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銅鐸金茶(きんちゃ)#f39800 最初のページ戻る次へ

破壊されたミステリー 銅鐸(どうたく)

破壊されたミステリー著名な銅鐸概念を覆す新発見銅鐸とは| 銅鐸は殺されたか

概 要

目次

  1. 砕かれた銅鐸見つかる!
  2. 久田谷銅鐸
  3. 気比銅鐸
  4. 女代遺跡と女代(めしろ)神社
  5. 岩船神社
 謎だらけの日本古代史にあって、とびきりミステリアスな歴史区分として、「銅鐸」を取り上げたいと思います。

砕かれた銅鐸見つかる!

 謎だらけの日本古代史にあって、とびきりミステリアスな出土品、それが銅鐸だ。

 まず、出土の状態からしてわからない。専門家によれば、銅鐸はそのほとんどが人目につかない山の中腹などで発見される。

 まるで、誰かの手で意図的に隠されたかのように。

 なかには、兵庫県豊岡市日高町久田谷の銅鐸破片など、故意の加熱や打撃により破壊されて出土する例さえあり、それらの時期は弥生時代中期から末期に集中しているという。

 一方で「古事記」「日本書紀」の記述−−−。

 記紀には、銅剣や銅鉾が姿を見せるにもかかわらず、銅鐸に関してはただの1文字すら記されていない点も大きな疑問だ。こうした事実はいずれも、古く畿内を中心に存在した銅鐸の文化と4世紀以降の古墳文化(ヤマト王権)の間に、大いなる断絶、戦争などの破局的事態があったことを物語はしないだろうか?歴史の記憶から抹消された銅鐸のミステリー、その背後には、「日本(ヒノモト)」という国名の誕生にまつわる、壮大な「アナザー・ヒストリー」が浮かび上がってくる。

−歴史研究家 谷川健一氏−

何々・・・?破壊された銅鐸がみつかったってそんなに珍しいものなんか?!

 ここから「気多(けた)とは何か?日高町の先住者、気多人はどこから来たのか?」という、以前から知ってはいたけど。興味のあったテーマにようやくとりかかることになってしまいました。

2.久田谷(クタダニ)銅鐸

砕かれた銅鐸見つかった久田谷遺跡 PHOTO:2002/05/16
久田谷(クタダニ)銅鐸発見付近 兵庫県豊岡市日高町久田谷タカボコ
 出土地は、神鍋に通じる旧道沿いと思われる付近で、昭和53年(1977)5月、県営ほ場整備の工事中、発見された。

 当時発見された銅鐸破片についてくわしく調査された結果が日高町史(資料編)に記載されています。

 -----

 久田谷遺跡で発見された銅鐸は、すべて5〜10センチ前後に砕かれ、復元が困難であるため高さ、幅、重量については明確にすることは困難である。しかし、銅鐸の破片が117片あり、

 ---これらの割口は古く、工事中に壊されたものではなく、壊された状態で廃棄、あるいは埋められた

 ----形式は弥生終末期-----遺跡の確認調査で出土した土器は、弥生後期から古墳時代であり、最近工事中に出土した土器は、弥生前期から古墳時代前期に至ることがわかった。

 また、銅鐸片の出土が発掘調査により、遺構内から出土したものではない-----

但馬国府国分寺館展示
但馬国府国分寺館銅鐸展示展
破壊銅鐸

 銅鐸は現在470口あまり確認され、その分布は北部九州から東海地方に及びます。なかでも、粉々に破壊された事例が見られます。破壊銅鐸は、この久田谷銅鐸を含め、兵庫県内4例をはじめ、大阪・岡山・鳥取・香川・奈良・滋賀・愛知・静岡・長野など30例あまり確認されています。

兵庫県内4例

  • 久田谷銅鐸(豊岡市日高町久田谷)突線紐5式鐸身3分の1程度117片

  • 女代銅鐸(豊岡市九日市上町女代)とっせん紐2式片側鰭(ひれ)部下端断片

  • 岩野辺銅鐸(宍粟市岩野辺)

  • 姫路市大井川第6地点


  • 但馬国府国分寺館銅鐸展示展(ピンぼけしていてすいません。)
     日高町久田谷遺跡で見つかった粉々に破壊された銅鐸片は、気比銅鐸よりも後の弥生後期のものとされ、組み立てれば120cmにもなる巨大な銅鐸だそうです。

    つまり

    誰かが故意に破壊し捨てられた可能性が高い!

