北近畿鉄道物語


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銀の馬車道〜播但鉄道〜JR播但線

目 次

  1. 日本最初の高速産業道路 「生野鉱山寮馬車道」
  2. 播但鉄道
  3. 国鉄播但線
  4. JR播但線
  5. 急行 但 馬
  6. 特急はまかぜ
  7. 播但線沿革
 播但線(ばんたんせん)は、兵庫県の中央部を流れる市川・円山川に沿って山陽本線と山陰本線を結ぶ、その名の通り陰陽連絡路線。日本の鉄道開業は、日本初の鉄道路線である新橋駅〜横浜駅間が、1872年(明治5年)9月12日である。

1.日本最初の高速産業道路 「生野鉱山寮馬車道」

 「銀の馬車道」は、日本最初の高速産業道路というべき馬車専用道路が、当時日本三大鉱山としての生野銀山と飾磨港の間、約49kmに1876年(明治9年)開通した。官設の馬車道で、生野鉱山道とも言う。正式には「生野鉱山寮馬車道」。

 1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まった。道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われた。この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われている。

 完成から約130年がたった今では、播但鉄道(現在のJR播但線)開通により物資輸送が鉄道にかわり、馬車道としては1921年(大正9年)に廃止となったが、その後も道路として利用された。現在でも国道312号などの一部に当時の面影を残している。一部は新幹線姫路駅になっている。


2.播但鉄道

  1887年(明治20年)内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、将来は蒸気鉄道にする計画だった。

 この頃、舞鶴を目指す鉄道計画が、播丹鉄道(飾磨〜生野〜福知山〜舞鶴。播但線の前身である播但鉄道とは別))をはじめ、京鶴鉄道(後に京都鉄道となる、京都〜園部〜舞鶴)、摂丹鉄道(尼崎〜福知山〜舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪〜池田〜園部〜山家〜舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪〜池田〜綾部〜舞鶴)、南北鉄道(加古川〜氷上〜舞鶴)と6社の出願するところとなったが、乱立および計画不十分によりいずれも却下された。

 (ここに見える播丹鉄道と地元資本による馬車鉄道の関係は資料によって異なる。)

 播但鉄道の設立は1893年(明治26年)で資本金は当初100万円、のち180万円。本社は、初め東京市京橋区(現中央区の一部)日吉町に設置されたが、その後さらに飾磨郡国衙村に移転している。

 和田山への敷設の仮免許は1894(明治27年)7月、本免許が1896年(明治29年)5月に下付された。そしてさらに1894年(明治27年)7月には、兵庫県津居山(現在の豊岡市、円山川の河口付近)への延長を出願した。この延長も京都鉄道、但馬鉄道との競願になったが、1896年(明治29年)5月に仮免許、翌年8月に本免許が下付された。

 しかしこの後の経営は免許前の井上勝の具申書で予想されたように苦しく、生野〜新井間の工事に着工したが、この区間は途中難工事が多く、そのため、1901年(明治34年)8月に新井まで開通したところで建設を終了した。
1902年(明治35年)には、和田山-津居山間の敷設免許を返納。そして、翌年3月には山陽鉄道と売却の仮契約を結び、播但鉄道は解散することとなった。払込資本金113万円、社債86万円に対して山陽鉄道の年利6%の社債140万円が交付。
 1903年(明治36年)5月30日に引き継がれた線路設備は路線35M57C、機関車6両、客車26両、貨車82両だった。開業駅は、飾磨−天神−亀山駅−豆腐町−姫路−京口−野里−仁豊野−香呂−溝口−福崎−甘地−鶴居−寺前−長谷−生野−新井。

 その後、新井〜和田山間は山陽鉄道によって建設、1906年(明治39年)開業した。


3.国鉄播但線

旧和田山機関庫
1912年(明治45年)3月に建築されたもので、旧豊岡機関区和田山支区のレンガ造りの車庫と給水塔が現在も残されている。車庫は1991年(平成3年)3月に支区が廃止されてからは倉庫として利用されている。屋根に「ふれあい リゾ−ト 北近畿」と書かれいる。たしかこの看板で「北近畿」というフレーズをはじめて知ったと思う。
 1906年(明治39年)12月1日、鉄道国有法により山陽鉄道は国有化、飾磨〜和田山間は官設鉄道の一部となり、後に播但線と名称が定められた。播但線を延伸する形で敷設された山陰本線の東部分、当時の山陰東線と合わせて陰陽連絡路線の一つが完成した。

