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丹国ものがたり

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丹のくに伝説

目次

  1. イザナギとイザナミ

  2. たじま

  3. たんご

  4. たんば

  5. いずも

徐福伝説

 今から2200年前、我が国では弥生時代の初期、人皇七代孝霊天皇の御宇(ぎょう)のころです。

 中国では秦の始皇帝が春秋戦国の六ヶ国を統一し諸国を巡行、山東半島琅邪台に登って海を見て楽しんでいました。そこに斉の方士徐福が現れ皇帝に書を奉って「海中に三神山があり、これを蓬莢・方丈・瀛州といいます。

 此処には仙人がいて不老不死の薬を練っています。斎戒して童男女と共にこれを求めてまいりましょう。」

と言いました。

 始皇帝は大いに喜び、徐福に童男童女三千人、五穀の種子、百工を与え東海に船出させました。

 しかし、徐福はついに帰らず、そこに止まって王となったと司馬遷の史記は伝えています。徐福東渡の伝説は日本各地に伝えられていますが、新井崎もその一つで、求めた仙薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬でした。 ここに伝わる新大明神口碑記には、徐福の来意を不審に思う邑長に、徐福が渡来の目的や秦の都咸陽宮のことなど詳しく物語ったと残されています。

 またその中には「丹後奥郡澄之江の里は龍宮城と同所にして異名なり」というくだりのほかに、史記は勿論、葛洪の抱朴子や列子の沖虚至徳真経などが登場し深く興味の持たれるところです。

 徐福はこの地に住みつき、医・薬・天文や占い、漁撈や農耕の技術を教え、住民に慕われ、死後産土神として新井崎神社に祀られたと伝わっています。

 神社の真東にある冠島と沓島。その中で冠島は常世島とも呼ばれ、冠と沓を残して仙人となるという道教の尸解仙を表していると言われています。

徐福(じょふく)とは

 徐福は紀元前219年、若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが、実は徐福が伝えたのではないかとも思え、徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされ、殆ど同時期に銅・鉄器製品や製法が伝わったとされる。徐福が日本の国造りに深く関わる人物にも見えてくるのである。

 船に乗っていたのは,青年男女数千人と機織り職人,紙職人,農耕技術者,漁業特に捕鯨などの専門家,木工技術者,製鉄技術者,造船技術者など生活に関わる技術を習得しているもの多数でした。そして、何日もの航海の末にどこかの島に到達しました。実際、徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが、司馬遷の『史記』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述があります。

 この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

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