    のです。
     ではなぜ、久田谷銅鐸はバラバラだったのでしょうか。その理由には、
    1. 砕いて別の銅製品の原料にした
    2. 砕くことで銅鐸を祀る「カミ」が比定された

    などの説があります。

    但馬国府・国分寺が置かれていた兵庫・日高町…
    但馬でも発掘される古墳の数や遺跡の多さ、
    社寺の数等では、但馬古代史の宝庫といわれています。

     そこでずっと興味があったこと…改めて「気多(ケタ)」という地名及びエリアの誕生にまで遡って考えてみることにしました。ここでは地元の豊富な遺跡や遺構をもとに、日高町という名称以前の地名であった「気多(ケタ)」という郡名、そしてこの土地をそう名付けた愛すべき我々の祖、古代人を、「気多人(ケタジン)」と呼ばせてさせていただき、史料を紐解き、素人だからこそ、独断と偏見?!で大胆かつ自由な仮説が展開できるのかも知れないと思います。

     私は単なる歴史が好きな一素人ですから、専門家ではないので、通説と異なることもあると思いますが、新発見をもとに「日本人のルーツ」を気多人という我が町にポイントをしぼって、考えてみる (そんなたいそうなつもりでもないのですが)ページです。

    6.岩船神社


    2005.7.22
    兵庫県豊岡市日高町道場

     地元周辺でも普段知らない場所がたくさんある。ぶらっと訪ねてみる。

     近所に久田谷という区がある。全国でも珍しい、粉々に破壊された銅鐸片が出土した場所でもある。そのそばを流れる稲葉川の対岸には、物部氏ゆかりの「磐船長命(イワフネオサノミコト)」を祀る岩船神社の小さな社があります。つい最近までそんなお宮さんが存在することも知らなかったのだ。

     稲葉川は、旧気多郡(ケタグン=日高町の全域と豊岡市・竹野町の一部)の、最も奥深い村落である稲葉(イナンバ)区から源を発し、但馬の大川、円山川(マルヤマガワ)に注ぐ郡域で最も大きな川。その銅鐸が発見された場所と神社を訪ねてみることにした。付近の人に聞いてみると、地元の区ではもう一つの神社が秋祭りや中心となっていて、この神社はまったく祭りや普段訪れる人はいない存在感のない小さな社だそうです。
     稲葉川を渡り、車が通れない幅の平坦な道を、川沿いにしばらく歩くと鳥居が見えてきます。鳥居をくぐると長い石段が続き、石段をくの字に右に曲がると社が見えてきました。社殿は、竹藪の中に北を向いて銅鐸発見場所の方を見守るようにひっそりと建っています。これは河内・日下や大阪交野市の磐船神社などと同じく、銅鐸のすぐそばに物部氏ゆかりの神社が存在することを実証しているような感触を得ました。

     石段を登りきり見渡せば、かつて弥生時代に群集落があったかも知れない久田谷の広い田園一帯が見渡せます。訪れた蒸し暑い真夏にあっても、静寂さを感じ、時が止まるようです。気多王と一族の栄華を誇ったであろう古代のロマンを、あたかも静かに見守っているかのようにも思えます。

    3.但馬地方で最初にして唯一の完全銅鐸 気比銅鐸


    銅鐸展 気比銅鐸 国府国分寺館(複製)左から4号、3号、2号

    銅鐸出土地。但馬地方で完全な
    銅鐸4個が見つかったのはここのみ。
     1912年(大正元年)9月、小学校を改築するために必要な石材をもとめて、豊岡市気比字溝谷(鷲崎)の石切場で銅鐸4個が発見されました。同年11月には、宮内省から東京帝室博物館(現東京国立博物館)へ着出の指令が出され、国指定重要文化財となっています。但馬地方で完全銅鐸が見つかったのは、現在でもここ一カ所のみです。

     この銅鐸は、気比川の右岸の路傍に立っていた巨岩の背面にある小岩窟の中に、河原石や貝殻類を敷き並べて、その上に置かれていたとそうです。いずれも弥生時代中期(前2〜前1世紀)の流水文の小型銅鐸で、その内の第3号鐸は縦横四区画をもつ特色ある文様構成をしています。当時、日本海側では初めての発見で古代史学者が注目しました。その内の第 3号銅鐸は縦横4区画*1をもつ特色ある文様構成をしています。この銅鐸の鋳型が大阪府茨木市の東奈良遺跡で出土しています。

     また、4号銅鐸は同府堺市付近で出たものと鋳型が同じであることが確認されており、別に明治大学にも同型のものが保管されていることから、陸路約200kmを隔てた間での交易が行われていたことが推測されます。銅鐸は弥生時代における最も謎の多い遺物で、どのように使われていたのかはっきりとわかっていません。気比の銅鐸は、質の良さ、保存状況の良好さ、出土状況が比較的はっきりしていることで重要な遺物です。