 播但線でも貨物扱いがあったが、線路規格が弱く、生野の峠を越えるため1000分の25の急勾配で、補機を設けていた他、C57の回送運用を兼ねて3重連牽引(私もさようならSL三十連に中学の時、カメラとカセット録音で乗車した。)もしばしば見られた。

 生野峠での補機には、1960年(昭和35年)よりDF50型ディーゼル機関車が、また1969年(昭和44年)からはDD54型ディーゼル機関車が用いられた。1972年(昭和47年)の無煙化後は、山陰本線より転属してきたDD54型が旧型客車を牽引していたが、故障が多発していたため1979年(昭和54年)までに順次DD51型ディーゼル機関車やDE10型ディーゼル機関車に置き換えられた。

4.JR播但線


寺前 - 和田山間の非電化区間で使用されているキハ41形(キハ40系気動車の両運転台改造車)気動車
 姫路駅を除きJR西日本福知山支社の管轄である(うち、同支社直轄の和田山駅以外は福知山支社管轄の福崎鉄道部が管轄する。なお姫路駅は神戸支社の直轄)。

221系電車
 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の時には、東海道・山陽本線が寸断され、朝早いこともあり、車両が姫路方面の車両基地にあったため、加古川線(当時は非電化)と共に、迂回路線として使われていた。

 古いトンネルが多く、開口面積が小さかったので、パンタグラフを外して、ディーゼル機関車で牽引して福知山運転所まで回送し、そこでパンタグラフを取り付けて福知山線方面へ自力回送した。なお、生野駅 - 新井駅間の生野トンネルは、特に開口面積が小さく、超低速で、かつトンネルの壁などに当たらない様に監視しながら通り抜けたようである。


2006年11月2日まで朝の通勤ラッシュ時間帯に使用されていた103系0番台R10編成103系電車
電化以前は基本的に姫新線と共通の運用であり、車両についても同じ運用であった。 また、姫路駅で山陽本線(JR神戸線)に接続しているが、機関車等は福知山機関区の所属機を運用していたため、いずれも寒冷地仕様であった。

姫路 - 寺前間の電化区間で主に使用される103系3500番台電車 智頭急行智頭線が開通して以降、この路線を走る優等列車は特急「はまかぜ」のみとなり、それ以外では地域輸送が主体となっている。普通列車については電化区間である姫路 - 寺前間と非電化区間である寺前 - 和田山間に運転系統が分かれており、全線を通して運転される列車はない。また姫路 - 福崎間の区間運転もある。

 電化後、普通列車は主に103系3500番台が使用されており、うちH6編成は2008年(平成20年)3月から「銀の馬車道」のラッピングを施して運転されている。


5.急行 但 馬


キハ58
 まだ蒸気機関車が主力で走っていた1960(昭和35)年頃、但馬地方と姫路・京阪神を結ぶ急行「但馬(たじま)」号が生まれた。昭和35年10月にDC準急として生まれ、昭和41年3月5日に急行に昇格した。

 最初はキハ28、キハ26などの3両編成で準急「たじま」上下1本で、昭和36年10月1日に漢字表記の「但馬」に変更となり、昭和37年3月1日ダイヤ改正で、播但線経由大阪〜鳥取(下り1号、上り1号)と姫路〜浜坂(下り2号、上り2号)の計4本運行となった。

 昭和38年10月1日からは、準急「但馬・みまさか(上下但馬1号・上下みまさか1号)」として、大阪→鳥取・新見(下り但馬1号・下りみまさか1号)となり(みまさか3両、たじま9両、計12両連結車)、しかもM1号車は大阪〜津山、M2、3号車は大阪〜新見、T1〜3号車は姫路〜豊岡(但馬)、T4〜9号車は大阪〜鳥取(但馬)と、準急「きのさき・但馬・丹後」京都・姫路←城崎・天橋立・浜坂(上りきのさき・上り但馬2号・上り丹後4号)が誕生。3〜1号車は姫路〜浜坂(但馬)、A1〜A3号車は京都〜城崎(きのさき)、1〜6号車は京都〜天橋立(丹後4号)を12両連結(和田山駅連結)した列車だった。

