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飛鳥曙色(あけぼのいろ)#f19072 最初のページ戻る次へ

大化改新

目 次

  1. 大化の改新
  2. 「日本」という国号
  3. 天皇という称号
  4. ヤマト政権の地方官制
  5. 白村江の戦い

大化の改新

 622年に聖徳太子が没し、ついで628年には推古天皇も逝去しました。その皇位継承をめぐる対立に乗じて、蘇我氏はさらに勢力を拡大していきます。その過程で太子の一家も滅ぼされてしまいました。  蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されています。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)でありました。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにしました。

 孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握りました。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させました(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たりました(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。

 皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、その父で大臣の蘇我蝦夷(えびす・えみし)を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼしました(乙巳の変(いっしのへん)。こうして蘇我氏は急速に没落、新たに即位した孝徳天皇は中大兄皇子を中心に、律令制度に基礎を置く「大化の改新」が断行されます。ちなみに「大化」は日本において初めて立てられた年号です。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月に新しい難波宮(大阪市)で改新の詔を宣して、着々と中央集権的な統一国家が形づくられていくのです。(大化の改新

 その後も、これまでの蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めました。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとあります。

 しかし、改新の詔はのちの律令などによって文章が様々に装飾されているので、そのまま信じることはできませんが、人口・土地の調査を行い、地方行政区画の「郡」を設置するなど、中央集権化を進める諸政策が打ち出されていきました。

 663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗しました。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなりました。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置きました。666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進みました。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移されました。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれています。

 仏教もこれを契機として、保護と統制が時代が下がるにつれて強まります。「大宝律令」(701年完成)の「僧尼令」は、唐の「道僧格」等に倣ったもので、全体は二十七条からなり、各条ごとに違反した場合の罰則が付けられています。重いものは教団追放、あるいは還俗、軽いものは苦使(掃除や建物の修理などの肉体労働)となっています。

 ところで、国家にとって仏教界の統制が重要な問題の一つになったということは、裏返せば、その大きさと力が無視できない、放ってはおけないものになってきたということなのです。ある記録によれば、例えば寺院の数は、推古天皇三十二年(624)に46であったものが、持統天皇六年(692)には545に達したとされます。約七十年の間に約十二倍に増加しているのです。

それらの中には、百済大寺(大安寺)のような官寺もありますが、ほとんどは各氏族が祖先崇拝の念にもとづき、一族の繁栄と仏神の加護を祈って建てた氏寺(うじでら)でした。

 しかし、斉明天皇六年(660)、詔によって大規模な任王般若会が行われたころから、諸寺は次第に護国的な役割を伴わせ持つようになります。天武九年(680)、初めて『金光明教』の講説を行うことが宮中および諸寺に求められました。これによって奈良仏教の鎮護国家的な性格は、決定的に重要な特徴となったと推測されます。舎利塔中心から金堂中心へと伽藍配置の変化もみられます。

「日本」という国号

 この時代前後に「倭国(倭:ヤマト)」から「日本」へ国号を変えたとされています。日本列島が中国や朝鮮半島に対して東側、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられています。

 建国は、紀元前660年2月11日とされていわれていますが、「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられています。具体的には、天武天皇治世(673年-686年)において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されています。

 7世紀後半は唐が対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期でした。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられていますが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説です。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至りましたが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説です。

 8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されています。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できます。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としています。

天皇という称号

 天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていました。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御コ)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称しました。

 「天皇」号をはじめて採用したのは、推古天皇という説も根強いですが、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とされていますが、近年の研究では、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されたことにより、それまでの「大王」から「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力です。天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなります。伝統的に「てんおう」と訓じられていました。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされています。大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一されました。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」「大日本帝国皇帝」が多く用いられていました。完全に「天皇」で統一されていたのではないようです。

ヤマト政権の地方官制


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   天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こりました。672年(弘文元)壬申の乱が起こりました。この戦いは、日本古代最大の内乱であり、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となりました。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めました。

 即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指します。官僚機構の整備として宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにしました。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもありました。また、官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定めました。さらに八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大しました。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革しました。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行いました。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達されました。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を一人も置きませんでした。

 外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)により、新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶しました。

「天武天皇 九つの偉業」

  1. 1. 天皇号の創始
  2. 2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置
  3. 3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
  4. 4. 践祚大嘗祭の制定
  5. 5. 宮都の選定と設計
  6. 6. 八色の姓の制定
  7. 7. 飛鳥浄御原令の制定
  8. 8. 三種の神器の制定
  9. 9. 伊勢の遷宮の制定・開始
 672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移しました。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行いました。

 681年(天武10年)には、律令の編纂を開始しました。5年後の686年(朱鳥元年)に天武天皇は没しました。8年後の689年(持統3年)に諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定されます。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられています。

 人民支配のための本格的な戸籍づくりも開始されます。690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となりました。692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施しました。

 694年(持統8年)には藤原京に都を定めました。唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定されました。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による支配体制が完成しました。これをもって、一応の古代国家成立とみます。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われました。

 701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされています。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えました。

 このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されています。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されています。

白村江の戦い

 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いです。戦いは唐・新羅連合軍の勝利に終わりました。大陸に超大国唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、その後の倭国(日本)にも大きく影響しました。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多いですが、中国・朝鮮側では「白江」と表記されます。

 668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となります。670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進しました。また、東国に柵を造りました。

 白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来しました。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されています。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていました。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになりましたが、日本はこれを認めませんでした。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれました。

 737年には新羅征討が議論に上りますが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなりませんでした。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を背景に、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備しています(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったのですが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなりました。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされています。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えましたが、新羅商人の活動はむしろ活発化しています。

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