子であったことが考えられる。

●絵画

 39個の銅鐸のうち、7個に絵画が鋳出されていた。これらには浮き彫り表現のものと線表現のものがある。  〈浮き彫り表現〉

37号鐸鈕の左右にシカと見られる獣2頭ずつ  〈線表現〉
21号鐸鐸身に3頭のシカ
10号鐸鈕にカメ
29号鐸鈕に顔
18号鐸鐸身に両面に2匹ずつのトンボ
23号鐸鐸身A面に4頭のシカと2頭の四足獣
鐸身B面に4頭のシカと2頭の四足獣
35号鐸鐸身A面に4頭のシカと2頭の四足獣
鐸身B面に2頭のシカ

●同笵銅鐸

 同じ鋳型から製作された銅鐸(兄弟銅鐸)。加茂岩倉遺跡出土銅鐸及び他地域に分布する銅鐸とのあいだに15組26個の同笵銅鐸を確認。

●型式

 中型銅鐸20個(43.5?47.7cm)と小型銅鐸19(30.0?32.3cm)は、佐原眞・難波洋三氏の型式分類によると以下のようになる。

       
 外縁付鈕1式19個
外縁付鈕2式9個
外縁付鈕2式?扁平鈕1式2個
扁平鈕2式6個
扁平鈕2式?突線鈕1式3個

  菱環鈕式【りようかんちゆうしき】から外縁付鈕式【がいえんつきちゆうしき】銅鐸に、中細形銅剣【どうけん】、中細形・中広形銅矛の組み合わせをもつ荒神谷遺跡、外縁付鈕式から扁平鈕式の銅鐸のみで構成される加茂岩倉遺跡、「景初三年」銘をもつ三角縁神獣鏡【さんかくぶちしんじゆうきよう】が出土した神原【かんばら】神社古墳が近接して存在する当地は、古代出雲における重要な位置を占めていたばかりではなく、北部九州と近畿の間に位置するこの出雲地域の状況など、弥生時代における社会情勢を考察するうえで、この加茂岩倉出土銅鐸の存在は不可欠であり、きわめて学術的価値が高い。

荒神谷遺跡

島根県簸川郡斐川町神庭(カンバ)西谷出土
銅剣358本、銅鐸(どうたく)6口と銅矛(どうほこ)6本
文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館ほか保管)
国宝:平成20年(2008年)指定
文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
 昭和58(1983)年、広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われました。調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事がきっかけとなり発見されました。銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から「荒神谷遺跡」と命名されました。荒神とはスサノヲです。荒神谷とは「スサノヲの谷」ということで字名が神庭(カンバ)なので、スサノヲの庭になります。翌昭和59年谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣(どうけん)が出土、昭和60年には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)6口と銅矛(どうほこ)6本が出土しました。
 当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず調査発掘をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が土中から出てきました。担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていきました。当初は百本位だろうと考えられていましたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達しました。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となりました。  荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。この発見はわが国の弥生時代の青銅器研究の見直しを迫る大きな出来事となりました。
 荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に一カ所から出土しました。この発見は、北九州を中心に出土する銅矛、出雲地方特有の形式をもつ銅剣が同一遺跡から、しかも大量に出土したという点で学術的価値が高く、わが国の弥生時代の青銅器研究の見直しを迫る大きな出来事となりました。

 出土した358本の銅剣は、いずれも50cm前後の中細形といわれる型式で、「出雲型銅剣」といわれるようになりました。 358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。


発掘された銅剣の状態 複製品
 銅鐸は国内最古型式のものが含まれ、銅矛には北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様があるなど、荒神谷青銅器の発見は、弥生時代についての興味と関心を大いに深めるきっかけとなりました。

 銅剣は昭和60(1985)年、銅鐸・銅矛は1987年に国の重要文化財に指定されていましたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されています。出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されています。

 丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていました。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じです。弥生時代中期後半に製作されたとみられています。この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではないそうです。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かです。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれています。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえます。 


発掘された銅鐸(どうたく)6口と銅矛(どうほこ)6本の状態 複製品
 当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、記紀の記述にもあり、また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっています。

 更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられます。

荒神谷史跡公園

 遺跡自体は1987年に国の史跡に指定されました。斐川町が中心となり1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備されました。2005年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われています。

両遺跡の出土品はいずれもいわゆる「聞く銅鐸」で、新しい段階の「見る銅鐸」は含まれていない。。時期はほぼ重なるが、神庭荒神谷には最古段階を含んでおり、加茂岩倉遺跡には新しい扁平紐式を含むので若干の時期差はみられる。 両遺跡の埋納状況について比較すると、 @袋になった谷奥の隠れた丘陵斜面に埋納 Aいずれもいわゆる「聞く銅鐸」の型式 B×印の刻線(荒神谷は銅剣に×印)、朱の痕跡などの共通点がみられる。 一方、それぞれの特異点としては、 @神庭荒神谷は銅鐸6個と銅矛16本を一緒に埋納 A加茂岩倉の銅鐸はほとんどが大小の「入れ子」 B加茂岩倉は他遺跡の出土も含め兄弟銅鐸が多いなどが挙げられる 表1は、全国の銅鐸出土数を主な地域(国)別、型式別に比較した表である。最多の出雲は「聞く銅鐸」だけで銅鐸の時代は終わり、「見る銅鐸」は全く出土していないのが特徴といえる。近江や東海地域では後の「見る銅鐸」の比率が高い。。


銅鐸金茶(きんちゃ)#f39800最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reserved. E-mail
inserted by FC2 system