 昭和39年10月1日の改正で、準急「但馬・城崎」姫路・京都←浜坂・城崎(上り但馬2号・上りきのさき)7両編成A3〜A1号車は京都〜城崎(きのさき) 、1〜5号車は姫路〜城崎(但馬)、準急「但馬・みまさか」10両大阪→鳥取・新見(下り但馬4号・下りみまさか1号)、*印の付いた1号車は大阪〜津山(みまさか)、*印の付いた2、3号車は大阪〜新見(みまさか)、6〜12号車は大阪〜鳥取(但馬)、1〜5号車は姫路駅から「みまさか」を切り離した後、5両連結し12両編成姫路〜豊岡(但馬)となります。大阪〜鳥取・新見(上り但馬1号・上りみまさか1号)13両(3両みまさか、10両但馬)。昭和41年3月5日改正で「急行」に昇格となります。

 昭和43年10月1日改正から、急行「但馬・伯耆・みまさか」大阪〜米子・中国勝山・城崎(上り伯耆2号・上りみまさか3号・上り但馬3号)が誕生。1〜6号車は大阪〜城崎(但馬)、5両は大阪〜米子(伯耆)、2両は大阪〜中国勝山(みまさか) が誕生しますが、昭和45年10月1日に消滅。急行「但馬・みまさか」のみまさかは6両編成に変更。上り「但馬1号・上りみまさか1号」の姫路〜豊岡(但馬)は2両に変更。

1996(平成8年)3月に廃止された。
 2004(平成16年)5月2日、1961年にデビューし、全国の急行列車として活躍したキハ28・58系の車両が2日、懐かしい国鉄時代の塗色で復活、急行「但馬」として大阪−豊岡(兵庫県)間を走った。

6.特急はまかぜ

 はまかぜは、西日本旅客鉄道(JR西日本)が大阪駅〜香住駅・浜坂駅・鳥取駅間を東海道本線・山陽本線・播但線・山陰本線経由で運行する特急列車。兵庫県の但馬地方と県西部の中心都市・姫路市や県都・神戸市を結ぶ役割を持つ。

 「まつかぜ」が廃止され、大阪・神戸対但馬・鳥取県東部直通列車が唯一となった。1986(昭和61)年より1994(平成6)年までの「スーパーはくと」運行まではその存在理由がはっきりとしていたが、智頭急行線開業以降同線を経由し、大阪・神戸対鳥取県東部直通では速達列車となった特急「スーパーはくと(153分)運行以降は、京阪神方面から鳥取駅へ行く場合は、1往復運転されているこの列車(267分)を使用するより智頭急行線の「スーパーはくと」(7往復)を利用する方が圧倒的に速く、運賃・料金も若干安価である。

   また、尼崎(大阪)〜和田山駅間では、同じような時間帯に福知山線経由のエル特急「北近畿」が運行されており、先発の「はまかぜ」より後発の「北近畿」または、福知山駅乗換で「きのさき」か「タンゴエクスプローラー」・「文殊」の方が先着する事例もある。  2006年(平成18年)3月の寝台特急(ブルートレイン)「出雲」廃止後、余部鉄橋を通過する鳥取までの優等列車はこの「はまかぜ」のみとなっている。

 鳥取駅発着の06:05発「はまかぜ2号」は後発の06:39発「スーパーはくと2号」(智頭急行)に先着されている。また、08:53発「スーパーはくと4号」は、「はまかぜ5号」の約2時間後に大阪駅を発車するが、鳥取駅到着は5号のわずか55分後である。

