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著名な銅鐸

目次

  1. 著名な銅鐸
  2. 桜ヶ丘出土銅鐸銅戈群(兵庫県神戸市)
  3. 大岩山出土銅鐸群(滋賀県野洲市)
  4. 安永田遺跡出土鎔笵

桜ヶ丘出土銅鐸銅戈群

 国宝  神戸市灘区出土 神戸市立博物館所蔵 弥生時代中期 高さ42.2cm

 昭和39年(1964)12月10日、袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸11口、流水文銅鐸3口を含む一括資料で兵庫県内最多出土。14口の銅鐸のうち、特に4号銅鐸と5号銅鐸は人物、動物などの略画が鋳出されたもので、資料的に貴重です。

 全国で銅鐸は 500個近く発見されていますが、銅鐸の両面を桜ヶ丘 4・5号銅鐸のような絵画で飾った例はこれまで数例しか発見されていません。

  4号銅鐸のA面には右上に魚をくわえた水鳥、左上に水を飲んでいるような動物とアメンボウ、左下には工字状器具をもつ人物、右下に弓を持ちシカを捕らえている人物が描かれている。B面にはクモまたはアメンボウ、カマキリ、トンボ、イモリまたはトカゲ、スッポンまたはカメが描かれ、両面とも裾(すそ)にシカの親子が描かれている。  こうした線描の絵画は、同時代の土器に描かれたものと共通し、わが国絵画史の第1ページを飾る作品である。

 5号銅鐸B面は右上にトカゲまたはイモリと 2匹のトンボ、左上に工字状器具をもつ人物と魚、左下に魚をくわえた水鳥とスッポンまたはカメ、右下に脱穀する2人の人物がみえる。A面にも、カエル、カマキリ、クモまたはアメンボウ、カエルをくわえた蛇とそれを追う人物、争っている 3人の人物、弓をもちシカを捕らえる人物が描かれている。

 こうした絵画をどう解釈するかについては諸説があるが、狩猟・漁労のいわば弱肉強食の世界から、農耕を主要な生産手段とする社会への転換をたたえる農耕讃歌だという説が有力である。なお、4個の絵画銅鐸は、同一工人または同一工人集団の手になったものである。

銅戈7本は長さ27.2〜29.0cmでほぼ大きさがそろっており、樋(ひ)を複合鋸歯(きょし)文で飾った大阪湾型銅戈である。

大岩山出土銅鐸群


日本最大の銅鐸(複製品) 国指定重要文化財
 大岩山古墳群がある滋賀県野洲市小篠原の大岩山の中腹から、明治14年(1881)に14個の銅鐸が発見されました。昭和37年(1962)には、東海道新幹線建設のための土取り工事がその出土地付近で行われ、工事現場から新たに10個の銅鐸が出土しました。3個ずつ3組入れ子になっていたものが一括して出土し、さらに後日、少し離れた場所からもう一個出土しました。こうして大岩山中腹は、細かく見れば3地点に合計24個の銅鐸が埋納されていたことが明らかになり、全国最多の銅鐸出土地となり注目されました。

 東京国立博物館所蔵の2口のうちの1口は高さ135センチの日本最大の銅鐸です。20センチ前後の大きさの「かね」として誕生した銅鐸は,徐々に音を奏でることのない大型で装飾性のきわめて高い祭器へと変質したとされます。それは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への変貌というにふさわしいもので、この銅鐸は最も新しい型式に属し,高さ・重量ともに日本最大の銅鐸です。

安永田遺跡出土鎔笵

国宝・重要文化財(美術品)指定年月日:平成5年1月20日  佐賀県 弥生時代

 安永田遺跡は、鳥栖(とす)市北西部の杓子(しやくし)ヶ峰山麓に広がる柚比遺跡群内に所在し、その存在はすでに大正二年の耕地整理で、大量の甕棺(かめかん)が発見され、幾つかの銅戈(どうか)・銅矛(どうほこ)が出土したことで知られていた。今回の指定文化財は、昭和五十四年から五十六年、鳥栖市教育委員会による発掘調査で出土したものである。調査では、四九棟の竪穴住居跡、十七基の土壙(どこう)、三十六基の甕棺墓(かめかんぼ)、炉跡(ろあと)状遺構などが検出され、そのうち二棟の住居跡と、二基の土壙から銅鐸(どうたく)・銅矛の鋳型が見つかり、炉跡状遺構の存在やふいごの羽口(はくち)等の出土から、この遺跡が青銅器鋳造遺跡であることが明らかにされた。

 銅鐸鎔笵残欠は五箇あり、文様構成、材質、形状等から見て銅鐸一箇体の鎔笵の可能性が大きい。その場合、四箇が片面、残りの一箇が他の面となる。彫り込まれた銅鐸の文様は横帯文(おうたいもん)である。本例は鰭(ひれ)に複合鋸歯文(きよしもん)を持つが、この種の横帯文銅鐸は「邪視文(じやしもん)の横帯文銅鐸」と呼ばれ、現在四箇の類例がある。本鎔笵は、綾杉文(あやすぎもん)で区画された横帯文と、鳥が描かれる特徴から、伝島根県出土例に近似する。なお、鎔笵面には炭化物を塗型剤(とかたざい)として塗付した痕跡が窮える。

 銅矛鎔笵は三箇あり、そのうち現存長四九・三センチメートルを計る一箇(三片が接合)は、上面に袋部と見なされる彫り込みと、節帯(せつたい)の割付線が細線で施されたままの未製品で、その幅から中細形(ちゆうぼそがた)の鎔笵と考えられる。この鎔笵の左側面には、上面より古い中広形(ちゆうびろがた)の鎔笵の一部が残されているが、これは一般的な銅矛の形式変遷と矛盾し、検討を要する。他の二箇は、いずれも中広形銅矛の鎔笵残欠である。  これらの鎔笵は、共伴した土器から弥生時代中期末頃の製作と考えられる。また、本遺跡からは鎔笵と同じ材質の砥石(といし)が多量に出土しており、使用済の鎔笵をこれに転用した可能性もある。

 以上、本一括は、銅鐸と銅矛の鋳造が同時に、専業的に行われたことを示し、弥生時代の青銅器の供給と需要のあり方に新たな視点を提起する。特に、九州地方の「銅矛・銅剣文化圏」と、近畿地方を中心とした「銅鐸文化圏」という、これまでの理解に抜本的な再検討を迫るものである。また、九州における主要な青銅器産地のひとつを代表する文化財としても重要である。

−出典: 島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
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