     但馬地方で、完全な形で発見された唯一の銅鐸の場所は、円山川の河口、豊岡市気比で、気比の浜という共通の地名が日本海には福井など数所存在する名前の入り江に注ぐ気比川と斜面の間です。近くには気比神社があります。久田谷銅鐸も久田谷川の小川が流れ斜面がすぐ近くに迫り、出土条件がよく似ています。出雲と越国が交流が深く、よく似た文明であるのなら、その途中の伯耆、因幡、但馬、丹後が特異な文明を形成していたとは考えにくいですし、現に出石町袴狭(ハカザ)で船団の様子が描かれた木簡が出土していますが、寄港地として気比や出石がすでに認知されていたと思われます。  また、1996年、加茂岩倉遺跡で出土した弥生時代の銅鐸34個のうち、新たに6個が文様や傷などから近畿や山陰で出土している銅鐸と同じ鋳型で造られた5組の“兄弟銅鐸”である可能性が極めて高いことが、難波洋三・京都国立博物館考古室長の鑑定でわかりました。これで同遺跡の“兄弟”は7組、計8個となり、一遺跡でこれだけ大量の兄弟銅鐸が出土したのは初めて。近畿と出雲など、弥生時代の各地の盛んな交流を裏付けるとともに、銅鐸の流通ルートの解明にもつながる貴重な資料となりそうです。
    銅鐸文様区画大きさcm同笵銅鐸(兄弟銅鐸)
    気比1号外縁付鈕2式2区流水文45.9
    気比2号外縁付鈕2式2区流水文44.2加茂岩倉5
    気比3号外縁付鈕1式縦型4区流水44.3東奈良R3鋳型
    気比4号外縁付鈕2式3区流水文44.8大阪府陶器北出土銅鐸(伝大阪府堺市)−明治大学1号(出土地不明)・加茂岩倉21
     加茂岩倉で新たにわかった兄弟銅鐸は、
  • 加茂岩倉5号−気比2号(兵庫県豊岡市)
  • 加茂岩倉21号−気比4号(兵庫県豊岡市)

    は兄弟である可能性が非常に高いといいます。

     このような同じ鋳型で作られた同笵銅鐸(兄弟銅鐸)が大量に一カ所で発見されたことは、畿内から八百万の神出雲大社のある出雲に集められ、集団的祭祀が行われたものなのか、あるいは出雲から畿内各地に運ばれたものなのかは分かりませんが、畿内に生産工場があり、各地に流通したというこれまでの定説が覆ってしまう大発見です。

    出典:脚注

    島根県教育庁埋蔵文化財調査センター
    島根県立古代出雲歴史博物館・雲南市・ウィキペディア
    *1…区画とは、方形に区切られた文様枠雲南市

  • 女代遺跡と女代(めしろ)神社

     1992年、女代神社前から鞄団地にかけての工事では、周知の遺跡(女代神社遺跡)の近接地で、豊岡市教委が現状確認に出向いた際、女代神社南遺跡の土から銅鐸の鰭部分の破片を発見しました。同時に採集した遺物は、弥生時代から中世までの時期幅のある土器片が若干みつかりました。その時の遺物散布状況や急遽実施した簡易な試掘による所見では、銅鐸片を含む採集遺物は遺跡の緑辺部にあたる比較的希薄な包含層のものと見られた。

     破片は、銅鐸の側面に取り付く鰭の一方の下端部分。両面に文様が鋳出されており、表面は緑青がふいて、淡い緑色を呈している。文様は明確に観察でき、2条の突線で縁取りがされた内部に鋸歯状の文様が1 1単位連続している。破片の中ほどの外部には、半円を2個並べた飾り耳が付いている。本体の長さは約1 3p、幅約2p、厚み1 . 5?3m mを測り、飾り耳は幅2p、高さ1 . 3pのものが2連取り付いている。重さは約4 0gであった。上端の折れ曲がりは比較的新しい可能性もあるが、本体と接合していた部分の破断面の状態をみると錆も古く、破損の際の力の作用からか一方向にわずかな盛り上がり(歪み)が観察できる。こうしたことから、意識的に破砕された銅鐸の例(いわゆる破砕銅鐸)である可能性がきわめて強い。

     この段階の例としてはかなり小型である。聞く銅鐸から見る銅鐸への変換時期の資料として貴重な例である。時期的には気比銅鐸より新しく、日高町久田谷銅鐸より古く位置付けられ、但馬地方では新形式の銅鐸である。破片で見つかった例は全国に約20例あり、突如銅鐸が用いられなくなることの意味を考える上で、こうした破砕銅鐸の実態が注目されている。−豊岡市教育委員会−

    兵庫県豊岡市九日市上町460-1
    但馬国城崎郡 式内社
    御祭神:「高皇産靈神」(タカミムスビノミコト)

    円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。


    社殿
    御由緒 当社は延喜式神名帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。 円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神 は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。子に八意思兼神(ヤゴコロオモイカネノカミ=知恵の神)、萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)がいる。往古祝融の災害により創立年月詳不明ですが古社であることは確か。

     仁寿元年正月(文徳帝御宇・西暦八五一年) 、当時境内地は五町四面と伝えられており、広大なものでした。古くは浮島明神と称せられ、神殿が田圃の低地にありながら、円山川の氾濫に際しても未だ浸水したことはなく、ことから浮島の名称が付けられたようです。


    摂社 八神社
     天正五年(安土桃山時代)に社頭は没収せられ、祭祀は衰えました。寛永六年( 江戸時代初期)、神主住宅並に社務所・宝庫焼失し、当時の古文書はことごとくなくなりました。その後明和三年(徳川時代中期)、古社改築。

     文化五年(徳川時代後期)、神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる。神祇官 西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実にあります。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため、現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものです。

     女代遺跡から銅鐸片が見つかった。但馬で発見された銅鐸3箇所のひとつ。


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