 しかし、2・5号は運行上鳥取発着であるが、他は香住駅・浜坂駅発着となっており、非電化区間の城崎温泉以西の但馬北西部の利用が主目的であるため。


余部橋梁
 京都総合運転所所属のキハ181系を使用する唯一のJRの定期列車。同系列は車両の老朽化が目立つため、新型車両への置き換え計画が挙がってもおかしくない状況であるが、現在の所、具体的な計画はまだない。そのため、 JRの気動車特急の中では最も古い車両を使用していることとなるが、逆に人気は高く、大阪駅や姫路駅などでは「はまかぜ」を撮影する鉄道ファンが日々増加している。現在国鉄時代に気動車優等列車に利用されていた「アルプスの牧場」の車内チャイムが今でも聴けるのも臨時列車を除けばこの列車だけである。

 新大阪から大阪・神戸、姫路までは複々線の東海道本線・山陽本線を並行して走る快速電車をディーゼル気動車ながら特急のメンツたりと懸命に走る(大阪駅〜姫路駅間 時速120km/h)姿は可愛いい。神戸港や瀬戸内海・明石海峡大橋が眺められ、姫路駅で進行方向が反対になる。播但線からは姫路城、難所の生野峠越え、城崎温泉、そして日本海とリアス式山陰海岸、桃観トンネル(山陰本線一長い)や余部鉄橋(高さ日本一)を通過する車窓は実に多彩で楽しい列車だ。「夢千代日記」(NHKドラマ人間模様・浜坂駅)「ふたりっ子」(1996年度下半期にNHK連続テレビ小説。香住町・城崎町)「砂の器」(TBS・鎧駅・鎧海岸)のロケ地の雰囲気が楽しめる(冬季余部鉄橋が強風で香住〜浜坂間が運行停止することがある)。


掛け替え工事
 夏休みなどの長期休暇や冬季のいわゆる「カニ食い(ツアー)列車」などの多客時や臨時列車として、車両の貸し出しや臨時列車の運転(増発)、車両が1〜4両増結される機会が多い。ただし「かにカニはまかぜ」については、最近は増発ではなく定期列車の増結で対応するようになっている。

 

運転本数・列車番号

大阪駅〜香住駅間 1往復(3・6号 多客時は浜坂駅まで延長) 大阪駅〜浜坂駅間 1往復(1・4号 1・4号の姫路駅〜浜坂駅間では、車内販売も行われている) 大阪駅〜鳥取駅間 1往復(2・5号) 大阪駅〜浜坂駅間 1往復(88・89号 ※多客臨時列車) 大阪駅〜香住駅間 1往復(「かにカニはまかぜ」※冬期臨時列車)


餘部鉄橋を通過するはまかぜ(画像:JR西日本)
停車駅

()内の駅は一部列車が臨時停車。
姫路駅では構内配線の関係で走行する方向が変わる(スイッチバック)。
大阪駅 - 三ノ宮駅 - 神戸駅 - 明石駅 -(加古川駅) - 姫路駅 - 福崎駅 - 寺前駅 - 生野駅 - 和田山駅 - 八鹿駅 - 江原駅 - 豊岡駅 - 城崎温泉駅 - 竹野駅 - (佐津駅) - 香住駅- (餘部駅) - 浜坂駅 - 岩美駅 - 鳥取駅  1971年(昭和46年)、キハ80系を使用し、臨時特別急行列車「ゆあみ」が秋季、「はくぎん」が冬季のそれぞれ週末に運転され、臨時ながら初めて播但線で特別急行列車を運転した。「はまかぜ」登場前の慣らし運転的意味あいも兼ねていたとされる。

 同年3月15日、同区間特急「はまかぜ」新大阪〜倉吉(下り1号、上り2号)、大阪〜鳥取(下り2号、上り1号)が誕生。車両は気動車にキハ82が前後ろ各1両ずつとキロ80が1両、キハ80が3両の計6両編成。

桃観トンネル  1972年(昭和47年) 福知山線経由の特急「まつかぜ」の補完列車として、キハ80系を使用し、新大阪駅・大阪駅〜鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由となる特別急行列車「はまかぜ」の運転を開始。

 「はまかぜ」は播但線内を無停車で運転されたため、急行である「但馬」との差別化は計られていた。

 1973年(昭和48年)10月1日、新大阪〜倉吉(下り1号、上り2号)が7両に増設、昭和50年3月10日に下り1号、上り2号が、6両になり新大阪〜米子なで延長されましたが、昭和51年10月1日には再び新大阪〜倉吉となる。

 1982年(昭和57年7月1日から1984年(昭和59年)1月31日まで大阪〜倉吉(1、4号)が8両編成になり、1985年(昭和60年3月14日から新大阪・大阪〜鳥取に変更、1986年(昭和61年)11月1日から上下合わせて計6本に、1、6号は新大阪〜倉吉に。3・4号は米子までとなる。

 1988年(昭和63年3月13日から5両編成になる。

 1994年(平成6年)12月3日から大阪〜浜坂(1、4号)、大阪〜鳥取(3、2号)の計4本となる。

 1996年(平成8年)3月16日から大阪〜浜坂(1、4号)、大阪〜城崎(3、6号)、大阪〜鳥取(5、2号)で全4両編成に、1997年(平成9年)3月8日、3、6号は大阪〜香住までに延びた。


7.播但線沿革

播但線沿革
1876年(明治9年)現在の姫路市飾磨(しかま)〜生野(いくの)銀山間には日本初の高速道路というべき「生野鉱山寮馬車道」が整備
1887年(明治20年)11月5日内藤利八、浅田貞次郎ら生野飾磨間馬車鉄道敷設願を知事に提出
1888年(明治21年)5月31日馬車鉄道認可
1889年(明治22年)10月18日 飾磨〜生野間の蒸気鉄道敷設を出願
1893年(明治26年)3月8日鉄道敷設の仮免許
 〃 5月30日 測量が完了し、鉄道敷設の免許出願
 〃 6月30日 鉄道敷設の本免許
 〃 7月 播但鉄道会社設立
1894年(明治27年)2月飾磨〜生野敷設工事開始
 〃 7月 生野〜和田山間の仮免許
 〃 7月26日姫路〜寺前間開業
1895年(明治28年)4月17日長谷〜生野間、姫路〜飾磨(後の飾磨港)3M31C開業
1896年(明治29)年5月23日 生野〜和田山の敷設本免許
1897年(明治30年)8月25日 和田山〜津居山間の本免許
 〃 10月30日 生野〜和田山間の本免許
1901年(明治34年)8月29日 生野〜新井間開業
1902年(明治35年)3月10日 和田山〜津居山間の工事竣工期間経過により免許返納
1903年(明治36年)5月31日播但鉄道解散
1903年(明治36年)6月1日山陽鉄道による営業開始
1906年(明治39年)4月1日新井〜和田山間開業、播但線全線開通
 〃 12月1日 山陽鉄道国有化
1952年(昭和27年)大阪駅〜城崎駅(現:城崎温泉駅)間を播但線経由で運転する臨時快速列車「たじま」が設定される。
1953年(昭和28年)大阪駅〜城崎駅間を播但線経由とする臨時快速列車「ゆあみ」の運転を開始する。 週末運転で下りは金曜日、上りは日曜日運転であった。
1955年(昭和30年)「たじま」定期列車化。
1956年(昭和31年)「たじま」上り始発駅を香住駅に変更。
1958年(昭和33年)「たじま」浜坂駅まで運転区間を延長。また、臨時列車「ゆあみ」を準急列車化。
1959年(昭和34年)4月6日生野 - 長谷間で蒸気機関車牽引の回送列車が脱線転覆。播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故。
1960(昭和35)10月但馬地方と姫路・京阪神を結ぶDC準急「但馬(たじま)」号が生まれた。同時に運転区間も大阪駅〜鳥取駅間に変更。
1960年(昭和35年)「たじま」準急列車に昇格。
1961年(昭和36年)「たじま」名称を漢字書きの「但馬」に変更。
1962年(昭和37年)「但馬」に姫路駅発着列車が設定される。
1965年(昭和40年)「ゆあみ」の名称を「但馬」に変更。また、1往復増発され、「但馬」4往復での運転となる。 但し、大阪駅発着は2往復のままで、運転区間も従来の「たじま」・「ゆあみ」を踏襲する形で運転。
1966年(昭和41年)準急列車制度の変更により「但馬」 急行列車に昇格。
1971年(昭和46年)キハ80系を使用し、臨時特別急行列車「ゆあみ」が秋季、「はくぎん」が冬季のそれぞれ週末に運転され、臨時ながら初めて播但線で特別急行列車運転。「はまかぜ」登場前の慣らし運転的意味あいも兼ねていたとされる。
1972年(昭和47年)福知山線経由の特急「まつかぜ」の補完列車として、キハ80系を使用し無煙化(ディーゼル車)、新大阪駅・大阪駅〜鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由となる特別急行列車「はまかぜ」の運転を開始。「はまかぜ」は播但線内を無停車で運転されたため、急行である「但馬」との差別化は計られていた。
1975年(昭和50年)「はまかぜ」倉吉行を米子駅行きに変更し、鳥取・米子〜小郡間に新設された特急「おき」との共通運用を開始。
1976年(昭和51年)「おき」の使用車両がキハ181系に変更された為、米子行きを倉吉行きに再変更。
1982年(昭和57年)「やくも」電車化に伴う余剰車両を割当てる形でキハ181系に車両変更。
1984年(昭和59年)2月1日飾磨港 - 飾磨間の貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)「はまかぜ」全列車鳥取駅発着となる。
1986年(昭和61年)福知山線電化に伴い特急「まつかぜ」の運転が終了。これをカバーする目的で倉吉駅・米子駅発着列車を運転開始。また、「但馬」については大阪駅〜豊岡駅間運行の列車と姫路駅〜浜坂駅間の2往復に減少する。
1986年(昭和61年)11月1日飾磨港 - 姫路間 (5.6km) が廃止。
1987年(昭和62年4月1日国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。姫路 - 和田山間の貨物営業廃止。
1989年(平成元年)「但馬」 大阪駅乗り入れを臨時列車に格下げ。定期列車は全列車姫路駅発着となる。
1991年(平成3年)11月1日ワンマン運転開始。
1992年(平成4年)客車列車全廃。北陸地区より転属したキハ58系初期型を改造したキハ58系5500番台車(オールロングシート改造車)投入。
1993年(平成5年)全列車大阪駅発着となる。
1994年(平成6年)智頭急行智頭線開業。特急「スーパーはくと」運転開始により、運転区間を大阪駅〜浜坂駅・鳥取駅間と短縮。3往復から2往復へ減便し、大阪駅〜浜坂駅間、大阪駅〜鳥取駅間各1往復とする。
1995年(平成7年)阪神大震災の影響により1月17日より3月31日まで全便全区間運休。
1996年(平成8年)姫路駅発着で同区間を運転していた急行「但馬」2往復のうち1往復を大阪駅まで延長の上、「はまかぜ」に格上げして城崎駅(多客期に限り香住駅)発着とし、残りの1往復は廃止とする。これによって「但馬」は定期列車としての運行を終了することとなり、大阪駅乗り入れの臨時「但馬81・82号」も「はまかぜ81・82号」として特急に格上げ。 それまで播但線内無停車であったが、この時より播但線内の福崎駅及び寺前駅に停車、特急料金も大阪駅〜浜坂駅に関しては急行廃止の救済も兼ねて割安なB特急料金が新たに導入されることとなった。また、このころより「はまかぜ」の性格も兵庫県内移動が主体となる。
1998年(平成10年)姫路〜寺前間電化。「はまかぜ」播但線内の停車駅に生野駅を追加。
2006年(平成18年)山陰本線余部鉄橋架け替えに伴う記念事業「鉄橋サミット」開催に伴う輸送列車として姫路駅〜浜坂駅間を運行する急行列車「あまるべ」が運行。 使用車両は、キハ58・キハ282両一組の4両編成。金沢総合車両所・越前大野鉄道部所属車の国鉄色を用い、全車座席指定席で運行された。
2006年(平成18年)4月1日姫路 - 和田山間の全通100周年記念セレモニーが和田山駅で行われ、特製ヘッドマーク掲出運転や様々な記念関連イベント開催。
2008年(平成20年)12月22日姫路駅付近(約1.3km)が高架に切換予定。

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